第Ⅱ篇「ニナ」
☆☆★★★★★
ミリオポリス
二十世紀の初頭まで、歴代の神聖ローマ皇帝がその居城として執務・生活・儀礼を行ってきた宮殿――現在は大統領府/国際会議場/スペイン乗馬学校/ウィーン少年合唱団がミサで歌う礼拝堂が備えられる、
夕刻=大広間で開催される舞踏会――いならぶ政財界の有力者/まさに上流階級の社交場。
「この都市にも春が訪れようとしている……そうは思わないかね、エゴン局長」
中年の男――閣僚バッジ/がっしりとした体つき/対照的な小さな目/ゆったりとした手つきで繰るグラス=透明な白ワイン――おっとりとした白クマの穏やかさ。
「それは、どういった暗喩ですかな? イグナツ・フォン・エアラッハ内務大臣」
壮年の男――長身痩躯/黒ずくめのスーツ/細長い指にグラス=血のような赤ワイン/眼鏡の奥に宿る神経過敏気味の眼差し――静かに周囲を観察する黒いカマキリの雰囲気。
「言葉通りの意味だよ。長い冬を過ぎて、そろそろ
「夢物語に聞こえますな。現に今も、この舞踏会に反対し旧市街へと押し寄せた数千人のデモ隊に対し、〈
慇懃無礼なエゴン――全てを危険視するカマキリの警戒姿勢。
首をすくめるイグナツ――溶けることのない氷山を前にして、困り果てた白クマのよう。「……君の言いたいことは理解できる。誤解から争いが起こることも否定しない。しかし、我々は互いに手を取り合うこともできるとは思わないかね?」
「失礼ですが、我々未来党と袂を別ち、エドワルト首相を擁する社会党を新たなパートナーに選んだ貴方がた国民党とは、とても共にワルツを踊る気にはなれませんな」
「では、私となら踊っていただけるでしょうか? エゴン局長」
広間の奥から歩み来る女性――優雅な足取り/ホールの来客らが思わず振り返ってしまうような美貌の持ち主。
純白のドレス――長く美しい黒髪/漆黒の
エゴン=無表情/イグナツ=柔和な笑みで女性を迎える。
「これはこれは、ニナ長官。君のような麗しい美女がいてくれると、この舞踏会もいっそう華やぐよ」
妙齢の美女――MSS長官ニナ・
「こちらこそ、お二人とお会いできて光栄です」
悠然と微笑む――鋭い棘を隠そうともしないその姿に、エゴンが目をぎらつかせる。
「皮肉に長けるのがMSSの伝統のようだ」相手を咎めるように。「公安は、都市の中心地が非ドイツ系市民に占拠されているというこの惨状を、ただ静観するつもりらしい」
睨み合う治安機構と公安のトップ――黒カマキリと白き女王。
まるで美女と野獣――ホールのあちこちで、何事かとざわめき。
イグナツ=慌てて咳払い。「デモはすぐに鎮静化する。この件が市民に危険を及ぼすことはない。……そうだね?」
ニナ=断定口調。「我々が得た情報からは、今回のデモが危機的状況に発展する兆候は認められません」
情報力において公安に勝る組織は存在せず――音楽団が演奏を再開/来客たちが安心した顔で歓談に戻る。
「この場にはドイツ系以外の有力者もいるのだよ。不用意な発言は謹んでもらいたい」イグナツ=ハンカチで冷や汗を拭う。
エゴン=悪びれず。「お前たちMSSは、昔から変わらない。情報で先行し、それを独断し、独走することで組織内に不協和を招く」
眼鏡の奥で目を刃物のように尖らせる――まるで今すぐ獲物に襲いかからんと鎌を構えるカマキリそのもの。
おろおろするイグナツ/平然としたニナ――エゴン=手にしたワインを一気にあおる/おもむろに踵を返す。「私はこれで失礼する。BVTは公安と違い、都市の平安を得るため忙しい」
ニナ=その背に言葉を投げかける。「〈アルゴー座〉という星座をご存知ですか?」
煩わしそうに。「知らんな。公安は天測でも始めたいのか?」
皮肉には取り合わず。「現代において、らしんばん座・ほ座・とも座・りゅうこつ座と呼ばれる四つの星座は、元は
〝だからなんだ?〟と苛立つように顔を歪めるエゴンに、なおも語りかける。「アルゴーとは、ギリシャ神話に登場する船の名前――英雄たちはその巨大な帆船に乗り、共に力を合わせ、苦難の航海を乗り越えるのです」
「ふん」エゴン=嘲るように鼻を鳴らす。「ここはコルキスではなくミリオポリスだ。せいぜい空想的な旅路の果てに、岩に挟まれて沈まぬよう気をつけることだな」
捨て台詞――今度こそ振り返らず会場を歩き去る。
立ち去る男の背中をただ見送るニナ――イグナツが肩を落とす。
「彼もあれで大変なのだよ。聖週間を間近にひかえ、重要施設の警備や要人警護の人員配置に神経を尖らせる気持ちも理解できる。迫る今期の大統領選に向け、国内はどこも大忙しだ」
〝だから多少は大目に見てやって欲しい〟と目で訴えるイグナツ――内務大臣は国内治安機構の親玉/まるでエゴンを庇うことで、自らの不甲斐なさを詫びているようだった。
ニナ=毅然と。「MSSはつねに他組織と共闘する用意があります。いつか必ず、同じ船の
「そのために君は進み続けるというのだな」イグナツ=その真意を確かめるように。「それで……君たちはこれからどこへ進もうというのかね?」
「こちらを――」ニナ=
「マスターサーバー〈
「アルベリヒ建設――市内有数の企業体である同社の関係者が、まさかテロ支援を行っていたなど……俄かには信じられんよ」
〝何かの間違いであって欲しい〟とすがりつくようにかぶりを振るイグナツ――しかし、二ナの凛とした眼差しに飲み込まれる。
「確かな情報です。さらに建設資材を偽装して、何らかの兵器と思われる構造体が複数のパーツに分割され、同社の所有する資材工場の一つへ、すでに運搬された形跡があります」
「なんということだ……」絶句するイグナツ――すかさずニナが切り込む。「敵兵器を阻止するすべは、強制捜査権の行使による該当施設の制圧しかありません。どうか、ご許可を」
「しかし……アルベリヒ建設は社会党の推進する〝都市再開発計画〟の立役者でもあり、その母体であるゼプテンバー社は未来党分派〈
「なんだと」驚くイグナツ――〝信じられない〟といった表情でニナを見る。相手の真摯な眼差し――荒波を意に介さぬ強い意志。
独立州軍である
〝いつか同じ船の櫂を漕ぐ〟――揺るがぬ信念。
相手の本気を悟る。その決意を悟る。「――分かった。首相と法務省へは、私から話を通しておこう」
指先が端末に触れる=指紋認証による電子サイン/受理される書類の数々――特定施設への捜査許可/司法長官による追認保証/首相及び内務省による出動指令書――全て承認=二秒余。
宙に投影される画像群が消失――最後にこれらの書類が、国家及び市議会によって承認された証でもある〝
「ありがとうございます、内務大臣閣下」ニナ=決然たる笑み。「この国の治安機構が掲げる全領域警備思想――我々MSSこそがその提唱者であり、この都市で最も体現した存在であることを必ずや証明してご覧に入れます」
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