最後の涙

「何しやがる」


 ケントは女々しくすすり泣くのを抑えて、自分の背中を抱くユミコに、無愛想に言い放った。


「いいのよ、強がんなくて」


 ユミコもまた彼への同情を表に出さず、魔女の仮面を被りなおし、妖しく微笑みつつ言った。


 滑稽である。互いの心中を筒抜けに知る術を持つ二人の悪魔が共に心を閉ざして、不器用な男女を演じてその身を寄せ合っているのだ。


「どうしてあの子に手出さなかったの?」

「覗けよ、勝手に」

「もうアナタの頭ん中覗けないのよ。上達が早いわね」


 ユミコはケントの髪を撫でつつ、耳元で囁いた。ケントは力なく身をよじって抵抗しつつ、また吐き捨てるように言った。


「やめろ、くそアマ

「好きに言って」

「うるせぇよ」


 ケントの鼻に、またローズの香りが流れ込む。しかし今の彼にとってそれは、蠱惑的な色香を孕んだかつてのそれとは違い、やけに優しいものに感じられた。

 ユミコは弱り切ったケントの心の殻をあっさり破り、その頭を覗いた。ケントは「やめろっつってんだろ」と尚も涙声で言ったが、聞こえないふりをした。

 人間であった頃のケントの記憶が、洪水のように流れ込んでくる。


 と呼ばれた少年時代。それが招いた惨劇。

 自らの手で叩き殺した両親の汚らしいまぐわいを見て、植えつけられた感情。「自分はそれによって生まれたのだ」という、強烈な自己嫌悪。

 そして感化院でノガミ医師に診断された「性嫌悪症」という病名。

 ケントを追い込む為だけに為された診断名は、その後もコロコロ変わった。「ボーダーライン」、「高機能性自閉症」、「サイコパス」……その他諸々。


 ケントの心を閉ざし、愛する人への好意を素直に表現することを極度に恐れさせ、やがてあっさりと自分の手に落ちることとなった要因は、全て他者に作られたものだったことを知った。


 なんて哀れな子だろう。なんて惨めな一生だろう。


 ユミコはケントの肩から手を離して首に回し、ひしと抱き竦めた。ケントは最早抵抗しなかった。


「やめろって……」

「もういいじゃない」


 強がり、とはもう言わなかった。ユミコはただ彼の髪を慈しむように撫で、その頬に自身の頬を寄せ、囁いた。


「私は、人間じゃないんだから」


 ケントは遂に、その顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。仮面はもう、一つ残らず剥ぎ取られてしまった。

 アヤカがノリコに肩を抱かれ、シバヤマの後についてパトカーに乗り込む。ユミコはケントの顔を自身の胸に押し当てて、その背を撫でた。

 遠く遠く去って行く、彼女の背中を見せないように。


 また一つ、ケントの記憶が流れ込む。

 それはくだんの部屋で、何度も手首を噛み砕き、嘔吐し、身を苛む劣情と戦いながら、アヤカの頭に手を当てて、忌むべき記憶を消し去り、代わりにとの美しい記憶を与えた夜のこと。


「辛かったね」


 そんな言葉で片付く話ではない。

 それは一体、どれほどの苦痛だったろう。


「ロストバージンの記憶がないのは、おかしいもんねぇ」


 ユミコはわざと茶化してみせた。ケントは笑おうにも笑えなかった。当然だ。もう、自分には何も言えないことを悟った。

 去りゆくパトカーを見送りながら、ユミコは日が落ちるまで嗚咽を漏らして泣き続けるケントを抱きしめ、その髪を、背中を、黙って撫で続けた。

 いつの間にか、ユミコの目にも涙が滲んでいた。


 とんでもない子を魔道に引きずり込んでしまった。今さら謝っても意味はない。もう後には引けない。せめて味方でいよう。この先彼が何をしようと、自分だけは。せめて自分だけは……


 やがて夜が明け、ケントは無言でユミコの手を退け、ゆっくりと立ち上がった。


「もういい」


 これまでになく低く淀んだ声で呟き、ケントは歩き出した。ユミコは何も言わず微笑を湛えて頷き、その後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る