魔女の逡巡

 時間は、少し遡る。


 ユミコは、ケントがT署にて暴挙を演じるのを見届けて、夜明けにアヤカが一人カプセルホテルを出て、裏通りを歩いて川越邸へ帰って行くのを、古びたビルの屋上からパイプを片手に眺めていた。


 記憶の一部が抜け落ちている。それに、


 彼女の頭を覗いたユミコは、すぐにケントがしたことを悟った。しかし既に手をつけられた彼女の頭から、ケントが彼女の体に手をつけたかどうかまでは分からなかった。

 ユミコは窓の割れたくだんの部屋までふわりと飛び、室内を窺った。


 そこにはもうケントはいない。代わりにあったのは床に散乱した、おびただしい量の緑色の液体。


 吐いたか。それとも、また噛み付いたか。


 どちらにせよ、まだ分からない。ユミコは目を閉じケントの気配を探ったが、彼女をしてもその所在は掴めなかった。恐ろしい早さで悪魔の力をものにしている。


 しかし頭の切れる彼女は、大体にして彼の動静を推察してその足跡を掴み、ともかくアヤカの後を追うことにし、また飛んだ。

 風が吹いている。人として生まれ、そして死んでからどれだけの年月が過ぎたか知れず、人間らしい感情を殆ど失っていたユミコには、裏通りの風も教会通りの風も、何ら変わらず虚しいものに感ぜられた。


「悪魔の子事件」。

 そのニュースを聞いたのは、まるで昨日のことのように思える。気になったが、どうせ自分には関係のないことだと放っておいた。

 そして一昨日、気まぐれに乗った電車で、自分の誘惑一つでに引きずり込める都合のいい男を偶然見つけた。ただそれだけのことだった。それが招いたこの惨事に、ユミコは久し振りに少し高揚しながらも、胸の奥に微かな痛みを感じていた。


 ケントくん。


 何となく心中にその名を呼ぶと、トクン、と胸が高鳴るのを確かに感じた。

 今、どうしているのか。これからどうするつもりなのか。ユミコは言いようのない焦燥に駆られ、これまでにない速度で飛んだ。


 程なくして、川越邸のある住宅街についた。

 彼は、いた。屋敷の全貌を伺える、本邸の屋根の上で膝を抱えてしゃがみ込んでいた。

 その眼下の庭では、抱き合うアヤカとノリコ、そして昨晩、ケントが気絶させた老刑事が佇んでいた。


 ケントの頬を、二筋の涙が伝っていた。


 あぁ、この子、何もしてない……


 ユミコは悟った。

 凄まじい罪悪感に襲われ、気がつくと縋るように、その小さな背に抱きついていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る