フロント事務所

 亜細亜運輸の本社は国道に面した二階建ての事務所だった。一階は駐車場になっており、二階に昇る細い外階段が片隅についていた。駐車場にはベンツ、ベントレー、レクサスが駐まっていた。ロールスロイスまで持っていた六甲建材のコレクションに比べるとそれでも実用的な感じがした。

 「まさにフロントの事務所だな」伊刈が言った。

 「どうしてですか」喜多が尋ねた。

 「襲撃されないように二階を事務所にして階段をうんと狭くしてるだろう。外階段も弾除けの壁で囲ってある。扉は鋼鉄だろう。」

 「そういえば六甲建材の事務所とそっくりですね」

 「それにしては一階の駐車場はシャッターもないし無防備なんですね」夏川が言った。

 「高級車を並べておくのは半分見栄だよ。車は壊されたって保険で直るけど命はそうはいかない。二階に上がると社長室は一番道路側で、きっと神棚があるよ」

 「道路側は狙撃されやすいんじゃ」

 「カチコミあの時に逃げるためだよ。二階なら飛び降りられる」

 「詳しいんですね」

 「いろいろ行ったけど、どこもそうだったものな」伊刈が喜多を見ながら言った。

 表札のない階段を上ると二階の扉に亜細亜運輸、住商物産、磐木建設、善江(よしえ)の四枚の表札がかかっていた。

 「これって磐木グループってことですか」喜多が感心したように言った。

 二階の事務所内は土足厳禁だった。それだけでも社長の神経質さが窺い知れた。沓脱ぎでスリッパに履きかえて挨拶すると、伊刈の予言どおりに雑然とした事務所内を横切った奥にある社長室に案内された。社長室は予想よりかなり狭かった。小さな机にうずたかく書類が積まれているところがなんでも自分で決裁するワンマン社長らしかった。熊手が飾られた神棚はありえないほど質素だった。伊刈は軽く手を合わせた。磐木社長と四人の検査チームが座ると小さな応接セットは満杯になった。

 「狭くて悪いな。さすがにここじゃもう手狭だから来月にはもうちょっとましな事務所に移転するんだ」

 「そうですか。それじゃ移転してから来るとよかったですか」伊刈が皮肉っぽく切替した。

 「ああそうだな」磐木はまじめに頷いた。

 お茶を運んできた若い事務員がモデル並みにチャーミングだったので喜多がびっくりしたような顔で彼女を見上げた。上背もあり読者モデルなら十分やれそうだった。

 「俺は廃掃法(廃棄物処理法)の条文なら全部暗記してる。通達も全部読んでる。違反しないためじゃない。そんなのは当たり前だ。法律に書いてないことをやるためだ」磐木は開口一番、出鼻をくじくように言った。はったりではなく彼が勉強家なのは有名で言い負かされる市職員も多かった。

 「それが磐木さんの経営哲学ですか」伊刈がひるまず皮肉に切替した。

 「そういうことだな」磐木はまたもやまじめに頷いた。

 「でも今日は法律の検査じゃないんです」

 「法律じゃないんならなんの検査だい」

 「座礁した船の荷のことですよ」

 「ほほうなるほど」磐木はちょっとバカにしたような顔をした。「それは明日警察に説明することになってるがね」

 「警察とは関係ありません。一つだけ教えていただければ余計な検査はしないで帰りますよ。警察と役所では観点が違いますから」

 「で何が聞きたいんだよ」

 「残土の搬入量と金額のわかる会計書類を拝見したいんです」

 「ほう一つだけってのは会計書類のことか。わかった。ちょっと待ってろ」磐木社長はあっさり承諾するといったん中座し、しばらくして手ぶらで戻ってきた。

 「見ない顔だが伊刈さんは今年からかい」磐木は伊刈が要求した書類をどうするつもりかには触れずに打ち解けた様子で話しかけた。伊刈たちの検査が正式なものか市庁に確かめた節もあった。用心深い性格である。

 「県庁からの出向なんです」

 「県庁でも見たことないね。産廃を担当するのは初めてだね」

 「正直に申し上げますと二年前に初めて廃棄物処理法を読みました。磐木さんの方が私よりずっとお詳しいようですね」

 「そりゃあそうだ。俺はもうこの道三十年だからな。全条文暗記してるよ。でもまああんた初めてにしては勘がよさそうだな。勉強も大事だが勘はもっと大事だからな」

 「そうでしょうか」

 「ああそうだ。で、どうして会計書類が見たいんだ」

 「残土にはマニフェスト(産業廃棄物管理票)がありませんから」

 「ほう」

 古参らしい事務員が入室してきてメモをこっそり磐木に渡した。しばらく数字をチェックしてから磐木は向き直った。

 「会計書類は出せないけど、これがあんたが聞きたい数字だ」

 手書きのメモには意味不明の数字が並んでいた。あっさり帳簿を出す玉ではないと思っていたがなるほどそう来たかと伊刈は思った。

 「この数字は搬入量と金額に相当するものですね」

 「そうだ」

 「そうすると単価が九千円になります。残土としてはちょっと高いんじゃないですか」伊刈はメモを一瞥しただけでわざと暗算で言った。

 「ほうよくわかるね。それには運賃が入ってるんだよ。穴は五千円だよ」

 「ダンプは何台お持ちですか?」

 「なんでそんなこと聞くんだ」

 「参考までに」

 「五十台くらいじゃないか」

 「配車表はありますか?」

 「ああもちろんあるだろう。だけどあんた、聞きたいのは一つだけじゃなかったのか」

 「配車表も会計書類のうちです」

 「口の減らないやつだな。まあいい、ちょっと待ってろ」磐木社長は再び中座し、走り書きのメモを一枚だけ持って戻ってきた。

 「これが昨日の配車記録だよ」

 「これでは正しいのかどうか確認できません。帳簿の原本を見せてもらえませんか」

 「これでいいだろう。嘘じゃないよ」

 「原本がだめならコピーでもいいですよ。書き写したメモじゃ帰れませんよ」

 「しょうがないな。ちょっと待ってろ」磐木社長は配車表のコピーを一枚だけ持って戻ってきた。

 「これだよ」

 「なるほど確かに富士港運の置き場まで残土を取りに行ってますね。これを確認したかったんです」

 「満足したかい」

 「ええ配車のことはわかりました」

 「まだなんかあるのかい」

 「産廃の許可をお持ちのようなので、その分のマニフェストを全部見せていただけますか」

 「マニ伝は会計書類なのか」

 「もちろんです。請求書の添付書類にされてるでしょう」

 「口の減らない。全部ってどれくらいだよ」磐木がいらいらしたように言った。

 「一年分です」

 「あんたそれは相当な量だぞ」

 「全体のボリュームを確かめたいんです。一枚ずつ見たいわけじゃありません。もしもデータ化していらっしゃればそれでもかまいません」

 「あんたうちにデータがあるって知ってて言ってんのか」

 「それは知りません。それから決算書も拝見したいんですが」

 「税務署でもないのに関係ないだろう。なんの権限があって言ってんだ」

 「決算書は許可申請書にも添付してもらっていただいている検査の必要書類ですよ」

 「決算書は出せない」

 「社長さん、出す出さないの議論はやめませんか。今出してもらえないんなら文書で命じるだけです。後先の問題ですよ」

 「ほうなるほどわかったよ」磐木は伊刈を睨みつけると決算書を持ってきた。

 「これだよ」

 伊刈は決算書を見もせずに喜多に渡した。磐木を相手の検査は難航を極めた。資料を要求しても磐木はすぐに原本を出さない。なぜ見せる必要があるのか根拠をじっくり聞いてから一部をコピーするか数字を転記して持ってくる。決してノーとは言わないがイエスとも言わない。しかし伊刈は粘りづよく押し問答を二時間以上も続けた。まるでメモ用紙を交換しあう古典的なロールプレイングゲームのようだった。小出しにされる数字をジグソーパズルのようにあるべき場所に丹念につなぎ合わせていく伊刈がだんだん形勢を逆転していった。

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