さよなら

 自分などより遥かに優れた健脚を持ち、人を追い回した経験もずっと豊富であろう二人の警官の追跡を魔女の助けによって振り切ったノリコは、朝焼けの照らす住宅街をひた駆けに駆けた。


 鳥の鳴き声も、飼い犬の散歩をする顔見知りの老人も、肌を刺す空気も全て見知ったものであるのに、ノリコは心中の混乱によってそれらの何もかもが忌々しく思えた。

 走り慣れていない彼女は時折足を縺れさせながら、歩き慣れた道を必死に走る。いつもはすぐに辿り着く家路が、えらく長く遠く感じた。

 顔見知りの人々が怪訝な顔で彼女の姿を見送るのも、今のノリコの目には映っていなかった。


 視線の先に曲がり角が見えた。あそこを曲がれば屋敷に辿り着く。急げ、急げ……


 が、ノリコは不意に足を止めた。その角からのそりと姿を現した、モッズコートを羽織った小男に見覚えがあったから。


「ケンちゃん……?」


 ノリコは一度呟き、次に絶叫した。


「ケンちゃんッ!」


 呼ばれたケントはぼんやりと顔を上げて、ノリコの姿を確かめて立ち止まる。ノリコは一心不乱に駆け寄って、息も絶え絶えにケントの肩を掴み声をかけた。


「ハァ、ハァ……ケンちゃん、大丈夫っ? 怪我はない……?」


 ノリコはケントの頭からつま先まで何度も何度も確かめ、その体を撫でた。


「警察の人が……ハァ……ウチの子たちがみんな殺されてるって言うのよ……! ケンちゃん、無事だったのね。あぁ、良かった、良かった……!」


 ケントはされるがまま。彼女に身を任せ、虚ろな目でその姿を見下ろしている。

 気付かれないように、その目に薄っすらと赤光を灯して彼女の頭を覗く。

 そこにあるのは失われたかもしれない自分の居場所への、無垢なる心配。そしてその中にいる仮初めの自分が、ただ「生きていてくれた」という、余りにも根拠に乏しい、微かな安堵。それだけ。

 しかしそんなノリコも、ケントの異常に俄かに気付き始めた。どれだけ声をかけても体を撫でても、ウンともスンとも言わない息子に変わらぬ信頼を置き続けることは、流石に叶わなかったのであった。


「ケンちゃん、どうしたの……?」


 眉尻を下げ、「変わらずにいてくれ」と哀願するように、真っ直ぐ自分の目を見つめるノリコ。

 ケントは、当初の予定を実行することに決めた。


「何でもありませんよ」


 いつも通り、柔らかな作り笑いを浮かべて答える。ノリコの心配は止まない。


「でも、でも……警察の人が……」

「ウン……屋敷はね、滅茶苦茶になってます。でもね」


 ケントはノリコの細い肩に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめて瞳に赤光を灯し、言った。


「アヤカちゃんだけは無事です」


 ノリコの顔から、生気が抜ける。ケントはノリコに暗示をかけ続ける。


「何も問題はない……アヤカちゃんは、その内帰ってきます。ちゃんと守ってやって下さい。最後まで」


 ノリコは無言で、こくこくと人形のように頷く。ケントは内に沸き立つ葛藤を必死に抑え込んで、ゆっくりとその肩から手を離し最後の言葉を告げる。


「俺はもう、帰りません」


 さようなら……

 ケントは心中に呟き、呆然と立ち尽くすノリコの横を通り過ぎ、歩き去った。



 ♦︎



 先ほどノリコが駆けていた道を裏通りに向かって歩くケントは、誰の目にも映らない。

 駆け付けた警官たちでごった返す屋敷から少し離れると、この住宅街にはいつもと変わらない静かな日常があった。


 ケントは、感化院を出て川越邸の門を潜った日、屈託のない笑顔で迎えてくれた、ノリコの最初の挨拶を思い出す。


『初めまして、あんたがケントくんね……私はノリコ。今まで色々あっただろうけど、今日から私があんたのお母さんよ。これからよろしくね!』


 ……あの日から、色々あった。

 ケントが屋敷の裏側にある諸々を知って全てを殺し尽くしても、彼女への想いだけは変わらない。それは結局、彼女が何も知らないから。そのままでいい、と思った。置き去りにしたノリコに、ケントは独り心中で語りかける。


 なぁ、ノリコさん。

 あんた最後まで、何も気付けなかったな。

 平和な家庭も、俺やアヤカの居場所も、ハナからそこにはなかったぜ。

 結局あんたが見てたものって、俺とユミコがあの時見せたが全てだったんだぜ。

 あんた、俺と同じだ。全部知ってたのはアヤカだけだった。

 あの子があんたを頼れなかった理由は、そのどうしようもない鈍感さのせいだ。俺があの子を助けられなかったのも……

 でも、俺はどこまでもあんたと同じにはなれなかった。どこまでもあんたと同じなら、ずっとあんたに縋って、まやかしに生きることもできたんだろうけど……


 どうせ俺は、もう戻れないから。

 だから、全部俺が壊したことにするよ。

 悪いのは、俺だけってことにするよ。

 それで全部、あんたににするよ。

 好きに恨んでくれ。

 ごめんな、ノリコさん。ごめんな……


 ケントは飛んだ。全てを振り切るために、全速力で飛んだ。裏通りに辿り着くまでに、その決意が揺るがないように。

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