葛藤の果てに

 裏通りのカプセルホテルに戻ったケントは、また割れた窓からあの部屋に侵入した。

 部屋には粗末な椅子に腰掛けてパイプを吹かすユミコと、相変わらず、粗末なベッドでスヤスヤと健やかな寝息を立てるアヤカがいた。


「おかえりなさい」


 ケントはユミコの挨拶を無視して、ベッドの側に立ってアヤカの寝顔を見つめた。

 薄化粧の彼女の無防備な寝顔は随分幼く見えた。まるで無垢な女学生のようだった。『肉の宴』の肴にされていたことなど、嘘のように思える。


「随分ぐっすり眠ってるな」

「えぇ……私にかかればそんなものよ」


 独り言のように小さな声で呟いたケントの言葉に、ユミコはやけに優しい声色で答えた。


「記憶を一時的に抑えたの」

「あぁ……


 もうアヤカの忌まわしい記憶は覗きたくない。しかしケントには心に決めたことがあって、その為にユミコが彼女の頭に何をしたか知る必要があった。のやり方は、そこから学べる。


「暫く外しててくれ」


 力の抜けた声で頼まれたユミコは目を光らせ、パイプから漂う紫煙の向こうに、朧げに見えるケントの顔を見た。すっかり疲れ切り、全てを諦めた顔。そして、何処かに優しさを湛えた目。

 ユミコはそれだけで、ケントがしようとしていることの全てを悟った。


「えぇ……分かったわ」


 慈母のような微笑を残して、ユミコは素直に席を立ち部屋を出た。



 ♦︎



『紹介するわ、ケンちゃん……ホラ、アヤちゃん、おいで』

『は、初めまして。アヤカです……』

『ど、どうも……ケントです』


 ケントは眠りにつくアヤカの枕元に腰掛け、初めて引き合わされた日のことを思い出していた。ノリコは、不器用に挨拶を交わすシャイな二人の男女を、微笑ましく見守っていた。


『アヤちゃんにはね、私が清掃主任やってるホテルで働いて貰ってるのよ。ケンちゃんには当分、この子の送り迎えを任せるから』

『えぇっ……?』

『もう、何よその反応! ふふ、せっかく年も近いんだし、仲良くすんのよ』


 ノリコは困惑するケントの背中をバシバシと叩く。ケントは恐る恐る、アヤカの顔を見た。男としては小柄な自分よりさらに頭二つ分ほど小さい彼女もまた、おずおずと上目遣いに自分を見ていた。


 可愛い、と思った。

 胸の高鳴りを感じた。

 何かが変わる気がした。


 ケントの頬を、一筋の涙が伝った。

 眠るアヤカの頭に触れる。柔らかな黒髪の感覚。けだものは死んでいない。それは依然として、確かに己の中に蠢いている。


 ヤっちまえよ。

 どうせ穢されてるんだ。

 自分てめぇだけ我慢する必要はない。

 大勢殺したろう。

 好き放題に暴れたろう。

 それだけ抑え込む必要はない。

 自分てめぇはもう人間ですらないんだ。

 悪魔なんだ。

 流されに流されて、ただ運命に転がされるままに、こうなっちまっただけだ。

 今度も流されちまえ。

 ヤっちまえよ。

 どうせ、全部忘れさせるんだろう……


 ガリッ


 ケントはまた袖を捲り上げ、己の手首に噛み付いた。緑色のドロドロが床一面に広がる。

 悪魔のささやきが止むまで、ひたすらに噛み砕き続けた。


 そして呼吸を整え、瞼を閉じ、再びアヤカの頭に触れた。


『よろしくお願いします……ケントさん』


 頭を下げ、照れくさそうに自分の目をまっすぐに見つめるアヤカの顔が、ケントの脳裏をよぎった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る