帰還

 また、夜が明ける。

 川越邸に無数に転がっていた遺体は悉く運び出され、最早人の形を成していない主人もおらず、それらが撒き散らかした血も臓腑も全て片付けられた。

 闇も光も消え失せてもぬけの殻となってみれば、この屋敷は実に静かで、美しいものだった。


 警察の保護下にいるノリコは署にはおらず、パトカーの助手席にいた。「帰りたい」、「屋敷でアヤちゃんの帰りを待つ」と言って聞かなかったのだ。

 溌剌はつらつとした生気は昨夜のケントの出没以来完全に消え失せて、警察が懸命に捜索を続けるアヤカの無事を祈る以外に、もう彼女には縋るものがなかった。神に祈ろうにも、馴染みの神父も既に夫と同様生きた屍と化している。


 パトカーに揺られて眺める教会もまた、さっぱり片付いてしまえば綺麗なものだった。


 一連の事件の犯人がケントであることを、最早彼女は疑っていなかった。目の前で次々と見せつけられた、超常的な力。

 はもう、彼女の知るケントではなかった。

 悪魔にでも憑かれたか。或いは悪魔そのものになったのか。ノリコの勘は、今さらになってよく働いた。


 虚ろな目で、いつも通りの朝を迎えるT市を車窓越しに見送るノリコを乗せるパトカーを運転するのは、シバヤマだった。

 この老刑事は昨夜、ケントの謎めいた念力によって弾き飛ばされたイイヅカを庇って署の扉にしたたかに叩きつけられ一時意識を失ったが、幸いなことに命に別状はなく、頑丈なことに骨の一本も折れてはいなかった。

 それはイイヅカも同じだったが、夜明け前にT市記念病院で目を覚ましたシバヤマとは違って彼はまだ、病院で大いびきを立てていた。


 シバヤマはそんな部下の呑気な寝顔を一目見て少し安心すると、一目散に署に向かってノリコを見舞い、彼女のわがままを聞き届けてこうして屋敷へとパトカーを走らせている。


 彼を突き動かしたものは昨夜にも悪徳刑事イノガシラに指摘された、刑事としては致命的なほどの「人情屋」気質もあったが、それよりも何か、今まで感じたこともない衝動があった。


 まずは容疑者への興味。川越、いや、仰木健人オオギ ケント

 あれほどまでの非道を働き、超常的な力を持っていながら、自分やイイヅカが無事であるのは彼なりの信条あってのことではないのか。

 今助手席に力なく腰掛けるノリコを降り注ぐ硝子片から庇った時、自分だけに語りかけてきた穏やかな声と、彼女に向けた悲しげな微笑が頭にこびりついて離れない。


 気絶した後、ひどく悲しい夢を見た。どんな夢だったかは忘れた。それは或いは、ケントが自分にかけた暗示なのかも知れない。


 しかしシバヤマは、ともかく自分だけはノリコの味方でいようと思った。

 彼女が「屋敷に帰りたい」と言うのならそこまで送ろう。

 彼女が「ケンちゃんを憎まないで」と言うのなら、絶対に憎むまい。


 これは間違いなく自分の意志だ。シバヤマは己にそう言い聞かせて、ノリコを乗せて川越邸へと車を出したのだった。



 ♦︎



 間もなく、屋敷に着いた。ノリコは「ありがとうございます」と、相変わらず力の抜け切った声で言うと、シバヤマがお辞儀を返すよりも先に扉を開けて車から降りてしまった。

 シバヤマも慌てて車を降り、その背に追い縋る。鈍足の彼女に追いつくのは簡単だった。昨日の朝、イイヅカと二人掛かりで追いかけたのに見失ったことを思い出し、また少し背筋が寒くなった。


 二人して、テープの張り巡らされた屋敷の門を潜る。血の臭いが僅かに残る庭のそこかしこに立つ木の何処かで、鳥たちがチュンチュンと元気に鳴いている。

 二人とも、もうそんな不謹慎に怒ることも出来なかった。全てが自然の成り行きのように思えた。


 虚しい程に静かな屋敷を無言で歩くノリコを追うままに歩くと、かつて「男子邸」とされ多くの養子たちが起居していた別邸の前まで来た。

 そこにある池の前で彼女は不意に立ち止まり、しゃがみ込んだ。「かつてケントがそうしていたのだろうか」と、シバヤマの脳裏に彼の寂しげな背中がやけに鮮明に浮かんだ。そんな想像と、ノリコの小さな背中が重なる。鼻の奥がツンと痛み、思わず目頭が熱くなった。


 親不孝者め。


 シバヤマはそこにいないケントに対して、怒りとも悲しみともつかない感傷を抱いた。ノリコの肩に手を置いて、慰めの言葉の一つでもかけてやるべきだったろうが、何も浮かばなかった。熟練の老刑事は、子を失った母を前にして余りにも無力だった。拳を握り締め、己の不甲斐なさに憤る。


 ガサッ


 突然、背後から庭の茂みを踏みしめる足音が聞こえ、二人同時に振り返った。

 そこにいたのは、一人の少女だった。自分とノリコとを交互に見て、所在無げに佇んでいる。


「アヤちゃんっ!」


 シバヤマが何を言う間もする間もなく、背後でノリコが涙声で叫んだ。彼女は先ほどの抜け殻のような力ない歩みが嘘であったかと思うほどの速度で自分を通り過ぎてアヤカに飛びつき、抱き締めた。

 ノリコは嗚咽を漏らして泣き、「アヤちゃん、良かった、無事で……良かった、良かった」と何度も言いながら、少女に、川越文香カワゴエ アヤカに頬擦りした。

 アヤカは困惑しきった様子でノリコの背をさすりながら、助けを求めるように眉を下げてシバヤマを見ている。


 シバヤマは昨日のノリコの言葉を思い出していた。「『じきに帰ってくる』って言ってたんです」と。

 状況を掴みかねて、抱き合う二人をただ見守るシバヤマを前にして、アヤカがようやく口を開いた。


「あの、ノリコさん……すみません、遅くなって」

「いいのよ、いいの。無事ならそれで……ねぇアヤちゃん、教えて。どうしたの。何があったの……」

「無事……無事って、何のことです?」


 ノリコは、はたと違和感を覚えて抱擁を緩め、アヤカの顔を見た。シバヤマも、全く同じ違和感を覚えた。

 アヤカが、自分たち以上に状況を掴みかねているのに気付いたのだ。顔色もやけに良く、ただ困惑している。


「君、何も知らないのか?」


 シバヤマは遂に堪え切れなくなり、アヤカに訊ねた。アヤカは首を傾げ、口元に曖昧な笑みを浮かべて首を振った。


「はい……あの、何かあったんですか?」


 ノリコは眉を顰め、途端に無言になった。対してシバヤマは悟った。


 きっとケントが、この子からを消したのだと。もう何を聞いても無駄だろうと。

 これはきっと、これ以上アヤカを、そしてノリコを、やたらと付け回してくれるなという、自分たち警察へのメッセージなのだと。


「そうか……」


 シバヤマは拳を握り締め、柔和な笑みを作って声を絞り出した。


 しかし、と彼は考える。


 仰木健人。『悪魔の子』。

 お前に一体何があった。

 この子の身に何があった。

 お前を凶行に駆り立てたものはなんだ。

 それを何も明かさず一人闇に消えることで、一体誰が救われるというのだ。

 救いようのない大馬鹿め。


 気付けばシバヤマの頬を、はらはらと涙が伝っていた。

 ノリコとアヤカはそんなシバヤマの様子を見守りながら、ただ心配していた。

 きっと、これからまたこの二人には、何気ない日常が戻るのだろう。何事もなかったかのように。


 シバヤマはそれを愚かなことだと知りながら、命を賭けても守ろうと固く誓った。

 それがきっと、哀れな男が一人、孤独の中で、足りぬ頭で導き出した答えなのだろうと思ったのだ。

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