スナッフフィルム

 T市、とある住宅街。川越邸本邸・川越充カワゴエ ミツルの書斎。


 電話を一方的に切られた後、ミツルは椅子に腰掛けたまま金縛りにでも遭ったかのように動けなくなった。

 すぐに警察に通報したい。或いはモウリに頼りたい。せめて叫んで、妻の、養子たちの助けを得たいと必死に体を揺すり喉を絞ったが、駄目だった。

 そうだ、『秘密の地下室』の扉がすぐそこにある。せめてそこに逃げ込めれば……ミツルはもがきにもがいた。


 プツンッ


 不意に、部屋に置いたテレビが勝手に点いた。映し出されたのは、何やら真っ赤な光の充満した、見覚えのある部屋だった。


 ノガミ……?


 そう、そこは親友・野上正一の部屋。

 自身と同じく椅子に腰掛けたノガミはまるで人形のように静止して、指先一つ動かさない。

 視点はやけに低く、常に一定だ。一体この映像は何によって撮影され、このテレビに映し出されているのか。


「悪趣味ねぇ、あの子」


 突然、すぐ隣から女の低い声が聞こえ、ローズの香りが鼻孔を突いた。

 これまで数多の女を手にかけ、老いてなお盛んなミツルが未だ嘗て耳にしたこともないほど、男の劣情をこれでもかと掻き立て、脳髄を痺れさせるような、妖艶で淫靡な声。

 それでいて、聴き続けているうちにそのまま地獄に引きずり込まれてしまいそうな、言い知れない悪寒を背筋に走らせる不気味な声でもあった。

『魔女』。自然、そんな言葉がミツルの脳裏に浮かんだ。


「アラ、ごめんなさいね、勝手に入って来て……でもこれ、一人で見るにはちょっと怖いでしょう」


 見たい。この声の主である魔女の姿を見たい。

 そして、この映像は見たくない。これから一体何が起きるのか、なぜだか鮮明に予測できた。

 ミツルは必死に首を回そうとしたが、まるで骨が硬化したかのように動かない。


 嫌だ、見たくない。怖い。

 魔女の姿を見たい。見たい、見たい、見たい見たい見たい見たい見たい……


「くすっ」


 魔女がわらう。


「アナタ、元気ね。でも無駄よ。色情で頭を塗り潰して恐怖から逃れようとしても。


 はたとミツルの思考が、欲情の渦が止まる。この魔女、全て見透かしているというのか。


「それじゃあもう、から逃げることはできない……あっ、来た来た!」


 魔女の声が一気に喜色ばむのと同時に、ミツルは決して目を離せぬ映像の隅に、深緑のモッズコートを羽織った小男・ケントが侵入して来るのを見た。


「ウフフッ、たのしみねぇ。ねぇ、彼、どうなると思う? アナタの大事なお友達は、アナタの大事な養子に、これから何されると思う? よーく考えてみてっ」


 下品に興奮を露わにする魔女の声を片耳に聴きながら、ミツルの視界は画面一点に狭められる。

 液晶の中でケントは椅子に腰掛けるノガミの頬をそっと撫でると、そのまま耳朶みみたぶに指をかけ、狂気に舞うように小さな体を一回転させた。引き千切られた耳が、画面のすぐ側に投げ捨てられる。


 ノガミは耳の跡から鮮血を迸らせ、その顔を激痛に歪ませながらも、微動だにしない。

 彼の感情が伝染したかのように、ミツルは今にも泣き出しそうな情けない表情を浮かべる。しかし首が動かない。乾いた目から涙が頬を伝って滴り落ちるが、瞬きすらままならない。


 ケントは続いてバットを振りかざし、手すりに置かれたノガミの手の甲に叩き付けた。この映像は音声こそないが、手すりごと粉砕された親友の左手の惨たらしい有様が、そして大口を開けて声なき声をあげる彼の表情が、まざまざとその苦痛をミツルに突きつける。


 嫌だ。もう嫌だ。

 もう見たくない。

 やめろ。やめろ、狂人めッ!


 今度は憤怒と嫌悪を奮い起こして恐怖を塗り潰そうと試みる。が、それもまた耳元で囁かれる魔女の声に妨害される。


「駄ぁ目よ。しっっっ……かり見とくのよ。だって……ウフフッ」


 魔女は嘲りと共に声色を低く暗く一変させ、言った。


「これからアナタも、同じ目に遭うんだもの」


 脂汗に塗れたミツルの額から、さぁっと血の気が引いた。

 映像の中で凶行は加速する。ノガミの手が、足が、陰部が、ケントが猛然と振り下ろすバットで叩き潰される。その度に苦悶に歪む友の顔が、ビクビクと脈打つその体が告げる。


 やめて。

 助けて。

 いっそ殺して、と。


 しかしノガミは悲鳴一つ上げなければ、気も失わない。既にショック死してもおかしくない程の暴行を加えられているのに、一体なぜ……


「フーン、もう随分使じゃない、ケントくん……何を教えたわけでもないのにねぇ」


 魔女はまるで「フム、興味深い」と感心するように、見るも悍ましい眼前の凶行を観察している。

 もうそれに怒る気力も起きない。ケントは次に、部屋の机の引き出しを滅茶苦茶に漁ってハサミを取り出した。


 ノガミはなぜか、自ら口をあんぐりと開ける。

 その目からは涙が零れ落ち、「やめてくれ」と哀願しているように見える。


 ならばなぜ口を開く。

 一体何をされている。

 やめろ、やめろ……


 ミツルのそんな想いも虚しく、ケントはノガミの口にハサミを突っ込み、まるで歯科医の真似事でもするように、自らもあんぐり口を開け、を探り当てようとその口内をギョロギョロと観察している。

 やがて、ケントの指が動いた。それと同時にノガミの体がビクンと脈打ち、激しい痙攣を始める。口内から滝のように黒血が流れ出し、首を伝って全身に広がる。

 やがてケントはそんなノガミの口から何かを引きずり出し放り投げ、画面にベシャリと貼りついた。舌だった。


「『アッカンベー』って? ウフフッ、面白ぉい、カワイイ……」


 画面が覆われると同時に、ミツルの体が動いた。隣で眉尻を下げて笑う魔女の姿が見える。

 ミツルは今しかない、とばかりに椅子から立ち上がり遁走しようとした。が、魔女が横目で彼を睨み付けると、瞬時にその試みは潰えた。

 何か途轍もない重りを肩に乗せられたかのように、ミツルの体は尻を椅子に叩きつけられるようにして押し戻された。


「アッハッハッハッハッ……」


 魔女はそんなミツルの醜態を見て、また心底愉快そうに嗤う。腹を抱え肩を揺すり、妖艶な美貌の所々にしわを寄せ、目にはノガミの部屋中を覆う赤光によく似た光が灯っている。


「駄ぁ目よ逃げちゃあ……あっ! ホラ、見て見て! ケントくんからアナタにメッセージよ!」


 ミツルは魔女に促され、小刻みに震えながらも画面に目をやる。既に舌は画面から剥がされ、そこには先程と同じように椅子に腰掛けたノガミが映っている。窓が割れ、ケントの姿はもう何処にも見えない。先程まで部屋中を満たしていた赤光も消えていた。


 ……ただし、剥がされていたのは舌だけではなかった。全身の皮膚が綺麗に引き剥がされ、それでも目を見開いてビクビクと全身を痙攣させる、変わり果てた親友の姿がそこにはあった。

 そしてその胸から腹にかけて、何かでえぐり抜いたような傷跡がある。傷跡は真っ赤な血文字を成し、こう書かれていた。


『ツギハオマエダ』


 ミツルは恐怖のあまり椅子から転げ落ちた。全身から脂汗を、目と鼻から涙と鼻汁をダラダラと垂れ流し、さらに後ろから前から失禁していた。全身と穴という穴から出した諸々にまみれた見るも無惨な姿で、書斎の床を汚してのたうち回る。魔女の嘲笑が聞こえる。


「やだぁ、ったないわねあんた……ウッフッフッフ……」


 部屋から逃げようにも、思うように体が動かない。叫ぼうにも声が出ない。あぁ、誰か誰か……


 コンコン


 不意に、部屋がノックされる。

 そんな馬鹿な、まだ来る筈はない。ノガミ邸からここまで、一体どれだけの距離があると……


「あなた、入っていい?」


 聞こえてきたのは妻・ノリコの柔らかな声だった。

 ミツルは歓喜の雄叫びを上げたくなった。日頃大して重んじていない老いた妻の声が、救いの天使の呼び声にすら聞こえた。


 あぁ、ノリコ! 来てくれ! 助けてくれ! 助けて……


 声が出ない。魔女は隣でずっと、押し殺したように肩を震わせ笑っている。何がおかしい! ノリコが入って来ればすぐに騒ぎになって、お前など……


「あら? ケンちゃん、お帰りなさい」

「うん、ただいま」


 ミツルの頭は真っ白になった。

 扉の向こうで聞こえるのは、紛れもなくケントの声。馬鹿な。なぜもう辿り着いた。


「ウフフ、どうしたのケンちゃん……やけに顔色いいじゃない。本邸に来るなんて珍しいわね。何か用?」

「ハイ、ちょっとミツルさんに話が……ノリコさん、今から出勤ですか?」

「ウン、それで今挨拶しようと思ったんだけど、何だか立て込んでるみたい……あなた! ケンちゃん来てるわよ!」


 ケントはまるで普段と変わらない調子でノリコと話し、ノリコは何の疑いもなくそれに応じ、ドンドンと扉を叩いてミツルを呼ぶ。


 ノリコ、そいつをよく見ろ! そいつはもう、あの人畜無害な、虫も殺せない抜け殻じゃない! 今すぐ追い返せッ!


 ミツルの心中の絶叫は、残念ながら声にはなってくれない。


「おう、いいぞ入って」


 ……すぐ側で、先程まで嗤っていた魔女がミツルとそっくりの、いや、で答えた。


「あら、いいってよ……じゃ、あなた、入るわよ」


 待て、よせ。そいつを入れるなッ!

 違う、違う、違うんだ、この馬鹿嫁が……!


「あら……どうしたのあなた。そんなとこ立って。椅子倒れてるわよ?」

「いやァ、ちょっと居眠りをして、ウッカリ椅子から転げ落ちた……アイタタタ……」


 魔女はニタニタと薄笑いを浮かべながら、ミツルの声で話し続ける。

 ノリコには倒れている自分の姿も、床を汚す糞便も、その悪臭もまるで認識していないかのように、ただ魔女の薄赤い瞳だけをぼんやりと見つめながら、いつも通りの夫婦の会話を交わしている。


「なぁにあなた、大丈夫? ウフフ、もうトシねぇ……」

「やかましいわ。それよりケント……どうした?」


 魔女は一層いやらしく笑いながら、ノリコの隣に立つケントに声をかける。

 ケントは一瞬、眉間に皺を寄せて不愉快そうに沈黙したが、魔女と同じく赤光を灯らせた目を倒れ込むミツルに向けると、事態を察してすぐさま魔女に向き直り便乗した。


「ハイ、すいません……ちょっと、男同士の相談って言うか……」

「ウッハッハッ、なんだそうか……珍しいなぁケント。お前からそんな風に言ってくるとは……おい、聞いたかノリコ。女の出る幕じゃあないぞ」


 気風のいい篤志家の豪快な笑いを、魔女は見事に再現してみせる。それは今糞便を撒き散らかして地面に這いつくばる自分が日頃被っている仮面。ノリコは容易くそれに騙され、困ったように眉尻を下げて応じる。


「何よそれぇ! フフッ……ま、いいわ。じゃ、私は仕事行ってくるから。おヒマな男同士、存分に話しときなさいっ」


 滑稽だ。これはまるで喜劇だ。

 絶望と恐慌の中で、ミツルは眼前で繰り広げられる茶番に思わず自嘲の笑みを浮かべた。

 ケントはそんなミツルを時折横目で伺いつつ頭をかき、シャイな好青年のような遠慮がちな物言いでノリコに向き直る。


「すいません、ノリコさん」

「いいのよ、ケンちゃん……何だか嬉しいわ、私」

「は、はい?」

「男はね、そのぐらい厚かましい方がいいのよ。じゃあね、帰って来たら聞かせて貰うわよ、あなた!」

「ウッハッハッハ、駄目だ。それは許さん。これは男同士の尊い密談だ……なっ、ケント?」


 ケントは苛立ちにヒクつく頬を懸命に抑えながら、好青年の仮面を脱がず、去り行くノリコに何度もヘコヘコと頭を下げる。終ぞ見つけてもらえなかった、糞便の中に這い蹲る真の亭主は、絶望の果てに自嘲する。


 あぁ、悲しいかな。鈍くて疎ましい我が妻は行ってしまった。

 一体なんだ、これは。貴様らは何が言いたい。

 別にお前がいなくともこの家は、その役を演じる者さえいればこれまで通り機能するとでも言いたいのか。

 この期に及んで何のマネだ。ふざけるな……ふざけるな……


 バタン、と書斎の扉は閉ざされ、部屋の内には二人の悪魔とミツルだけが残された。

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