いつものホ

 女子大生のナオミが伊刈に電話してきた。

 「いつものホ…場所でいいですか」電話口でナオミはいつものホテルと言いかけてやめた。周囲で誰か聞き耳を立てていたのに気付いたのだろう。

 「いいよ」伊刈は苦笑しながら答えた。

 いつものホテルとはサンリゾートホテル・マイハマのことだ。彼女が週一回土曜日限定でバイトしているディズニーランドから一番近いホテルだ。ミッキーのそばで働きたいという子供のころの夢をかなえたのだ。おみやげの売り子にすぎなくても、厳しい審査と研修のあるディズニーリゾートで働くことはステータスで、SNSの話題づくりのためにも最高のバイトだった。いつの間にか伊刈はナオミのバイトの日にはリゾートの従業員出入口の近くにあるホテルのロビーで待つのが恒例になっていた。またクスリを始めないかと心配で頻繁に連絡を取り合っているうちに友達以上の関係になったのだ。市庁の同僚やセイラのバイトの子たちにはもちろん内緒にしていた。親友のリンカにだけはばれていたが何も言わなかった。

 「お待たせえ」ナオミが人目をはばからず手を振りながら待ち合わせ場所のラウンジにやってきた。約束より一時間の遅刻だったが、いつものことなので気にせずに伊刈はパソコンの打ち込みをしていた。彼女はこれ以上ないくらい薄手のキャミソールドレスを身に着け、十五センチのヒールのついたクリスチャン・ルブタンのサンダルを履いていた。念入りに磨き上げたファンデーションがなめらかな光沢を放っている。遅刻の理由は聞くまでもなく化粧時間だった。サンリゾートホテルはロビーを待ち合わせに使っているだけで食事をしたことはなかった。この日は横浜まで脚を伸ばす予定ですぐに駐車場に向かった。

 「あ、あれ可愛い」ディズニーでさんざん縫いぐるみを見ているはずなのに、ナオミはロビーのショップに飾られた大きなテディベアの縫いぐるみの前で棒立ちになった。こうなったらもう買うしかなかった。

 湾岸道路が空いていたので浦安から三十分で横浜に着いた。立体駐車場は目が回るから嫌いだというナオミの希望で、車を山下公園前のグランドホテルの地下駐車場に駐め、徒歩で中華街へ向かった。伊刈の行きつけは高級店ではないが台湾風の濃い目の味付けが気に入っている店だった。

 ナオミは「おいしい」を連発しながら点心もデザートも残らず平らげた。大きな口をいっぱいにひろげて海老や豚肉や杏仁豆腐をほおばるところを見ていると、可愛いという実感がわいてきた。小顔のわりに大きくて厚い唇と豊満な鳩胸のバストはアンジェリーナ・ジョリーに似ていなくもなかった。

 樽出しの紹興酒を何杯もおかわりしたせいでナオミの足元が不安だったので、酔いをさますためにライトアップされた山下公園を散歩した。公園の一番右手に小高い人工の岡があった。上ってみると迷路のような散策路のそこここに抱き合っているカップルのシルエットが見えた。ばつが悪いので引き返そうかと思っていると「こっち」とナオミが小声で言って、人目につきにくいとは言えない顔がかろうじて隠れる程度の樹の陰に誘った。伊刈は自然のなりゆきで彼女の体を抱き寄せた。ディオールより重いものを持ったことがないナオミの体は信じがたいほどやわらかかく、抱きしめると抵抗なくどこまでも変形していった。低反撥ウレタンみたいな特別の物質でできているような不思議な感触だった。しばらくその場にとどまって周囲のカップルの真似事を試みてからナオミの手を引いた。

 「こんなちっちゃな山じゃつまんないな。そうだ富士山登りたい」ナオミがいきなり思いつきを言った。

 「いいよ、じゃ今度」まるで精神科カウンセラーみたいに伊刈は何を言われても逆らわなかった。

 「今度じゃやだ、今夜」わがままはいつもながらだった。

 「夜は登山口が閉まってるよ」

 「じゃ明日の朝でいいよ。ご来光が見たい」

 「その靴じゃ七合目にも行けないと思うよ。河口湖から見れば」

 「やだ登るの。靴なんか買えばいいじゃん」

 「じゃ五合目まで車で行ってみよう。ご来光はムリだけど」

 「やったあ、お泊りだ~い」ナオミは伊刈の手をぐいぐい引き始めた。

 伊刈は翌朝からの計画を練り始めた。富士山を見ながら行くなら東名経由だ。昼食は御殿場のオーベルジュ・ルージュのフレンチにしようと決めた。以前と変わらぬ味を保っているなら都内のたいていのホテルはかなわない。クスリをやめてから妙な興奮こそしなくなったが、ナオミの無計画性は天性のものだっだ。朝になったらもう富士山のことは忘れていて、同じ山でも代官山に行きたいと言うかもしれない。それならそれでもいいと思った。リードしているつもりで、むしろ自分がナオミの色に染まっていくのがわかっていたが、伊刈は堕落の過程を楽しんでいた。

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