第二幕
凶行
被害者A
T市教会通り。精神科医・
ノガミは柔らかな朝日の差し込む自室にて、昨夜、友と交わした『肉の宴』の余韻に浸っていた。宴の翌日に来る休診日の朝は、彼にとって最も心穏やかな時間なのだ。
精神科医とは過酷な仕事である。日毎訪れる精神病者、そう診断された犯罪者、ただ癖の強いだけの精神半病人、それらの家族とのやり取り……全てが苦痛であった。
「医療ミス」という概念のない精神科医には、常に「社会的制裁」という恐怖が付き纏う。抱えている患者は、時に診察直後に自殺し、時に殺人を犯す。その都度彼を苛む自責の念を、社会は何の呵責もなく煽り立てる。
この道を選んだことを悔いたことは数限りなくあった。いっそ己がその自死の責任の一端を担った患者たちの後を追って命を断とうかと思った夜も、幾度となくあった。
そんなノガミにとって『肉の宴』は、今や最大の心の癒しであり、その拠り所であった。
自身の手を離れ、親友・
それを無念に思う必要はなかったのだと、『肉の宴』は教えてくれた。
彼らには彼らの居場所がある。どんな場所にも犠牲者は必要だ。
そこに、自分自身が加害者として参加する。表通りに身を置きながら、時に川越邸の『秘密の地下室』に行って深淵を覗き込み、かつての患者たちの饗宴に加わる。
あの部屋は、表通りと裏通りが出会う彼岸なのだ。あぁ、世界に境界などなかった。自分はハナからここに、この結び目にこそ身を置けば良かったのだ。ただそれだけのことだったのだ……
『肉の宴』はそんな確信と安息を、ノガミに与えてくれた。
それにしてもあの肉は、アヤカは良い。
事件の詳細を聞いて、その顔写真を送付され、自身の患者になると決まった時には心が躍った。必ず宴の肴にしようと決めた。
初めて、地下室に送り付ける前に手をつけた。今までで最高の肉だ。
あぁ、我が親友に感謝を。そしてこの素晴らしき試みを考え出した、尊き神父様に感謝を……アーメン。
机上に置いたケータイが振動し、親友『川越充』の名が表示される。ノガミは微笑んで、一旦祈りを中断させた。
「もしもし?」
『おう、ノガミ……急にすまんな』
「いや、別に構わんが……どうした?」
ミツルのやけに深刻そうな声に、ノガミは突然酔いから覚まされたような不快感を覚えた。
『……ミハラが殺られた』
微かに震える声で、ミツルが言った。
ノガミは事態を掴みかね、二人の間に一瞬の沈黙が流れる。
「何……?」
『今しがたモウリから連絡が入った。裏通りでケントの捜索を続けていたそうだが……』
「ま、まさか……」
『撲殺だそうだ。連れ歩いていた手下の一人も殺られた。二人とも、殆どミンチみたくなっていたらしい……それと現場から、ミハラがいつも持ち歩いていたバットが無くなっていたと……』
次々と親友の口から告げられる情報によりノガミの脳裏に浮かんだのは、言うまでもなくケントの顔。その虚ろな目。
「そんな筈はない」
その言葉は、殆ど無意識の内に口を突いて出ていた。その声は、恐怖と錯乱に激しく震えていた。
「もう、あいつの精神は限界を迎えていた筈だ……感化院に来た時から、ちゃんとあの方の言う通りに、虫一匹殺す力も無くなるまで徹底的に追い込んだんだ……まして二人も……あのミハラを……」
『落ち着け、ノガミ。気持ちは分かる。だが落ち着け』
そうして宥めるミツルの声も、ノガミほどでは無いにしても震えていた。
『ケントが殺ったと決まったわけじゃなかろう。あいつはあちこちで恨みを買ってる。別の族に消されただけかも知れん』
「『かも知れん』じゃないッ! そうに決まってるだろうがッ!」
ノガミは思わず椅子を蹴飛ばすように跳ね起き、電話越しに絶叫した。
そして、己に言い聞かせる。
偶然だ。
偶然、悪条件が重なっただけだ。
タイミングが悪いだけだ。
狂人に煩わされるな、野上正一。
私は医者だ。ヤツは狂人だ。
私はヤツよりヤツを分かっている。
そもそもヤツが、私に反撃する権利などあろう筈がない……
『……ガミ。ノガミ……』
しかし。
本当に徹頭徹尾、手を打っていたか?
快楽に興じる中で、用心を怠ってはいなかったか?
「悪魔の子」を前にして、最初の心構えを失ってはいなかったか?
ミツルの妻から与えられたあの情報に、もっと注意を払うべきではなかったか……?
『……ノガミッ!!』
「はっ……」
電話越しに上がられたミツルの怒鳴り声で、ノガミはようやく我に立ち返る。
『落ち着け』
「あぁ、あぁ……すまない、ミツル……少し気が動転して……私としたことが……」
『いいんだ……無理もない。安心しろ。モウリのツテで、もうマル暴に話は行っている』
「あぁ、暫く外出は控える……」
『そうだ、それでいい……ともかく、用心を怠るなよ』
荒い呼吸を肩で整えながら、ノガミは床に転がった椅子を起こして再度身を沈めた。
大丈夫だ。きっと大丈夫だ……
「ノガミ
廊下の向こうから不意に呼びかけて来た気の抜けたメイドの声に、思わずノガミはビクリと肩を震わせる。
「警察の方がいらっしゃってますがぁ」
ノガミは安堵し、胸を撫で下ろした。
そして深くため息をついて、頭をかいた。窓からは変わらず陽光が差し込んでいる。電話越しに友の声も聞こえる。
何を心配することがある、馬鹿馬鹿しい……
『どうした?』
「いや問題ない。警察が来たようだ……お通ししなさい!」
「はぁい」
『なんだ、もう来たのか? やけに早いな……』
友との電話の片手間に、メイドに指示を出す。何ら変わらない日常が、そこにはあった。
暫くして、コンコン、とノックの音が響いた。
「どうぞ……一旦切るぞ、ミツル」
『あぁ、また後で……』
呼びかけに応じて扉が開かれ、友との通話を切ろうとしたその時。
べしゃり。
やけに生々しい音が響く。来訪者が部屋に投げ込んだ物体が、床をゴロゴロと転がって赤く汚した。
「悪いな先生、折角の休診日に……」
来訪者は警官ではなく、片手に血濡れの金属バットを握り、深緑のモッズコートを纏った小柄な青年だった。人形のように虚ろな目をしたメイドが、その隣に立つ。
来訪者の目はそれとは対照的に、狂気に満ちた四白眼。部屋に差し込む柔らかな陽光が、その瞳から迸る赤光に塗り替えられる。
床に転がっていたのは、臓物だった。
「それ、ミハラの……コートのポケットに入ってたんだわ」
『ノガミ……?』
何を訝しんだか通話を切らなかった友の声が、虚しく部屋に鳴り響く。
『ノガミ! どうしたッ!? ノガミッ!!』
「あー、相変わらずうるせぇなぁ。ミツルさんは……」
ノガミは無遠慮に部屋に踏み込んで来る来訪者に操られるように、震える手でケータイを渡す。
「あー、もしもし?」
電話越しに響く気の抜けた声に、ミツルは聞き覚えがあった。一瞬の沈黙の後、小さくその名を呼ぶ。
『ケント……?』
「うん、そう……ちょっと先生に用事があってさぁ」
ケントは口元を歪め、ニタニタと笑いながら告げる。
「済んだらすぐ帰るから。大人しく待っててくれよ。実は、同じ用事があんだよ。ミツルさんにも……」
言い終えるとケントは一方的に通話を切って、無造作に放り投げた。ケータイは放物線を描いて飛び、ミハラの臓物にズブリと突き刺さった。
そして彼は、恐怖の余り微動だに出来ず、何も言えないノガミに赤い瞳を向け直す。
「『虫一匹殺す力もない』って……? まァ、それはそうかもな。でも別に殺さなくたって、出来ることは色々ある」
ケントが片手に持ったバットを無造作に振り上げると、付着していた鮮血が部屋に飛び散る。
「安心しろよ、殺さないから」
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