第7話


 私にとって、それは初めての行為であった。

 私は驚きのあまりひどく瞠目して顔を離して身を反らし、後ろ手をついた。

 心悸のけたたましい早鐘が鳴り止まず思うように咽喉から声が出なかった。

 明日香は間近でまた微笑んでいたが、目顔は凛とするぐらい静止していた。 「これが本当の私。 貴方のことが好きな私。 薄々感づいていたでしょ? 気があるってことに」

 私はそっと自分の唇に手をあてた。 眼に映る明日香は平然とこちらを見ながら気にせず口を動かしている。

 「貴方が式江と付き合っているときに初めて貴方に気付いて、それから、なんでだろう、急に気になりはじめたんだ」

 その忘れていた名前がやおら出現した瞬間、私は飲み込もうとした息を止めて、眼の前の明日香を改めるようにじっと凝視した。


 式江さんというのは明日香のクラスメイトであり、家庭クラブの会長である。 校庭のそこかしこに咲き誇っていた桜が散りはじめ、早くも青葉が目立ちはじめた三年生の春、私が所属する進取の気性に富んだ農業クラブの会長は、その温かい春暖に当てられたのか、ある日唐突に、生徒会と農クと家クの三会協同を声高に提案しだした。 それは一蓮托生の副会長である私にも被害が及び、交わしたくもない交流を取り結ばなくてはならなかった。 さらにいったいなにを思ってか、式江さんは、いつの頃からか私なんかに恋慕を感じていたようで、そうだと気付いたときには、もう引き返す事が出来ない情況に事態が進行しており、その申し出を拒むことそれすなわち、折よくトラブルなく快調に取り運んでいた農クと家クの親好の輪に亀裂が入る結果を厭わしく思った私は、式江さんの申し出を了承してしまった。 これは、断ると言う行為そのものに強く引け目を感じてしまう私の浅はかな態度が原因だと常々反省している。 その後はというと、手を繋がらなければ休日遊ぶこともない、放課後共に駅まで向かう程度の、感想も何もない気休めの馴れ合いで、私と式江さんは一ヶ月ほどであっけなくその一方的な連鎖を解消したのだ。

 これでは、初めから断っていた方が幾分も増しと言える。


 事件はそのあと起こった。 式江さんが専門学校の推薦入試途中にも関わらず、突然自主退学の申し出を提出したのだ。 以前から式江さんは、親友のみに私とのことを打ち明け、相談していたらしく、それを無闇に勘繰った親友が担任教師に告げ口をした結果、数日後私は学年主任と、私のクラスの担任教師と式江さんのクラスの担任教師との気まずい面談と相成った。 しかしこの思わぬ機会に直面して初めて私は、自分の何気ない行動が功を奏していたことに気付いた。 どうやら私は、傍目から見ると——自分でいうのは肌が焼けるほど恥ずかしいのを配慮してほしいのだが——気さくで人当たりがよく、有り体に言えば健全な学生像として認識されていたらしい。 先輩に出会う以前の私とは真逆の印象である。 一方の式江さんは、生まれもった性格の良さで周囲の仲間に支えられ、会長という地位に登り詰めただけあって、直答で彼女自身に問題があると言うことにもならなかった。 と言うわけで、私が悪者だと卑下する一部連中の意見は、うやむやで信憑性に欠け、むしろそれ以上に、私が所属するクラスと同学年の友人知人、農ク関係で知り合った後輩たちがこれに怫然と立ち上がり、全面抗議の構えで式江さんのクラス前と職員室前に立ち塞がった。 事態の急変に焦りを感じた教員たちは、激化した情勢の沈静化に尽力し、そもそもの式江の待望通り、彼女の自主退学をあっさり容認した。 これに本人を除く式江側が再度反発したが、式江さん本人がそれを拒んだらしく、何週間振りかに校内にようやく静寂が舞い戻ってきた。 それからは三会協同など夢のまた夢であったが、今となってはその事案に別段重要性を感じ得ない。


 閑話休題となったが、自分が恋慕を感じて、その相手が好きでも嫌いでもない態度を露骨に表現しただけで、果たして学校を易々と退学するのだろうかと今初めて疑問に思ったが、たとえば、もう少しまともな感性を抱いていたのなら、今明日香とこうして複雑な空気を醸し出すこともなかったのでは、と思わなくもない。

 「明日香も知っていたのか」 嫌な記憶を掘り返されて、多分私は気まずい顔をしているのかもしれない。

 「みんなは知らないよ。 本当に一部の人だけ。 知らないと思ったんだ?」

 「いや、あまり気にしていなかったことだから……。 でも、なにも話してこないから、てっきり……。 赤坂さんも知っているのか?」

 「知っているよ。 でも沙也は……」

 明日香は小さく溜め息を吐き、「まあいいか」 とその先に繋ぐ言葉を不自然につぐんだ。

 「間中くんは知っているの? 貴方が式江を捨てたことを」

 「いつか必ず話すさ」 私はここでしばし躊躇いはしたものの、気付いたときにはあの話を口走っていた。

 「そっちはどうなんだ。 赤坂さんに、自分のことを話していないんじゃないのか?」

 『捨てた』 などとぞんざいな扱いをした言い方にじりじりした私は、声を荒げて言い返した直後、努めて平静を装って自分の手抜かりを闇にぼかした。 赤坂さんとは約束こそしてないものの、明日香の別の顔を又聞きした事実は、出来ることならばこのままずっと伏せておこうと考えていた。 なのにも拘らず、こうしてシリアスな場面に直面してしまうと、つい鋭く感情的になって、情動に流されたまま安易に口を滑らせてしまった。 向日葵のような柔和な表情だった明日香も次第にその顔を鋭くさせた。

 闇夜に染まる向日葵から冷たい声が発せられた。

 「話すって、なにを?」

 向日葵は私に向かって小首を傾げた。

 「……いや——」

 「どうしたの? 言いたいことがあるなら言ってよ」両手をついて前屈みだった明日香はこのときやっと腰を落ち着かせた。

 「今まで二人だけになってもこういう話していないっていうか、さりげなく避けていた気がしたから……」明日香はホットパンツの糸くずれを縒り合せて紙縒り状にした後も二の句を継ぐのを躊躇った。

 やがて顔をまたこちらへ向けた。

 「ねえ。 これからはもっといろいろ話していきたいの。 私がわざと怒らせるような切り出し方をしたのなら、謝るから。 だから教えてほしいの、話すって、なにを?」

 明日香は声を低めて謝っているようだが、暗がりの室内は次第に闇を深め、その顔がひどく朧げに映りこんでしまって実際のところよく窺い知れなかった。 明日香はそのときどんな顔をしているのかさえ、明日香の顔がどんな顔であったかさえよく判らなくなりはじめてきたのかもしれない。

 「噂で聞いたんだ」 私は観念した。 「明日香が一学年の頃、先輩の男をとって、結局その人ともあまり長い期間続かなくて別れたって話を」

 その表情はまたしても窺えなかったけれど、きっと明日香は動揺していたに違いない。 なぜなら、小さなその顔がびくりと発作のように動いたのは確かに見たからだ。

 それだけじゃない。 その後の、「誰から聞いたの?」 という声にも、罅の入った楽器が奏でる不均整で雑音じみたものが混ざっていたからだ。

 「卒業した農クの先輩からだよ」

 私は、容易く追求されそうな安い嘘を述べてしまったものの、普段の明日香なら返してきそうなその反問はいつまで経っても聞こえてこなかった。

 がさがさとざわめく、真冬の夜風に靡いた葉擦れの音だけが、この空間の閑散さの全てのように感じた。

 明日香が掠れた溜め息をつくと、再びむき出しの壁に凭れ掛かった。 そこからだと明日香の顔がきちんと映り込んでいた。

 その顔はどこか諦念じみた、大人びた表情を湛えて薄く微笑んでいた。

 「いつか間中くんに打ち明けるように、いつか私も、沙也や貴方に話すつもりでいたんだよ。 本当だよ。 でも、こういうのってなかなかタイミングと言うか、どのあたりで踏ん切りをつけるのか考え悩んでいて……。 だって今は進学のことでそれどころじゃないし……」

 「もういいさ、今このとき話したんだから」

 そっか、と言いたげな表情を浮かべた明日香は不意に、「ああ、忘れてた」 と言って、ポーチから手のひらサイズのランタンを取り出して、土台辺りを回してはじめた。 すると、ほのかな灯りが私と明日香のくずした膝あたりを照らした。 それは放つ光は電気ライトであるが、淡い光が煌々と放たれると、足許から柔らかな温もりを感じるような気がして、なんだか心が温まった気さえした。

 私がその光に向かってふざけて息を吐くと、それを真似て明日香も息を吐いた。 互いの白い息がランタンの周囲で混じり合ってふっと掻き消えた。

 「初めてだった?」

 「なにが?」

 「知ってるくせに」 明日香は自分の唇を本の表紙を愛でるように薬指ですっと撫でた。 「初めてだった?」

 舞い戻ってきた感触とその撫でた口唇、その仕草に、途端に気恥ずかしくなって、私はついそっぽを向いた。 明日香はくすりと笑って、「式江とはほんとになんにもなかったんだね」 と少し間を置いてから、「じゃあ、あのきれいな女の人ともなんにもなかったんだね、やっぱり」 とひんやりとした口調で呟いた途端、私は冷えきった身体がかっと熱くなる気配をその身で味わった。 耳鳴りのような鈴の音が頭の中を絶えず鳴り響かせ、腹の底に怒りと不快感がせせこましく同居しているような気持ちの悪い気分になりだした。 目頭がちりちり痺れだし、次第に目眩を起こした私は、後ろ手で畳みについて、もう片方の手で、汗が噴き出た額を髪の上からぺたりと押当てた。 指先の冷たさがひんやりとしてて、そのときだけ寒いだとか、そういった感覚が欠如していた。

 「なにを——」

 絶えず面変わりする私を面白おかしく見つめる明日香は、小さくほくそ笑みながら首を後ろに傾けて妖艶な仕草を見せながら、「駅前で」 とゆっくり囁いた。 今まで知っていた明日香とのこの様変わりといったらない。 おどろおどろしいなにかが、ひんやりとした室内に冷気のように煙りだして、温まりだしたわずかな体温を根こそぎ持っていかれたようだ。 その冷気は果たしてどこから流れ出ているのだろう。

 「〈夜海堂〉のアルバイトの人だよね、お人形みたいで、街灯にあたって眩しくて、雪のように肌が白くみえた。 雪のように冷たそうで少し不気味だった」

 私は自分を宥めることに精一杯だったかもしれない。 感情に突き動かされて頭を回らせたその睨みを、しかし明日香は意に返せず見向きもしなかった。

 私は長く息を吸い、ランタンの光を見つめながらゆっくり吐いた。

 「会ったことのない人の麗句を言うのはあまり感心しない。 自分が言われたらどう思う。 嫌な気分だろう?」

 「私は平気だよ。 全然」

 明日香が微笑みながら、また擦り寄りだした。

 「だって私は卑しい人間だもの」

 

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