第3話 あなたの過去、ください
屋上に出てみると、自分が思っていたよりも風はなく、ジリジリとした暑さがありとあらゆる角度で攻め立ててくるのが肌で感じられた。
相変わらず空は晴天で、日光を遮る雲たちも、今はすっかり薄く筋のように伸びていて、緩衝作用は期待できそうもない。
仕方がないので、ついさっき出てきた扉から、弱った吸血鬼さながらに壁伝いに回り込んで、ちょうど日影になっている位置へと腰を下ろす。
元々人目につかない屋上だが、その隅へと身を置いたのだから、そう簡単には見つかることはないだろう。
夏用の薄手の生地が、コンクリートの冷めた触感を、何のためらいもなく伝えてくる。
上半身は未だに温室状態だが、日向よりは格段に過ごしやすい。
シャツの第一ボタンを外して、首回りを更に楽にする。
少し引っ張ってシャツと身体の間に空間を作り、手押しポンプの要領で外気を送り込むと、一時的にではあるが心が洗われるような気分になる。
それでも完全に心が休まらないのは、やはりこの場へ出た理由にあるだろう。
ズボンのポケットに手を突っ込み、中から若干シワの寄った封筒を取り出す。
形状は雑貨屋にもよく置いてある茶色の細長いタイプだ。
明かりに透かせば、中に折りたたまれた便箋が入っているのは容易に見て取れる。
どうして白い封筒を買わなかったのか、今更になって後悔する。
封筒のひとつやふたつ、ケチったところで何の得もないのに、貧乏性な自身の性分に嫌気を通り越して呆れさえ覚えてくるくらいだ。
しかし、この乾ききった口から漏れたのは、笑いにもならない中途半端な吐息だった。
そして意識しないようにしていても、頭に浮かんでくる自身の思い出に、自然と表情は歪んでしまう。
理不尽、不条理、圧力、差別に私刑。
今まで自分が受けてきた行為が、その封筒の中から流れてくるような気がして、思わず手を開いてしまう。
押さえを失った封筒は、そのまま一度浮遊する素振りを見せつつも、すぐにコンクリートの大地へと寝そべった。
その様が、近い将来そうなるであろう自分の姿勢と重なって見えて、ごくわずかではあるが、寂しさを覚えた。
もし、これで自分が消えたとして、少しでも世の中は変わるのだろうか。
実際には何も変わらなくて、社会は動き続けるのではないだろうか。
そうだとすると、本当に自分という存在が生まれてきた意味は、なかったと証明されてしまうのではないだろうか。
気づけば、支柱となっていた左手はコンクリートをひっかき、白い傷跡を刻んでいた。
相当力んでいたらしく、爪の先は目に見てわかるくらいに削れていた。
さすがにこの精神状態のままはまずいと思い、頭を振って思考を取り払おうとする。
この苦しい世界から解放されるのだ、せめて最後くらいは幸せを信じて飛びたい。
目を閉じて、苦しみの無い世界を想像するのだ。
この温かな空気に乗って、すべての感覚を快楽へと昇華させる。
風の声を聞きながら、全身を世界に溶け込ませるように、意識を広げていく。
その時だった。
「……どうかしましたか?」
妄想の最中に突然声を掛けられ、慌てて目を開く。
すると目の前に、十代後半……いや、ビルの屋上でそれはないだろう、二十代前半くらいの童顔な女性が前屈みになってこちらの顔をのぞき込んでいた。
大きく澄んだ瞳と、さらりと揺れる若干色の抜けた黒色のショートヘアに、不覚にも心臓が反応してしまった。
「いえ、なんでも……」
自分がこれからしようとしていることの気まずさと、あまりに近い彼女の顔に、思わず顔を傾け、視線を脇へと逃がしてしまう。
どうしてこんな時に鉢合わせてしまったのだろう。
人を避けてここまできたのに、これでは意味がないじゃないか。
謎の女性の登場に、ここまで持ってきた気概はどこかに飛んで行ってしまっていた。
「そうなんですか。てっきり、飛び降りようとしてるのかと思いましたよ」
まるで最近見つけたスイーツの店の話をするような軽い口調と、吐き出された言葉の深刻さが噛み合わず、鳥肌が立った。
恐る恐る目線を戻してみると、そこには相変わらず笑顔の女性が立っている。
おかしい。
どうしてこの女性は動かないのだろうか。
明らかに会話をするような距離感ではない。
もしかして、からかっているのだろうか。
そうだとしても、にこやかな表情のまま静止しているだなんて真似をするだろうか。
そもそも、女性はどうやって目の前まで来たのだろう。
屋上への入口には階段が続いているから、誰かしら来れば音でわかるはずだ。
暑さとは違う汗が、顔の外周を走るのがわかった。
「……あの、近いんですけど」
精一杯の小声で、お願いをする。
蛇ににらまれた蛙のようで情けないが、それ以上に彼女の微笑みの圧力は脅威だった。
「いいですけど、その代わりに私のお願いを聞いてもらえますか?」
穏やかで、柔らかな口調。
しかし、その向こうには首を縦に振らねば動かないという明らかな姿勢が見て取れた。
「お願いによりますけど……」
気圧されたわけではないが、返事を先延ばしにする回答をしてしまったのは、心のどこかで彼女に恐れを抱いていたからだろう。
すると女性は近づけていた顔をひょいと引いて、顔の筋肉が固まってしまったかのようないびつな笑みのまま、後ろに手を組んだ。
「大したことじゃありませんよ。貴方の過去を頂きたいんです。もちろん、命を失うとか、苦しい思いをすることはないので安心してください。金銭も頂きません」
「過去を?」
思わずオウム返ししてしまったのは、夢物語のような要求をされるなど、考えてもいなかったからだ。
「はい、ほんの数秒で終わりますし、これは生きてる相手でないとできないことなので」
女性はよどみない口調で説明をしてくれる。
本来の自分なら、こんな胡散臭い話は聞き流していたことだろう。
だが、今は事情が違う。
自らの過去と未来を捨て去ろうとこの場へ来たのだ。
その間際でその片方を欲しいというのであれば、好きにすればいい。
過去とやらをくれてやれば、彼女も満足して消えてくれるだろう。
そうなれば、念願が叶うのだから。
「好きにすればいい。それが終わったら出て行ってくれ」
「ありがとうございます。それでは失礼しますね」
返答を得るなり、女性は両手を差し出し、こちらの胸へと一気に押し込んだ。
「――え?」
驚いて、声が漏れた。
感覚こそないが、白く長い腕と指が、何かを探すように動く様がつぶさに見て取れた。
その異様な光景に、自然と意識は自分の胸に釘付けになってしまう。
「ありましたよ」
そう言うと、女性の手が水中から魚をすくい上げるように、こちらの胸中から過去を抜き出した。
陰になっているというのに、過去は寒天のように震えながら、光の欠片を絶えず放っていた。
とてもではないが、物理法則に従っているとは思えない。
途端に、自分が現実に存在しているのかという不安も湧き上がってくる。
慌てて身体のあちこちを手で触れて、実体を確認してみるが、手指の感触は確実に存在していた。
胸の部分も、穴が空いているわけでもなければ、極端にへこんでいるわけでもない。
女性に会う前と何も変わらぬ、正真正銘、自分自身の身体があるだけだ。
「ありがとうございます。素晴らしく美しい過去ですね。それでは約束通り、私は失礼します」
一方的にそう言い放つと、女性は過去を手中に収めたまま、出入口の扉の方へと歩き始めた。
「ちょっと待ってくれ。あんたは一体何者なんだ!」
急いで日影から身体を乗り出し、彼女の姿を確認しようとする。
だが、そこには澄まし顔で口を閉じる扉があるだけだった。
扉が開いた音も、閉じた音も聞こえなかった。
だとするとどこかに隠れているのだろうか。
屋上を見回してみるが、隠れられるような場所は、もちろんない。
暑さのせいで白昼夢でも見たのだろうか。
しかし、夢にしては彼女の顔と体験した事柄は、鮮明に覚えている。
最後まで、仮面のような笑顔をしていたあの女性は、一体何者だったのだろうか。
知りたい気持ちはあるが、知りたくないと思う自分もいて、正直よくわからない。
よくわからない体験をしてしまったし、未来との決別は後日決行することにしよう。
ゆっくりとその場で立ち上がり、封筒を拾い上げようとして――気づく。
「あれ?」
確かに置いたはずの封筒がどこにもない。
ポケットの中も確認してみるが、それらしきものはない。
いつの間にか風で飛ばされてしまったのだろうか。
「まぁ、いいか」
必要になったら、また書けばいいのだ。
空になったポケットに手を突っ込みながら、逃げるように屋上を後にする。
屋内に入る瞬間、背中に感じた日差しの温かさが、ほんの少しだけ心にも届いた気がした。
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