ガット船座礁
「おおっ、ガット船だぞ」正午のニュースを見て仙道が声を上げた。
テレビ画面にはアクアライン(東京湾横断道路)の人工島「海ほたる」に漂着した土砂運搬船を報道ヘリから撮影した映像が映し出されていた。「アクアライン一時通行止め」とテロップが出ていた。
「ガット船てなんですか?」喜多が聞いた。
「山砂や残土を運搬する荷揚クレーンのついた船だよ。広島で使ってた船かもな」仙道が説明した。
ニュースを見終えるや県警本部の弥勒補佐から仙道に電話があった。
「ええニュースは見ました。一大事ですな…えっ捨て場は例の先生のとこですか…それならこちらもできるかぎりの協力はしますよ…じゃあ船はもう君更港に曳航されてアクアラインの閉鎖も解除されたんですな…三管(海上保安庁第三管区)、警視庁、神奈川県警と合同で実況見分をやるんですか…ほう産廃が漂着して漁組が怒ってる…海苔に被害が出るかもしれない…そりゃ騒ぎになるはずだ…ええこっちの捨て場の調査は内密に進めます」課員全員が仙道の電話に聞き耳を立てていた。
「テレビで見たとおりだ。エンジントラブルで海ほたるに座礁した土砂運搬船だが、自力で積荷を海に捨てて転覆を免れた。油の流出はなかったがゴミが海苔の養殖場に漂着したらしい。船は君更港まで曳航された。船主は東亜港運だ。内航じゃ大手だな。問題は残土の持って行き先なんだが、うちの管内の亜細亜運輸に持ってくるはずだったそうだ」
「なんでこっちの方まで」伊刈が聞いた。
「あんまり公言できんことだが船荷の残土にそうとう産廃が混ざっていたらしい。海にゴミを捨てた以上、海洋汚染で立件されるだろうな」
「うちに何をやれっていうんですか」
「とりあえず船がどんなだか見てこい」
「亜細亜運輸の社長って元県議ですよね」
「おまえがそんなこと気にするのか。警察はバッチからみだとかえってその気になるもんだ。うまくすれば総監賞ものだからな。警視庁がわざわざ乗り出したのもそのせいだろう」
「すぐに行ってきます」
伊刈は夏川と喜多を連れて座礁船の確認に向かった。君更港には航空自衛隊のヘリコプター基地があり、周辺は輸入木材の広いヤードになっていた。ここで何か月も雨ざらしにして木材の芯まで浸透した殺虫剤を抜くのだ。地図をたよりに港湾内の迷路のような道を走って曳航された船が見える場所にやっと到着した。
「あれですね」喜多が言った。
土砂運搬船の船腹が見えてきた。ブリッジの後ろに荷揚げ用のクレーンがついた特徴的な船体は遠くからでもすぐに見分けられた。いわば海上のユニック車(トラッククレーン)だった。船上では警視庁と海上保安庁の合同実況見分のさなかだった。かなりの老朽船で船体が真っ赤に錆びているのに修繕された形跡もなかった。船腹に消えかかった船名は「第五大栄丸」と読めた。
「もともとは家島ガットなんでしょうね」
「なんですか」喜多が夏川に聞いた。
「瀬戸内海の島ですよ。そこの海砂採取船が有名なんです。でも今は広島の海砂は採取禁止ですから」
瀬戸内海の家島の海砂採取船は家島ガットと通称され、西日本の戦後の土建業を支えてきた。しかし広島や岡山の沿岸侵食が深刻になり海砂採取が禁止された。そのためサンドポンプを外したガット船が東京湾の土砂運搬船として第二の人生を生きていたのだ。オーナーが変り本拠地が変わっても旧船名を継承していくのが海運の風習だった。第五大栄丸とは五代目の大栄丸という意味である。だがもう第六大栄丸は建造されないだろう。
「船腹に座礁したときの傷がありますね」夏川が言った。
「そんなに深い損傷じゃないな」伊刈が言った。
「ガット船は機関士がいないMO船(機関区域無人化船)ですからエンジントラブルに対処できなかったんでしょう」夏川が答えた。
「夏川さんは土砂のことならなんでも詳しいね」伊刈が感心したように夏川を見た。
船上の実況見分には参加できなかったので、伊刈は船が最初に漂着したアクアラインに行ってみた。海上の展望台からは東京湾を行き交う無数の船舶を一望できた。アクアラインをランドマークにするかのように羽田空港に着陸する旅客機が上空を次々に通過していったが、潮騒にまぎれて騒音は気にならなかっった。
「空気が澄んだ日には富士山の稜線がきれいに望めるんですよ。ちょうど横浜港の高層ビル群のあたりです。あいにく今日はガスが多いですね」夏川が指差す方向には、みなとみらい地区のランドマークタワーがかすんで見えた。晴れていれば左手に富士山も見えるはずだった。
「海ほたるの人工島造成には海底トンネルを掘ったときの汚泥が利用されてるんです」
「夏川さんてすごいですね」喜多も夏川の知識に驚いていた。
アクアラインをUターンして、今度は座礁船が着くはずだった一原市の公共埠頭に向かった。ガット船で都内や神奈川の残土を運搬できる一原は首都圏最大級の残土処分地域になっていた。土砂ダンプの粉塵で真っ白に汚れた岸壁周辺の道路は飛砂に覆われる中国内陸部の都市さながらだった。岸壁という岸壁が残土であふれ、海上はガット船のほか達磨船と呼ばれるバージ(はしけ)、タグ屋の引き船やプッシャーボートなどまさに土砂運搬船の展示会場だった。どれも老朽船ばかりで、東京湾は土砂運搬船の最終処分場だった。
「一原から南の岸壁はずっとこんな感じですよ。山砂を都心に運んで戻りの船で残土や汚泥を持ってくるんです。残土は山砂を掘った後の穴に埋められます」夏川が説明した。
「つまり自然の山がどんどん削られて残土の山になっていくってことか。それじゃ環境団体が反対するわけだな」伊刈が応えた。
「今に始まったことじゃなく戦後の高度成長期からずっとこれが続いているんです。環境団体がどんなに反対したって、首都圏じゃここしかいい砂が出ないし、ここしかいい捨て場がありません。これからもずっと何十年も何百年も続いていきますよ。この地域の山砂は今のペースで掘って千年分あるんだそうですよ」
「冗談じゃないよ。それじゃ県土が残土で埋まっちゃうじゃないか」
「犬咬では産廃の問題が大きいですが、この地域の環境問題は山砂が一番、残土が二番、産廃は三番です。建設不況で食えなくなった土砂ダンプが産廃を運んではいますが、建設ブームになってまた砂を運べる日までの一時のしのぎなんです」
「犬咬とは全然歴史が違うってことか」
「こっちはゼネコンが親玉ですよ。山砂を使うのはゼネコンですから」
「なるほど親玉が違うか」伊刈は馬場が言っていたトラの尻尾とはこのことかと思いながら夏川の説明を聞いていた。
公共岸壁の一角にグリーンの飛砂防止ネットを張り巡らせた残土のストック場があった。船から降ろした残土をここから内陸の捨て場へピストン輸送しているのだ。立ち入るチャンスを伺ったが、空ダンプがひっきりなしに入ってきては残土を積み出していくのでつけいる隙がなかった。
「産廃と残土ではずいぶん構造が違うみたいですね」喜多が夏川に聞いた。
「残土はダンプ一台二万ですから、千トン級の船でダンプ百台分の残土を運んだってたった二百万円ですよ。産廃に比べたら金額は大したことないですが量が出ますからね」
「港運会社の取り分をダンプ一台五千円として年間二百回運んで一億円だ。減価償却がとっくに終わった老朽船だから燃料代と船員の人件費を引いて残りがそっくり利益ってことだな」
「さすが班長、計算が速いですね」喜多が相変わらず感心したように言った。
「疑問なのはせっかく船でここまで運んだのに、どうしてダンプで犬咬まで運ぶつもりだったのかな」
「もしかして漂流したんじゃなく、犬咬まで船で運ぼうとして転覆したんじゃないですか」
「なるほど。犬咬の漁港まで船で持って来れば亜細亜運輸の捨て場まではダンプで一日十往復できるな」
「ダンプ十台で十往復できるなら船一杯分の残土を一日で運び出せますね」
「喜多さん、それはムリですね」夏川が首を横に振った。「家島ガットは排水量千トン足らず、波の荒い外洋を航行できない平水船なんです。よっほど凪いでいる日じゃないと太平洋に出るのはムリなんです。外洋に出るには船団を組まないとだめです」
三人が車内で議論しているうちにダンプの流れが一時的に途絶えた。
「出たとこ勝負で入ってみないか」伊刈が言った。
「ほんとに大丈夫ですか。ここは県の管轄ですよ」喜多が心配そうな顔で伊刈を見た。
「わかってるよ」
「じゃ行きますよ」喜多はCR-Vをストック場に進入させた。場内にはユンボのオペが一人いるだけだった。オペは作業の手を休めて何事かとCR-Vを見守っていた。
「残土の検査です」伊刈が大声で告げた。犬咬市だとは言わなかった。
「役所かい? 俺にはわからんよ。会社に聞いてくれよ」
「どちらの会社ですか」
「そこに書いてあんだろう」汚れた看板に「富士港運土砂置場」の文字が見えた。電話番号は消えかかっていた。
「社員の方ですか」
「俺は今日だけ頼まれた。会社のもんじゃねえよ」
「船はいつ着きますか」
「さあねえ、今日は来ないだろう。なんか海で事故があったって聞いたよ」
「残土はどっから来るんですか」
「知らないけどよ。たぶん川崎からじゃないか。ダンプが待ってるからあんたらの車どかしてくれねえかな」気がつくと空ダンプが入口で待っていた。
「ここは県の条例のストック場の許可があるんですか。あるとすれば何か表示があるはずですよね」
「だから会社に聞いてくれって」オペは面倒くさそうに言うとユンボの窓を閉めて作業を再開した。
法律の規制がないため無秩序だった残土の保管、運搬、処分に対して各自治体が条例による規制を始めていた。だが流入自体を規制できない中途半端な条例はかえって合法的に残土を呼び込んでしまう逆効果の面もあった。
「日が暮れる前に亜細亜運輸の捨て場に行ってみるか」
「それなら管内ですから」伊刈がはったりで始めた埠頭の指導が事なきを得て喜多はほっとしたように応じた。
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