地獄の扉
アヤカは目を閉じて歩いた。
裏通りを吹き抜ける湿気った風から、場違いに差し込む美しい夕陽から、脂ぎったミツルの手の感触から、自身を取り囲む川越の養子たちの気配から逃れようと、瞼の裏にこびりついて離れない、勝手に抱いていた淡い幻想を見事に打ち砕いて立ち去ったケントのか細い背中に縋り付いた。
「おい、旦那」
柄の悪いしゃがれ声の主は、美作組直系毛利組組長・
「なんだ、モウリ。まだお前の出る幕じゃないぞ」
「冷たいこと言うなよ。ここで声かけなきゃ、どうせあんた俺たちと口聞いちゃくんねぇじゃねぇか」
ミツルはフン、と不愉快そうに鼻を鳴らす。モウリはそれを無視して、目を閉じたままミツルに手を引かれるアヤカに目線をやって下卑た笑みを浮かべる。
「ククク、やっと見つけたか。さっさと済ませて俺らにも回せよ」
「お前にもこういう趣味があるのか? 意外だな」
「ばぁか、俺ぁもうそんなもん枯れちまったよ。ミハラの奴が待ちかねて暴発寸前なんだ」
「ミハラか……最近顔を見ないが、元気でやってるのか」
「おう、元気も元気さ。あいつらが街中
「あー、分かった、分かった。とにかく一旦連れて帰るぞ。こっちはこっちで、ノガミの奴が待ちくたびれてるんだ」
「あいよ、旦那。ノガミか……くくっ、器用だねぇ、あんたらは。俺たちもそうありたかったもんだよ……じゃあな」
そうしてモウリは満足げに微笑んで、裏通りの闇へと消えて行った。
アヤカはそんな二人のやり取りを、瞼をきつく閉じたまま最後まで聞いていた。
あぁ、私はまだ汚れたりないのね、などと、どこか他人事のように思いを巡らせる。彼女はもう、心も体も捨て鉢になっていた。
♦︎
アヤカは、川越邸の門を目を閉じたまま潜った。それは初めての体験であったが、別段新鮮味のあるものではない。ここが地獄であることは変わらない。
ただ彼女の心をさらにその深みへ突き落とした出来事は即ち、ここが今日、決して逃れようのない檻となってしまったこと。
彼女は闇に視界を預けたままミツルに手を引かれ、池沿いに中庭を抜け、渡り廊下を歩き、本邸の敷居を跨ぎ、ミツルの書斎から『秘密の地下室』へ続く扉の開く音を聞いた。
「おう、ノガミ。もう来てたのか」
「あぁ、ちゃんと連れ戻せたんだな。良かった、良かった……ん、ケントは?」
「さぁな……まぁそれは、後でアヤカにじっくり聞くとしよう」
「くくっ、そうだな……」
アヤカは、心底愉しげに笑いながら自身の髪に、肩に触れるノガミの手の感触に、病院で最初に受けた陵辱を思い出して
駄目だ。やっぱりこれには、いつまで経っても慣れやしない。
地下室へ続く階段は、目を閉ざす必要もない程に暗い。用心深くそれを一歩、一歩と降りながら、アヤカはケントの背を思い、心中に叫んだ。
ケントさん、助けて。
ケントさん、助けて。
ケントさん、助けて……タスケテ……
やがて彼女の身に、獣たちの指が、舌が這う。
♦︎
T市裏通り。カプセルホテルの一室にて、抜け殻と化したアヤカは粗末なベッドに横たわる。
ギャアァァァァァァァアァァァア……
ユミコにその記憶を流し込まれたケントの絶叫がこだまする。
それはアヤカの心中の悲鳴が伝染したかのような、煉獄の火に炙られる乙女を思わせる悍ましい金切り声であった。
床に倒れ込んでのたうち回りながら、ケントは嘔吐した。夥しい量の
ギャハハハハハハハハハハハハハハ……
むくり。
ひとしきり笑うと、ケントは意外にもすぐ起き上がった。吐瀉物に塗れ、皮肉にもかつての深緑を取り戻したモッズコートを身に纏った、もはや人ではない怪物がそこにはいた。
「殺す」
それはチンケな義憤でも、決意表明でもない。極めて自然に漏れ出た、一人の悪魔の独り言であった。
ケントは抜け殻と化したアヤカを一瞥するとすぐに目を離し、フラフラと出口へ向かう。
「また置き去りにするの?」
「アヤカの代弁でもしてるつもりか」
冷淡に言い放ったユミコに、ケントは背を向けたまま答える。その声には何の感情も窺えない。
「ホントは今すぐ
ケントが、少しだけ振り向いた。片方だけ見える狂気に満ちた四白眼の奥から僅かに漏れ出す赤光に、思わずユミコは身を震わせた。
「代わりを決めたんだよ」
ケントは頬を歪め、世界を、己を、全てをせせら笑うように言い捨てると、無造作に扉を開き出て行った。
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