悪魔のささやき

沈黙

　事件発覚から、時はあっという間に過ぎた。T市にはいつも通り、鮮やかな夕陽が照り映える。

　養子たちの凄惨な遺体がそこかしこに散乱する川越邸にも、無遠慮に朝はやって来る。鑑識は遺体を無遠慮に跨いだり、顔や口を覗き込んだりして、何かと好き勝手に弄くり回していた。

「不可解ですなぁ」

「えぇ、これだけ好き勝手やって、なぜ騒ぎにならなかったのか」

「彼女なんかは、相当逃げ回った形跡がありますね。池の水やら、泥やら……」

　ノリコはそんな模様を、テープの張り巡らされた門扉（もんぴ）の外から呆然と見守っていた。隣に寄り添うシバヤマは渋い顔をして腕を組み、彼女にかけるべき言葉を懸命に探ったが、適当なものが見つからない。

　全く寝覚めの悪い朝だった。起き抜けに耳にするには、余りにショッキングな情報の数々。

　屋敷内で唯一生き延びていながら、唯一身元が分からないほどに、凄惨な暴行を受けていた被害者Bこと川越充（カワゴエ ミツル）は、既に病院へ搬送された後だった。

　妻であるノリコにそれを伝えれば真っ先に亭主の元へ駆けつけるかと思ったが、彼女は依然としてここに突っ立ったまま動かない。生気のない瞳で変わり果てた養子たちの姿を遠巻きに眺めるその姿はまるで生きた屍のようで、正直なところかなり不気味なものだった。

　被害者A・野上正一（ノガミ ショウイチ）が発見された現場もまた、酸鼻を極めていたという。

　部屋の床には裏通りの路上で無造作に撲殺されていた美原慎二（ミハラ シンジ）の心臓が落ちており、そこに突き立っていたノガミの携帯電話のムービーが作動していた。

　これがまた、不可解だった。自分と同じく時代遅れなノガミのガラパゴスケータイには、通常有り得ない容量のムービーが収められていたが、中身を見ることは出来なかった。現場検証に赴いた警官がそれを再生しようとすると、ケータイ自体が爆散して無くなってしまったのだ。

　この爆発の原因もまた不明だが、ともかくこの警官は手と顔の一部に深刻な裂傷を負った。

　さらに、この屋敷の惨状。依然として身元の分からない、焼け爛れた肉塊となって教会の祭壇上に供物のように横たえられていた被害者C……

　相次ぐ犯行はこれほど大胆に、大雑把に行われていながら、犯人は何一つその痕跡を残していない。その所在も未だ定かでない。

　シバヤマは打ち拉（ひし）がれていた。刑事としての長い職業人生の中で、今回の事件ほど不気味で、絶対的に解決不可能だと思わせられるものはなかった。

　そして耳に頭にこびり付いて離れない、あの女の淫靡な声。甘ったるいローズの香り……

「シバヤマさんッ！」

　屋敷周辺に止まった数台のパトカーの群れを潜り抜けるようにして駆け寄るイイヅカの若々しい声が、シバヤマの暗い思考の渦を打ち破る。

　部下に見苦しい姿を見せぬよう、憔悴しきった顔に細（ささ）やかな虚勢の化粧を施して、シバヤマは顔を上げる。

「おう、どうした」

「あぁ……すいません、ハァ、ハァ……ガイシャの、Cの身元が判明しました！」

「何、本当か……！」

　イイヅカは息を荒げながらも、どこか楽しげですらあった。彼は刑事となってまだ数年にして、この未曾有の猟奇事件の捜査に立ち会える興奮に、素直に身を任せているようだった。

　この不謹慎なほどに底抜けの前向きさが、今のシバヤマにとっては救いだった。他の刑事たちも続々と周囲に集まり、その言葉に耳を傾ける。

　やがてイイヅカは顔を上げて自分に注目する多くの先輩たちに向かって、大声で告げた。

「被害者Cは清水康人（シミズ ヤスヒト）……カトリックT教会の神父です！」

「何ッ……」

　シバヤマは驚きを隠せず目を見開いた。

　シミズ神父と言えば、『悪魔の子』川越健人（ケント）と、S市児童殺人事件の犯人にして、ケント同様この川越邸の養女である川越文香（アヤカ）の教誨師（きょうかいし）として、シバヤマの頭に記憶されていたからだ。

「しかも、しかもですよ……！　ハァ……」

　イイヅカは目を爛々と輝かせて、荒い呼吸もそのままに言葉を紡ぐ。「何だ何だ」、「勿体つけるな」と四方八方から刑事たちのヤジが飛ぶ。シバヤマは彼らを片手で制しつつ、黙って耳を傾けた。

「シミズは『悪魔の子』の……川越健人の、戸籍上の最初の父親なんです！」

　刑事たちが、水を打ったように静まり返る。

　シバヤマは確信した。全てが繋がった。恐らくこの場にいる誰もが、一連の事件の犯人を頭に思い浮かべただろう、と……

　が、イイヅカは何故か表情を曇らせ、自身の肩越しに誰かを見つめている。シバヤマははっとして振り向いた。

　ノリコが、虚ろな目でイイヅカを見ていた。

　あぁ、そうだった。この場にいたのは刑事だけではないのだった……

　刑事たちは一様に口を閉ざし、俯いた。川越邸の門前にて、重い沈黙は永遠にも感じられるほど、長く長く続いた。