第14話 飴玉の悪夢 下
扉を開けた瞬間、むわっと立ち上る何とも言えない臭い。
汗臭さだけじゃなく、嗅いだことのない不快な臭いが僕とゼフを襲った。
思わず口と鼻を手で押さえながら扉の中にはいると、今度は何とも言えない甘ったるい臭いが周りを支配していることに気づく。
頭がクラクラする。
ゼフと目だけでやり取りし、ゆっくりと進むと段々と目が慣れてきたのか、部屋の様子がわかってきた。
扉の先は大きな広間になっていて、ところどころに設置された燭台が部屋の様子をぼんやりと浮き上がらせていた。
僕もゼフも部屋の惨状に驚き、足を止めてしまっていた。
燭台が照らす光の下には裸の人がたくさん倒れている。
男も女も裸で、独特の臭いを漂わせながら、虚空を見つめ、虚ろな目で口を半開きにしている人ばかりだ。
鼻水やヨダレを垂らしたままの状態だったり、女性に複数の男性が抱きついたまま、虚空を眺めていたりしている。
女性の裸を見たのはこれが初めてだ。
様子を見る限り、ゼフも一緒みたいだ。
けれどそれは、話で聞くような高揚するものではなく、ただ激しい嫌悪感を感じさせるだけの光景だった。
...本当に吐き気をもよおすような異常な光景で、胃の辺りからなにかがせり上がってきそうになる。
そして、独特の甘ったるい匂いで更に頭がクラクラしてきた。
...気持ち悪い。
なんとか、周りを見渡しても近くにアルスさんの姿は見えない。
リュッカ姉さんの姿もだ。
ゼフも僕と同じように口許に手をあて、顔をしかめながら周りを見渡している。
ゼフの顔は真っ青だった。僕も今そんな顔をしているんだろうか?
やっぱりアルスさんの言うとおり、待っていた方がよかった気がする。けれどここまで来たら、リュッカ姉さんのことが更に心配になった。...まさか同じ目に?風の魔法がもっと先だと僕にリュッカ姉さんの居場所を教えてくれる。
僕とゼフはお互い顔を見合わせてから更に奥の方を凝視した。
すると、ずっと奥の方から何か怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
暗くてきちんと見えなかったが、燭台の光を追って行くと、この部屋にはまだ奥への道が続いていることが分かる。
今いるのはどうやら広間ではなく、大きな通路だったみたいだ。
足元を見ながら、お互い支えあうようにゼフと2人で奥に移動する。
そして、入口と同じように黒い鎧を着た兵士達の遺体が足元に転がっていることに気づいた。首がない死体だ。
近くに兜が転がっているけど、たぶん中身もある。
きっとアルスさんがやったんだろう。
更に奥の方から声がするが、反響で何を言ってるか全くわからない。叫んでいる声だ。
僕とゼフは恐る恐る口元を押さえながら、声の方に歩いて行った。
奥に行くにつれ、裸で倒れている女性が増えている気がする。
でも皆、正気を失っているようにしか見えない。虚空を見つめ、ヨダレや涙を垂らしていた。更に甘い臭いが強くなり、気分がどんどん悪くなっていく。
かなり歩いて、ようやく奥が見えてきた。
アルスさんと、数人の黒い鎧の兵士が対峙しているところで、兵士の少し後ろには、アルスさんと対峙する小太りの男と、その男に抱えられたリュッカ姉さんがいた。
その男はナイフをリュッカ姉さんの首元に当てて何かをわめいている。
裸でヨダレを流し、言葉にならない言葉を叫んでいた。
リュッカ姉さんも裸で倒れている他の女性と同じような表情で、口を半開きにし、虚空を眺めて虚ろな目をしている。
「嘘だろ...ねぇさん!ねぇさん!!」
ゼフが目を見開き、叫ぶ。
声に気づいて、こちらを向く彼ら。その隙をアルスさんは見逃さなかった。
ほとんど見えない動きで、兵士を切り倒していく。
一瞬で、2人の兵士と小太りの男を残して全滅した。
そして、小太りの男の刃物を弾く。
小太りの男はリュッカ姉さんを離してそのまま転がり、泡を吹いて意識を失った。
リュッカ姉さんを抱えるアルスさんの隙をついて、残った兵士がこちらに走ってきた。
抜き身の剣をもって、僕等というか、僕の方へ走ってくる。
...そうか、逃げ出すにもここを通るしかないのか、そして通路上には僕がいる。
ゼフは少し離れていたため、彼らにとって邪魔なのは僕だけというわけだ。
こんな状況でもやけに頭が冷えてる自分が嫌になる。リュッカ姉さんの様子を見てゼフのように取り乱すのが普通なはずだ。
僕はどこかおかしいんだろうか?
自分に迫る兵士に向けて、無詠唱で魔法を準備する。
魔物に襲われた時のように、敵を倒すために魔法を唱えるだけ。魔力を手に集める。
―――風爪で十分倒せる。
そう頭で理解しながらも、何故か口は、魔法を唱えられないでいた。だんだん近寄ってくる兵士。その表情は怯えに満ちていた。必死に逃げる人間。
そう目の前にいるのは、魔物ではなく人だ。
僕と同じ、人間。
目には恐怖の表情で必死に逃げようとする人間の顔が写っていた。
邪魔な僕を排除しようと、兵士が剣を振り下ろそうとしている。
耳元でフィーが何か叫んでいるが、何を言っているのかわからない。僕の口は魔法をつむげないでいた。
そして世界がスローに見えた後、僕は何かにつきとばされ、地面に転げる。
走り去っていく兵士の足音。
僕の傍に駆け寄るアルスさんの足音。
そして、僕をつきとばしたゼフのほっとしたようなため息。
僕は、結局何もできなかった。
その出来事から数時間後。
僕ら...僕とゼフ、それにリュッカ姉さんは園に戻ってきていた。
あの後、地下から上がったところで、たくさんの兵士に囲まれた。
貴族の屋敷を守っていた兵士達や、街を警備している兵士たちの姿もあった。
黒い鎧の兵士達が、血のついた剣をもって飛び出した為に、大騒ぎになったらしい。
更に街を警備している兵士達も連絡を受けて集まっており、アルスさんが説明を求められて同行していった。
集まっていた兵の中にはリュッカ姉さんを探してくれていた人もいたようで、僕等は保護という形で園に連れ帰られた。
園では顔を真っ青に染めた園長とイレーゼをはじめとした家族達に迎え入れられた。
ゼフは右頬に大きな傷ができてしまった。きっと痕が残るだろう。僕を庇って、剣がかすめたらしい。あとは走り去る兵士に蹴られて打ち身がある程度だという。
リュッカ姉さんに外傷はない。けれど、抜け殻みたいに表情もなかった。
ぼーっとこちらを見ているだけ。
イレーゼが何度も話しかけたりしていたけど、反応はなかった。
僕はまだぼーっとしている。
リュッカ姉さんは帰ってきた。ゼフも。
もちろん、リュッカ姉さんは無事とはいえないけど、命はある。きっと命があればどうにかなるはずだ。
そう考える反面、後悔もある。
当然だ。僕は何もしていない。ただ立ちすくんで、ゼフに突き飛ばされて命を救われただけ。取り乱してたゼフの方が、冷静だった僕よりちゃんと動けていた。
僕の命を、自らをかえりみず救ってくれた。
もしかしたら僕を庇ってゼフが死んでいたかもしれない。
人殺しになるのと、自分の命の2択を選べず躊躇した僕と違い、ゼフは自分と僕の命を天秤に懸けて、僕の命を選んでくれた。あそこで僕を庇ったらゼフは死んでいてもおかしくないってわかったはずだ。なのに選んだ。
何故とっさにそんな判断ができたのか、何故僕にはできなかったのか。大事な家族を危険にさらしたことを僕は悔やんでいた。
他にもある。
もし、最初にリュッカ姉さんの様子がおかしいときに、誰かに相談していたら。
もし、アルスさんの言うとおり、扉の前で待っていたら。
なんで僕は選択を間違えたんだろう。というか、何故僕は積極的に選択できなかったんだろう。
でも、もう過去には戻れない。後悔しても遅い。
この嫌な気分はどうやったら消えるんだろう。
夜、ひとりで悩んだけど、答えはでなかった。
次の日の朝、僕とゼフは園長に呼ばれ、応接室に来た。
ゼフともあれから会話をしていない。
応接室にはアルスさんともう一人、見たことない大人の人と園長がいた。
当事者の僕等も一緒に経緯などの説明に参加させてくれるそうだ。アルスさんが口を利いてくれたらしい。
見たことのない大人の人は、軍?の制服を着ている。でも兵士じゃないみたいだ。
それほどガタイがいいわけじゃなく、眼鏡をかけた人の良さそうな人。年齢は30歳ぐらいだろうか。
「私は国軍、第四師団、第二部隊隊長補佐、ウキエ・サワといいます。この度の事件につきまして、私が国軍側の代表となります。」
どうやら軍の偉い人らしい。
まず、アルスさんから説明があった。
あれは、ヨルム教という宗教団体の儀式らしい。
ヨルム教自体はアルスさんの故郷がある遥か北の国で生まれた宗教らしいが、儀式において、特殊な薬物を使用し、信者に奇跡をみせる。いわゆる幻を見せて陶酔させる危険な宗教とのことだ。
その薬物が問題で北ではヨルム教自体が禁止されており、布教活動するだけで投獄されるほどらしい。
「投獄ですか...やりすぎでは?」
そういったのはウキエさんだ。
「しかたねぇのさ。奴らの使う薬物は特殊な薬草でつくった禁止薬物だからな。人のもつ魔力を狂わせて暴走させることで幻覚をみせる悪質なもんだ。常用したら魔力が制御できなくなって最後には廃人さ。廃人までいかなくても、正気を失なっちまう。ここのねぇちゃんみたいにな。」
最初は飴玉に偽装して渡すらしい。相手も気にせず食べるから。
そして、その薬物の依存性で、また欲しくなる。
そうやってどっぷり薬物漬けになっていくんだとアルスさんは続けた。
「使っている人間を見分ける方法は?」
「難しいな。まずあれは、効果が切れるとなんともなかったかのように元に戻る。本人すらおかしいことに気づかねぇ。周りから見て様子がおかしいと思った頃にはもう手遅れさ。」
「何もないのですか?」
「魔力に作用する薬物だからな。他の媚薬みてぇに検出できねぇ。唯一匂いでわからないこともないが、確実じゃない。」
「匂いですか?」
「あぁ、あの薬は匂いがきつくてな。飴にしたら臭わねぇが、舐めてるやつの口臭を嗅げばだいたいわかる。けどなぁ...時間とともになくなるからそれも難しいな。」
あの館のメイドの何人かはたぶん飴を舐めてるはずだとアルスさんは続ける。
「あの貴族については、私から説明しましょう。子供とはいえ、あなた方も目撃者です。ここに呼ぶことを希望したのはアルス殿ですが、私もそうしてもらうつもりでした。」
僕とゼフの方を見て、ウキエさんは話を始める。
「まず、結論からいいますと、あなた達には何も見なかったことにして頂きたい。」
「もみ消すつもりかね?」
その言葉に反応したのは園長だ。
「いえ、そういうわけではないのですが、ヨルム教のことに関して、信者をすべて捕らえられてはいないのです。あの地下は別のところにも繋がっていまして、おそらく、そちらから逃げた者もいるはずです。なので、ヨルム教の捜査が落ち着くまでは地下のことについては広めたくないのです。その方があちらも油断しますしね。」
「貴族のほうはどうなる?」
アルスさんが険しい目で聞き返した。
「不正薬物の使用ということで捕縛しました。貴族家全員をひとまず拘留中です。関係が認められ次第厳しい裁きが下ります。」
「その貴族にちょっと会えねぇかい?そっちにとっても情報が手に入るかもしれねぇぞ。」
「わかりました。手配しましょう。」
アルスさんの希望に答えたウキエさんはこちらを見返した。
「ということなので、申し訳ありませんが、地下での件は他言しないようお願い致します。何、ほんの数週間です。早期に決着をつけますので。」
深々を頭を下げてくるウキエさんに僕とゼフも頷く。
「それでリュッカの方はどうなる?」
園長の質問は僕やゼフが一番知りたかったことだ。
「我々でできる限りの治療を約束します...しかしながら...。」
「完治するとは約束できんか?」
園長の疑問にウキエさんが小さく「はい。」とだけ答えた。
「なんでだよ!できる限りの治療をしてくれるんだろう?」
怒鳴るように声をあらげたのはゼフだ。
「正直なところ、魔力を狂わせる薬など聞いたことがありません。他にもたくさんの患者がいますので、特別な施設を建設し、そこで集中治療を試みるつもりですが...今のところ目処はたっていません。」
「じゃあ、ねぇさんは...なぁ、おっさん!あんたなんか知らねぇのか?」
アルスさんは腕を組み、少し考えたあと話はじめた。
「俺の身内もな。いろいろあって今のねぇちゃんみたいに自我を失なっちまってる。ちょっとした伝手があってな。治る可能性はあるらしいんだが、年単位の治療が必要だそうだ。」
「そ、その治療をすれば本当に治るのか?」
ゼフの顔が明るくなる。
「だが、普通の治療じゃねぇ。俺の国でも治療法を探してはいるが、何年も進展なしだ。俺の方は...なんつーか、あれだ...龍族に力を借りた。」
「龍族!?」
「あぁ、あいつら長生きでいろんな知識があるからな。まぁ約束を取り付けるのが大変だったが...。交換条件で引き受けてもらった。」
「じゃあ、ねぇちゃんも!?」
「引き受けてもらったのは俺の身内だけだ。交換条件を俺がのむことで治療してもらってる。冷たい言い方だが、他人の分までしょえねぇからな。他の奴らの家族はまだ国の研究成果を待ってるよ。まぁ...研究が進展したって話は聞かねぇがな。」
「そんな...。」
ゼフの肩が落ちる。
リュッカ姉さんを治す方法。アルスさんの答えにしがみつくのが一番の近道に思えた。だからアルスさんに確認する。
「龍族の人たちからの交換条件ってなんですか?」
「おまえ、受けるつもりか?」
アルスさんが驚いた顔で僕をみた。
「それが一番可能性が高いんでしょう?」
「いや...俺はそう思っているが、本気か?...しかしな。正直、行ってみないとわかんねぇんだ。」
「行くって龍族のところへですか?」
「あぁ、そもそも受け入れてもらえるかもだが、交換条件も俺とはたぶん違う内容になるからな。」
僕が少し考えこむと、ゼフが割って入ってきた。
「それなら俺が行く!おっさん、連れてってくれねぇか?」
「本気か?隣町とかの距離じゃねぇぞ?」
アルスさんがゼフを見る。
「ねぇさんを治せるなら、どこまででも行ってやる。」
ゼフの言葉に一番に反応したのは園長だった。
「待てゼフ。龍族とやらのところはここからどれだけ危険な道のりかわかっておるのか?それにあの状態のリュッカを連れて行く気か?それより、わしもこの国の魔術師の一人だ。少しはこの国の魔術を信用してはどうだ?」
「待ってて本当に治るのかよ?待った挙句に治りませんでしたじゃすまねぇんだぜ?」
「確実とは言えんが、危険すぎる。リュッカだけでなくお前まで...。」
「だからって諦めろってのか?少しでも可能性があるなら俺はできることをする!」
ゼフが真っ直ぐに園長を睨みつける。
園長は何も言えずに黙ってしまった。
何か考えていたアルスさんはゼフを見て、目を細めていた。
「弟君よ。本気なのか?最悪、死ぬことになるぞ?」
「誰が弟だ。俺が死んでもねぇさんは連れてってくれるか?」
「ダメだな。連れてっても龍族と交渉するやつがいないと話にならねぇ。でもな、ねぇちゃんは命の恩人だからな。龍族のいる山までは安全に連れてってやる。」
アルスさんがゼフに微笑みかける。
「待てというに!ゼフ、早まるな!」
「うるせぇよ!ここにいても治る可能性がない以上、行くしかねぇだろ!」
ゼフと園長がにらみ合う。
「この国での仕事はだいたい片付いたからな。俺は早めに立とうと思ってるんだが...。」
割ってはいったのはアルスさんだった。
「俺はここに宿をとってるからよ。話が付いたら旅支度して連絡してこいや。ただし、5日以上は待たねぇぞ。」
そういうと、場所を記した紙をゼフに渡し、僕の横を通って扉の方へ歩き出した。
すれ違いざま、小さな声で、彼はこういった。
いざという時に使えない力ほど役に立たないものはない。そして後悔は、した時にはもう遅い。
その言葉は今の僕に突き刺さった。
アルスさんが退出したあと、ウキエさんも退出し、園の人間だけになった。
園長とゼフはまだ言い合いをしていたが、いつまでの会話は平行線のまま。
結局、園長の制止を無視してゼフがリュッカ姉さんを連れて旅立ったのはそれから3日後のことだった。
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