第8話


 「だって私は卑しい人間だもの」

 そう言い放った明日香は、私の両肩をその小さな両手で掴みだし、その身を預けるように押し倒してきた。 畳に打ち付けた頭の痛みと、突然の驚きのあまり声を上げることを忘れ、手も無く倒れ込んだ。

 上体を乗せた明日香は蛇のようにゆっくりと私の胸許から首筋、下顎、頬へと自身の頬を擦り合わせながらゆっくりと迫りだしてきた。

 私はまさに蛇に睨まれた蛙のように息を呑んだ。

 心臓の鼓動が確実に明日香に感じ取れるぐらいに跳ね上がって、もう身体の感覚がどうのと言ってられなくなるほど体が硬直し、思考の大半は周章狼狽していた。

 そうして触れ合う明日香の頬の感触は正直よく伝わらなかった。 ぬくもりとか柔らかさとか、そういう感傷じみた類いの一切に浸る余裕などなかった。

 かくも驚きの行動で心を戸惑わせる明日香は、蛇のように冷静沈着な動作で私の耳のどこかを舐めて開き直りつつも堅い口調で淡然と囁く。

 「知ってる通り、私は人の恋路を土足で蹂躙した挙げ句、おもちゃみたいに翻弄して地面に放り捨てた。 同性からも、きっと異性からも好かれない嫌な女。 仲間同士で連れ合うなんて正直合っていないのかもしれない」

 明日香は体を動かさずに私の首と畳の間を丁寧に通して生温い息を漏らしながら抱きしめてきた。

 「でも生きるためには、何も考えないで生きるには、不満とか不安とか抱きたくも抱かれたくもなかった。 だから明日香はいい子なんだって振る舞おうと努力した。 そんな自分を映し込んだ鏡を見るたびに、私は誰なんだろうって、自己保存のための行為なのか他人のために振る舞っているのか心のなかで叫び続けて、泣き叫んで、悩み尽くしていた。 返す返すも誰にも打ち明けられなくて、結局悩み続けたままずっとずっと何枚も何枚も仮面を被り続けてた」

 明日香は次第に声を嗄れさせ、目許をコートの裾で拭った。

 「でもその矢先に式江が貴方に捨てられたって話を聞いて、私は今まで知らなかった貴方の側面が急に拓けた気がして、激しく心が踊ったのを今でもはっきり覚えている。 知らなかったでしょう? 私はずっと貴方を見ていた。 式江なんかよりも貴方のことを知っているんだから。 貴方は友人といるときにいつも作り笑いを浮かべて誤摩化しているでしょう。 本当は他人が嫌いなんでしょう? ——ほら、私と同じ」

 それは私だけに当て嵌まらず、皆だってそうなんだ——咽喉まで出掛かった言葉が、思うようにそれ以上こみ上がることなく、うまく言い返すことができなかった。

 私は明日香を止める術を見出せなかった。

 明日香は泣きじゃくりながらもゆっくりと話し続けた。

 「もうそれまで塞いでいた遣る瀬無い思いが、晴れたように眩しく輝いて——だって、そんなことするなんて少しも思わなかった優しそうな貴方が……。 ああ、私だけじゃなかったんだって、鏡で演じる前の私と同じ人間がすぐ近くにいたんだと思ったあの瞬間……あれから私は、ずっと貴方だけを見ていた。 これが私の本心……」

 それまでずっと耳許で語りかけていた明日香は、腕枕のように這わせた細い腕をぬっと抜き出した。 陶器を持つように繊細な手つきで私の首を左右から両手で添えて、上体を引き上げた。

 重なり合った頬と頬。

 重なり合った胸と胸。

 つい先ほどだけれど、随分懐かしく映る明日香の小さな顔。

 濡れた瞳と冷たい瞳がじっと合わさった後、明日香は子供を見守る親の眼差しに似た微笑みを浮かべた。

 月の翳り工合で、吊り上げた頬と震える唇が映り込んだ。

 どうして今更にもなって明日香が仲良くしてくれたのか、その心中を披瀝させてくれた甲斐合って、意を汲むことが出来たと信じたい。

 私は手を伸ばして明日香の頬を撫でた。

 明日香の眉がぴんと反応した。

 ——感じた。 冷たくて、濡れていて、それでいて柔らかい感触を。

 「明日香」

 私は語りかけた。

 「なに」

 明日香は問うた。

 明日香の言葉を額面通りに受け取るのならば、彼女の胸裏の片隅には紛れもなく小さな私が存在していることだろう。

 だが、いざ私の立場になって胸の内を覗いてみると、明日香が私を想ってくれているよりも、そして、私が想像している以上に野面のづら明日香という存在は呆気ないほど霞んでいることだろう。

 真っ暗闇な心の中で、光の炎が輝きを放つように、きらめいた笑顔を照らす先輩の優しい顔が浮かび上がった。

 やおら体中が緩やかに包まれた錯覚を覚えた。

 ここまで打ち明けてくれた明日香に対して当の本人が言わず語らずであるわけにはいかない。 このままきちんとした答えを明日香に返さないで、なおざりに霧散霧消しておくことなど出来るはずもなかった。

 それは明日香に意を尽くそうとしているようで、内実自分自身に語りかけているのかもしれない。

 私は再び明日香に語りかけた。

 「明日香の眼の前にいる男は、自分自身のことをひどく嫌っている。 自己嫌悪とか、多分そんな言葉で片付けられないほど嫌なんだと思う」

 「なにそれ」 明日香は目許を緩ませふふっと頬を持ち上げて笑った。 「古い鏡の私みたい」

 「そうかもしれない……でも——」

 明日香の顔が固まった。 「——でも?」

 「ただ似ているだけなんだ。 だから明日香が抱いた親近感もよく判る。 だからこそ抱いたんだものね。 でも、その想いが必ずしも相手が抱いているとは、互いを通い合わせているとは限らないんだ」

 「違う——」

 「違わないよ」

 忙しなく瞳を蠕動する彼女その仕草は幾通りもの予想を選択しているようだ。

 間をおかずハッと目を見開いた彼女の口唇が震えた。

 「私が卑しい、から?」

 「そんなこと一言も言っていないだろう」 私は頭を振った。 「そうじゃないんだ。 そうじゃなくて……」

 「でも、でもだったら、私は——」

 私は親指で泣涕する明日香の目尻の泪を拭った。

 明日香はやめてと表現するかのように、顔を逸らした。

 「ありがとう。 これだけは伝えなくちゃいけない。 でも、明日香の気持ちには答えられない」

 明日香は下唇を噛み締めながら、泣き縋るように顔を近づけ額と額を宛てがい、押し殺すように泣き叫んだ。

 「私は、貴方がいればそれでいい。 なにも求めない。 変化なんて、どうだっていい」

 「だめなんだ」

 「どうしても……だめなの」

 目尻に溜まった明日香の泪が真下の私の頬に滴り落ちた。 その落涙の水はきっと物狂おしくほどの激しい熱を帯びているに違いないのだろうけれど、なにも感じきれないほど、私の乾き切った感覚はどこかへ飛んでいってしまった。

 「じゃあ、あの人は……」

 明日香がゆっくり這うように震える冷たい手を私の首元にかけた。

 「どうして……」 彼女のその声は絶望の縁に追いやられたようだ。

 「やっと見つけたのに。 ずっと探していたのに、こんなに苦しいのに——」

 むせび泣きながら滴り落ちる明日香の生暖かい雫がぽたり、ぽたりと私の頬を潤わせた。

 それでも、なにも感じ得ない。

 口からこぼれだす白くて甘い吐息が肌を撫でるたび、私の胸をぐっと締め付けさせた。 

 胸苦しさに責め倦ねていたその瞬間——。

 私は現実的な痛みに引き戻された。 寒さから引き起こすものでなく、肉体的に首元から——。

 「がっ——」

 声が思うように出ない。

 なぜだが判らないが、力が振り絞れなかった。

 まさかと思った瞬間、明日香の震える腕を見て確信していた。

 明日香が、私の首を力強く締め込んでいた。

 思うように腕に力が入らない私は、ばたばたと体中もがいた。 そのとき何かが足許に当たったけれど、最早それがなんであるか考える余裕などあるはずはない。

 私は伝えたい意志を白黒させた眼に集中させて明日香を睨んだ。 すると新たな驚愕を前に私はまたしても大きく眼を見開いた。

 怒りに身を任せ、冷静さを失った明日香は、白い歯を剥き出し、今まで見せたことない狂気に満ちた鋭い眼差しで私を睨め付けていた。

 ありえないほどの力、刃のような目つき、取り返しのつかない行為に、私は薬で打たれたように体中が痺れて身動きが取れなかった。

 次第に首元が熱を帯び、目頭がバチバチと火花が散りはじめ、息をするのも困難を極めた。 物事を考えるのが急に疎ましく感じはじめてきた。

 「あの女が……」 明日香がそう零した刹那、またしても先輩の顔が浮かんだ。

 消え掛かった意識をやっとの思いで引き戻すことができた私は、首に繋がれた固い手を振りほどき、残る力を振り絞って上体を起き上がらせて無理矢理に明日香を突き飛ばした。

 それがいけなかった。

 鈍い音が空間を響かせた。

 足を踏み外した明日香がその鈍い音を断ち切る一瞬の金切り声が、そのとき耳朶にひどく響いた。

 もしかしたら学校の外で聞こえた何かかもしれない。

 ——いや、違う。

 明日香が人形のように固まったまま動かない。

 私は足許にあったランタンを手に取ろうとする際、先ほど足許で何かにぶつかった答えを見つけた。

 それはとてもどうでもいい答えなのだが、光が見出したのは、畳を茶色く汚した珈琲とむき出しのコンクリート壁の近くに転がっていた魔法瓶の蓋だった。

 私は構わずランタンの取っ手部分を掴もうとゆっくり立ち上がり、身動きひとつしない明日香を訝しみながら光を当てた。

 その光景を目の当たりにするや否や、慄然として肩が竦み、足許が凍ったように冷たくなり、思わず悲鳴を上げてしまいそうだった。

 横の扉の方角を向いて仰け様に倒れた明日香は、喉頸と顎が重なり合うほどぐったりと前のめり、側頭部とそこから覗く古びた木棚のごつごつした棚板がちょうど合わさって、先ほどの鈍い音の答えを正しく物語っていた。

 突然静止画のように風景に溶け込んでいる暗い輪郭の彼女を捉えた瞬間、時間的間隙を挟まずして首筋辺りが強張りだし、片や頭の中ではどす黒い霧がどこからか漂いはじめていた。

 ——嫌な想像がふつふつと湧いては広がり濃厚な色味を帯びて脳裏を瞬く間に充満させていった。

 避け難い現実的恐怖が膝をガクガク笑わせた。

 精一杯握りしめて、確かにそこにあるはずなのに、その感覚さえどこか嘘くさく頼りない小さな光を駆使して明日香の頭に出来るだけ近づけた。

 ぱっと照らされたその陰惨な光景に、またしても息を呑む。

 想像と現実がまさに合致してしまった。

 およそ非日常と思っていた予想し得ない悲劇が突如実際的なものとなって私にありのままを見せつけてきた。

 不意に体に伸し掛かる加減を知らない暴力的な立ち眩みに嘖まれ、のろのろ後頭部に光を近づけてみると、視界に映った生々しくて鮮やかな色合いに身の毛がよだち、仰け反りながら眼を逸らした。

 ——嫌な想像はやはり的中していた。


 血だ……。


 明日香の後頭部から流れる失血が、頭を打ち付けた棚板に手のひらほど溜まり、そこから真っ赤で鈍重なナメクジがのろのろ這うように、濃密な血液が傷んだ中立板を伝って流れ落ちていた。

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アマレット 大久保 @hukurou1001

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