密室

 ケントがアヤカを懐に抱いたまま飛び、川越邸のある住宅街、教会通りの空を抜けて裏通りの空へ辿り着くまでの時間は一分にも満たなかった。吹き荒ぶ風も、天上から見下ろす人々も、今の彼には何ら代わり映えのしない空虚なものに思えた。

 カプセルホテルの天井に降り立ったケントは屋根伝いに歩いて前と同じ部屋の窓に辿り着くと、何の躊躇いもなくそれを叩き割り室内に侵入した。


 ケントは人形のように自失したアヤカをベッドに放り投げると、血に塗れたボロ布を脱ぎ捨てて彼女の上に跨った。

 自身を見上げる彼女の虚ろな目に反射して、赤光が迸る己の目を見て言い聞かせる。


 俺は自我を失ったんじゃない。長い時間を経て、死を経て、漸く取り戻したんだ。


 アヤカは無抵抗のまま、呆然とケントを見上げている。ケントは彼女が昨日と同じコートを身につけていることに気付き、それを引き剥がそうと首元のボタンに手をかけた瞬間、背後に立つ何者かの気配を察した。振り向く間はなかった。


「いいのね、それで」


 ユミコの声。今度は、頭に直接語りかけては来なかった。それは氷のように冷たい、極めて人間的な声だった。

 ケントは無視を決め込んで行為を続けることが出来ず、その手を止めてしまった。


「あら、やめちゃうの? 別に邪魔しに来たわけじゃないわよ。出て行けと言うなら、出て行ってもいいわ」

「じゃあ何しに来た」


 恐ろしかった。ケントは己で己を誤魔化していたことにあっさりと気付かされ、小刻みに震え出した。


「大事なことを教えに来たのよ。アナタを苛むそのケダモノとやらの正体をね」

「勿体つけねぇでさっさと教えろ」


 ケントはアヤカに跨ったまま、振り返りもせず虚勢を張り、割れた鏡に映ったユミコを詰った。彼女の目に赤光は灯っていない。


「悪魔になる条件は三つ……」


 ひとつ. 同族の命を絶つこと

 ふたつ. 悪魔に純潔を捧げること

 みっつ. 自らの意志でその生を終えること


 淡々と突きつけられた、三つの条件。

 恐怖の中で、なるほどな、とケントは他人事のように納得した。それと同時に、目の前で人形のように横たわるアヤカを穢すことに、また新しい意義を感じ始めた。


「無駄よ」


 また、思考を読んだユミコが冷酷に告げる。


「その子はもう、から」


 割れた鏡に映るユミコがどんどんと大きくなる。やめろ。寄るな。知りたくない。聞きたくない……

 しかしケントは微動だにできなかった。ユミコの冷たい手が頭に触れる。

 否応無しに流れ込むのは、アヤカの記憶。虚ろな目の奥に隠された、絶望の正体。

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