1day 10 minutes

槻木翔

first 10 minutes

5月の第2週、ゴールデンウィーク明けの朝。いつものように6時ちょうどに最寄り駅を出発する電車の先頭車両に乗り込んだ。4月の高校生初日に奴隷船のような満員電車の洗礼を受けて以来の習慣だが、この日は少し違った。というのも昨日までのゴールデンウィークによって生活習慣が乱れた結果、昨夜は12時を回るまで寝れなかったのである。翠の奴が興奮気味なラインを送ってきたのもあるが。

よって現在、俺はとても眠い。いつものように用意した本を開くが文字を追うばかりでどうにも内容が頭に入ってこない。

 ちょっと気を抜くと2ページ同時にめくってしまったり、同じ行を3回読んでしまったりする。そして必然といえば必然だが、俺の意識はふわふわとした眠りの世界へと旅立ってしまった。

「まあ、学校の最寄までは時間もあるし……」

 電車の中で眠ってしまうのがお決まりなら、目的地についても目が覚めないというイベントもセットでお決まりとして扱うべきであろう。そうなれば俺も、名前しか知らない終点駅で駅員に起こされ折り返しは圧死の予感すら感じる満員電車に揺られ、その挙句に遅刻というカタストロフの洗礼を受けていたであろう。いや、ことによったら起こされずに折り返しになり、そのまま昼間で電車に乗っていたなんて笑い話の一つも作れたかもしれない。

 しかし、5月の気まぐれのお天道様によって少し汗ばむ気温に設定されたゴールデンウィーク明けのこの日は違った。

 俺は控えめに肩をたたく感触で眠りの世界から引き揚げられた。俺のものではない石鹸の匂いが鼻孔をくすぐる。まだ意識の下半身が眠りの世界に残っている状態で重たい瞼を開けると、吸い込まれそうな大きくて黒い目と目が合った。

 あれか、こちらが深淵をのぞいているとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ、ってやつか。

 慌てて傾いた首を正すと、俺の動きを予期していなかった深淵、しつれい深淵というよりどう見ても女子高生だ、彼女は俺の頭をよけきることができずに、盛大にオデコ同士をぶつけてしまった。おかげで眠りの世界へ浸かっていた意識の半分も引き上げられ、初めて周囲の状況に意識を向けることができた。

 現在の状況としては、濃い緑の落ち着いたデザインのブレザーを着込んだ女子高生とオデコをぶつけて悶えているということになる。はて、なぜオデコをぶつけてしまったのだろうか?

 俺にとって頭をぶつけあった彼女は同じ時間に同じ列車に乗り合わせる女性、以上でも以下でもない。いつも眠っているので話しかけたこともないし、4月の初期をのぞいて意識もしてこなかった。問題はそんな彼女がどうして今更こんなに近くに近づく気になったかということだった。

 僕が右のような思考を数秒間の間で繰り広げていると、頭を押さえたままの彼女は片方の手で俺を指さしてきた。

 いつもの癖で後ろに誰かいないか確認をする。ここは電車の中で壁に沿って設置された椅子に座っていたのだから後ろに人などいるわけがないのだが。だが、結果としてそれがよかった。後ろに人はいなかったが、彼女が俺を指さしたのではないことはゾッとするほどよくわかった。

「やば!」

 窓の外に映っていたのはここ二か月ほど、馴染んで来た景色、つまり高校の最寄り駅であった。扉はまだ空いている。しかし扉が閉まることを知らせるベルが鳴っていた。

 今ならまだ間に合う!

 そう直感した俺は学校指定のカバンを掴むと閉まりかけの扉に突進し、間一髪でホームに転げながら脱出することに成功した。ちなみに、一歩間違えれば大けがになっていたかもしれないので今後は絶対にしない。よく考えれば、無理しておりなくても時間には余裕があるので隣の駅まで行って戻ってくればよかったのだ。そしてせっかく起こしてくれたあの女子高生にもお礼を言えなかった。

 もし明日、彼女が起きていたら例を言おう。

 ホームでこけた時についた埃を払って歩き出したとき、違和感を覚えた。そして、その違和感の正体はすぐに分かった。

 俺はいつも読みかけの本をブレザーのポケットに無理やり突っ込んでいる。当然歩くと本が体にぶつかる。かなりの存在感だ。

「忘れたな……」

 まず、間違いなく電車の中で本を忘れてしまった。あの女子高生が回収していてくれる可能性も考えたが、あまり期待しないほうがいいだろう。電車内の忘れ物を家で預かるなんて俺ならやらない。


 ホームルームが始まる前、俺はいつも持参の小説を読んでいるが、今日に関しては小説を電車で忘れてしまったので手持ち無沙汰に英単語帳を眺めている。

 Result 結果、result 結果、そういえばこの事態も生活習慣の乱れの結果だな。

 Experience 経験、experience 経験、まあ、この事態も一つの経験、教訓としよう。

「ねえ、ねえ、どうしちゃったの? 雪でも降るの? ヨッシーが英語の勉強をするなんて天変地異の前触れだよ!」

 良くとおるアルトの声が俺の英語学習を妨害した。

「失礼だな、翠。俺だって英語の勉強くらいする。あと、そのヨッシーって言うのやめろ。俺にはちゃんと義一という名前がある」

 いいじゃん。ヨッシーってかわいくて、などと言っているこいつは西村翠。昔、家が近所で家族ぐるみの付き合いをしていた幼馴染である。小中とずっと同じクラスで、中学校3年生のときに、家庭の事情とやらで引っ越したと思ったら高校で同じクラスになってしまった。これは腐れ縁といっても差し支えないかもしれない。

「ところで聞いてくれよ! ボクのゴールデンウィークの武勇伝を!」

 そう、翠の一人称は「ボク」、いわゆるボクっ子である。そのせいで、俺は友人のボクっ子萌えに一切共感できない体になってしまっていた。

「昨日ラインで送ってきたあれとは別か?」

 もともと聞く気などないが、あれ以外の内容なら話半分に聞いてやらないでもない。

「もちろん昨日の内容とは違うサ」

 ほう、翠にあれ以外の内容を話す能力があったとは十年近い付き合いの中で新発見かもしれない。

「実はね、ボクがゴールデンウィーク中に見に行った劇場版月明かりに吠える狼の新解釈を思いついたのサ!」

「同じじゃねえか!」

 思わず声を大きくしてしまった。まあ、こいつが映画の話以外ができるというイメージは全くないし、統計を取ったとしても映画の話以外はしていないという通説を裏付ける結果しか出ないだろう。

「違うよ、昨日の時点では本当の黒幕は祭河昭人だと思ってたんだ、でもよく考えたら祭河様は有村姫薩妃を陰ながら支援してるんだよ。これはツンデレってやつじゃないか?っと思ってよくよく考察しなおしてみたらすべてが一つにつながったんだよ!」

「昨日もすべては一つにつながったって言ってたよな」

 まあ、こいつの考察に整合性がないことは昔から変わらないので今更そのことでとやかく言うつもりはない。

「ところでヨッシー、何かつらいことがあったね? 恋人に振られたかな?」

 思わず大きなため息が出た。

「俺につらいことがあったことが分かるなら、俺に恋人がいないことも知っているだろ」

 翠は「まあね」っと舌を少しだけ出しておどけて見せたあと、ほんの少し真剣な表情に戻って尋ねてきた。

「で、何があったんだい?」

 俺は、「本当に大したことはないんだ」と前置きをしたうえで今朝あったことを詳細に話した。もっとも詳細に話したところで大した長さにはならなかったが。

 俺的にはただ寝過ごしかけて、本を車内に忘れた、とそれだけの話のつもりだったが、翠には違って聞こえたらしい。

「なんなんだい?そののろけ話は!最高のボーイズミーツガールじゃないか!何か?ヨッシーは映画監督にでもなるつもりなのか?」

「いったいどう解釈したら今の話から惚気だとかボーイズミーツガールだとかになるんだよ」

 汗ばむ陽気であったゴールデンウィーク明け初日と異なり、2日目はジャケットの欠かせない日となった。俺はどちらかというと寒いより暑いほうが好きなので、やや厚手の紺色の防寒具の前をきつく締めて電車を待っていた。5月の6時は日は十分に出ているといっても、まだ夜の冷気が残っている時間帯である。

 電車はいつも通り、6時3分前にホームに滑り込んできた。この時間にぴったりなところも朝早い時間の電車の利点の一つである。

 いつもと同じ日常。ただ、今日に限って俺がただ一ついつもと違う行動をしていたとすれば、それは車両の中を気にしていたことである。

 そして、俺は探していた人を見つけた。いつもと同じ先頭車両の真ん中の座席。器用に姿勢を保ったまま浅い眠りにつく少女。

 扉が開くと同時に、いつもより身構えて電車に乗り込む。

 実は昨夜、昨日起こしてくれたお礼と、本を拾わなかったかを尋ねるためのセリフをいくつも考えてメンタルトレーニングを繰り返してきた。何度も「これじゃ、ナンパじゃないか!!」とベッドの上でのたうち回ってお袋に「何やってんだい」と文句を言われたが、最終的にシンプルにお礼を言えばいいという結論に至った。

 そして、最後に残された問題は乗り込むとすぐに解決した。果たして寝ているであろう彼女にどうやって話しかけようかということが一番の問題だったわけだが、人の気配を感じて起きたのか、はたまた最初から寝てなどいなかったのか、俺が電車に乗り込み扉が閉まると、あの時覗き込んでいた大きな目をぱっちりと開けた彼女が微笑んでいた。

「あ、あの……」

 昨日あれだけ練習したセリフが出てこない。

「火の鳥は二回泣く、面白いですよね」

 最初、だれがその声を発したのかわからなかった。そして一拍おいて、そういえばこの子の声を聴いたことなかったな。と思い至った。4月から1か月間ほぼ毎日同じ電車に乗っていたのに不思議なものだ。

 その声は、透き通るようなソプラノで優しく包み込むような声だった。

 彼女が立ち上がり、差し出してきた手には失くしたと思った思い入れのあるブックカバーに包まれた本が握られていた。

 うん、改めて見ると悪趣味かもしれない。これは翠が選んだやつだな。

 そんな場違いなことに思考が流れるのを抑え込み、やっとのことで第一声を発した。

「昨日は起こしてくれてありがとうございました。それから、えっと……」

 彼女は微笑みながら俺の言葉を待ってくれている。面白がっているようにも見える。こんなはずじゃなかったのに!

「えっと、僕も火の鳥は二回泣く、大好きです!」

 思わず嘘を言ってしまった。いや、嫌いではない、面白かった。途中までは。残りは読んでいない。映画と原作でどう違って映画版のどこがよかったかは知っているが、それは観たからではなく、翠が聞いてもいないのにベラベラと布教してきたからだ。

「私、このまえこれの映画を見て、すごい面白くて。実は昨日ちょっとこの本読ませてもらっちゃったんですけど、原作と映画ってかなり雰囲気変わるんですね」

 なんてことのない内容を楽しそうに話す人だな、と思ったが。それ以上になんて返事をするべきか、俺の頭はテストの時以上にフル回転していた。

「まあ、本によりますけど。映画向きのシーンとか小説向きのシーンとかありますから」

 思わず敬語になってしまった。いや、俺は高校1年生だからどう見ても高校の制服を着ているこの人は俺より年下ではありえない。敬語でいいのか。

 気まずい沈黙が流れる。

「何かほかにお勧めの小説とかありますか? 私、映画とか漫画は観るんですけど小説はいつか読んでみたいなって思ったまま時間ばかり流れてしまって」

「えっと、どんな本が好みなんですか?」

 人に勧められる本はたくさんあるが、相手の好みがわからなければ勧めようがない。

「そうですね~、はーどえすえふ、っていうのが興味あります」

 はーどえすえふ?ああ、ハードSFか。これ意外だ。外見からの勝手なイメージだが、はかない恋愛ものをご所望するかと思っていた。そうなると勧められる本が一気に減るので少し気がかりだったが、ハードSF なら一押しのラインナップがある。

「そうか、宇宙戦争とか、むかし映画でやってたやつの原作とか面白いかもね、ジュールヴェルヌさんは昔の作家だけど今読んでも十分楽しめるよ」

 俺としてはごく普通のアドバイスをしたつもりだったが、彼女はブルブルと首を激しく振った。

「わたし! 戦争とか、そういうお話はダメなんです」

 ほう、なるほど育ちの良さを感じさせる感性だ。俺みたいな戦争ものに非日常を感じてしまう庶民の感性とは違う。

「と、いうと。海底二万マイルとか地底探検とかその辺がいいのかな? あれだったらあまり不幸には、いや海底二万マイルはやめといたほうがいいか」

 どちらかというと独り言に近い発言であったが、「そのタイトル気になりますね」などと言われたので海底二万マイルと地底探検のあらすじを説明する。

この2作は俺の最も好きな本で、柄にもなく文庫のほかにハードカバー版も買ってしまった本でもある。そのせいか少し説明が熱っぽくなってしまったが、彼女は時折相槌をうちながら聞いてくれた。

「そうですか、そんなに面白いなら読んでみなくてはいけませんね」

 そんなうれしいことも言ってくれたが、長々と話しすぎたせいで高校の最寄り駅までついてしまった。

 扉が開いて、最後に何を言おうか悩んだ挙句、出てきた言葉は笑ってしまうようなものだった。

「明日も、話しかけていいですか?」

 彼女は微笑んで言った。

「もちろん」


 まだ、朝は早く、人がまばらなホームでだんだん小さくなっていく電車を眺めながら、俺は感慨に浸っていた。

 結局、本を勧めるだけ勧めて、「貸しましょうか?」とは言えなかった。まて、なぜ本を貸す必要がある? 

 考えれば考えるほど、「嫌われてしまったのではないか?」とか「心の中であざ笑っていたのではないか?」などと考えてしまったので、電車の中の出来事は一時的に頭から追い出すことにした。そして俺は、高校に向けて歩みだす。いつもより意識的に足を動かしながら。


 翠に話せば、「なんだい、そのベタな脚本は!」というに違いないが、それが俺と彼女の出会いだった。


 翠は顎に手を当ててしばらく考えていたが、やがて。

「そうだね、うん。ない。ボーイズミーツガールで男がヨッシーはなしだよ。イケメンが主役をやるとは限らないけどね、それでも限度ってもんがあるんだよ」

「なんだかすごい失礼なことを言われた気がするが、まあいいか。別に本はまた買えばいいんだけど、問題はカバーだ」

「そういえばヨッシーいつもおしゃれなブックカバーつけてるよね」

「中学校の修学旅行に行った時に買ったやつでお気に入りだったんだがな」

「ああ!あれか。私が選んだやつ!そうか~ざんねんだな」

 翠は一人でテンションを上げているが、俺の記憶では翠の主張したものはひどく悪趣味だったので却下したはず、いや、押し切られたんだったっけな?よく思いだせない。

「ちなみに本は何だったの?」

 翠はコロコロと話題を変える。以前話題転がしというあだ名をつけたこともあった。

「『火の鳥は二回泣く』だ」

「それ知ってる!というか昨日見てきたよ!今、映画になってるやつじゃん!」

「そうなのか?」

 あの本は古本屋で買い帯がついていなかったので、映画化とかその手の情報は全く知らなかった。

「ザ・正統派ミステリーって感じだよね。特に最後のメイドが懺悔するシーンは思わず涙が出たよ……」

「おい」

 思っていた以上にどすの効いた声が出た。翠がビクッとして動きを止める。

「俺はまだ読んでないんだが」

「いや~、申し訳ない。でも安心して、メイドの懺悔はブラフだから」

 翠はちっとも申し訳なさそうに思ってなさそうな顔で謝ると、また話題をずらした。

「それにしても、ゴールデンウィーク前もミステリー読んでたけど、もしかしてはまった?」

「まあな、しいて言うなら人の死なないミステリーが好みだ。他人の不幸を楽しむ趣味はない」

「いい趣味だね。もちろん皮肉じゃないよ。ボクもお涙頂戴で不幸話を押し付けてくる映画よりはハッピーエンドのほうが安心してみていられるね」

 本を忘れたのはショックではあったが、あの女子高生が持っててくれている可能性もあるし、決して高価なものをなくしたわけではないわけで、翠と話しているうちに日常は取り戻されていった。

 その後、翠は昨日見た劇場版火の鳥は二回泣くがよほど面白かったのか、授業が始まるまでずっとその映画の批評について話していた。そして昼休みも必ずやってきて同じ話をした。俺からしてみればネタバレを食らい続けたわけであるが、あの本にはそこまで思い入れもなかったので、これもこれでいいかな、などと思っていた。


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