第6話
一年を締めくくる今日、クリスマスのあの日から連絡をとっていなかった明日香から突然一通のメールが届いた。
文面はどこから見ても不自然には見えず、むしろいつも通りの平静さであった。 平静と言うか、少し戯れを入り混ぜた文章、いつもの明日香を文面から感じられた。
大晦日の夜の学校に忍び込んで、そのまま新年を祝おう、と言ういかにも明日香らしい企画だった。
間中と赤坂さんには連絡済みのようで、夜の十時に裏門前に集合する運びらしい。 最後に四人であったのは、秋の衣替えの頃だった気がする。 随分前のように感じてしまうのは、いつしか情が薄れてしまったのか、移り変わってしまったのか、流れてしまったのか定かではないが、先輩と同様にいつまでも四人が顔を合わせることも次第に薄れ、そして確実に無くなりつつあるんだなとつい感傷に浸ってしまった。
それでもどこかで、それは起こりうる結果なんだろうと心得ていた。
校舎と校庭に挟まれた古く錆びれた鉄筋コンクリートの運動部室の二階、弓道部室が最後の年と最初の年を祝う場所となった。
確か弓道部は今年の春に正式に廃部になり、万が一にも部室に闖入するものはいないだろうと言うことが明日香の中で選ばれた起因だろうなと推測した。 まして年末の闇夜に忍び込む輩もいないだろう。
鍵などはどうしたんだろうかと訝しむ問題はあったが、そこは明日香を信用しようと思った。
あの冬の聖夜、明日香はなにも見なかった、私など眼中になかったかのように押し黙って路地奥に消え去ってしまったので、私は凍ったようにその場に佇んでしまった。 なんだかいつもの明日香とは表情が全く異なって恐ろしく見えてしまい、つい竦みあがっていたのだろう。 しかしこうしていつもと変わらぬ様子の明日香の文面を眺めていると、見間違いか、気のせいかなにかであったのだろうとしばらく逡巡したのち、安心してしまった。
——安心。 どうして私は安心しているのだろうか。
そのとき、きちんとその疑問の回答を見出せていたとしたら、この先、いや、今尚苦しまずに済んだのかもしれない。
*
夜九時をとうに回ったときの電車に乗るのは、高校生になって初めての経験だった。 大晦日・高校生生活最後・友人同士の年越し・夜間学校の侵入も伴って、ひと気の少ない車内でひとり昂揚しながらも緊張を隠せずにいた。
等間隔に横に並んだ車窓から、澄んだ夜の町並みや畦の景色が覗いた。
電車の行き帰りにぼんやりと眺めていた空覚えの風景がどこかよそよそしく見えてならない。
ああ、そうか。 これが高校生最後なのかとほんの少しの切なさに浸っていたら、あっという間に三年間通い慣れていた東武動物公園駅に到着していた。 ホームに足を踏み入れると、冬の冴えた冷気が心地よく感じられた。
おもむろに吐く白い息が冷たい夜風に吹かれて自分の顔に舞い戻ってきた。 頬に手を当てるとひんやり冷たかった。
昂揚と宵と白い息が連想させた記憶は、少し前の聖夜のクリスマスだった。 瞼を閉じても先輩の表情や、甘い果実の香りが今でも鮮明に感じられるのが却って辛く感じた。 あの記録は——一生分の宝物のような思い出に感じられたのだ……。
それまで喜びも楽しみもまともに体感出来なかったがらんどうのような器に、いつの頃から日に日に先輩一色で満たされるなんて予想だにしなかった。 一生分の思い出を若くして経験出来た自分はきっと他よりも幸福で恵まれている気さえした。
しかし強く思えば——強く思い出すほど転じて苦心に藻掻き悶える。 心が鬩ぎ合う悲喜交々の身のまま構内を出ると、周囲は暗く、駅前の店の大半は既にシャッターを閉じていた。 西口に比べ東口は人が立ち寄る商店が多いのだが、この時間となると、さらに年末の時期が重なると、そこはさながらゴーストタウンと化した情景を想起させる趣だった。 テールライトを明滅するタクシーが夕闇に浮かぶ月のように、ぽつんと停車していた。
駐輪場に停めていた通学用の自転車を漕いで真っ暗闇を十五分駆け出す。 東に向かうほど、気温が下がっていると如実に思えてしまうほど寒い。
やがて母校の裏門に続く道程に行き着いた。
夜気に触れていたせいで、そこまで辿り着くのにだいぶ体温を奪われてしまい、指先の感覚がいまいち掴めず、顔の表面が冷たくて突っ張っている。
歯をかちかち震わせながら黒く覆われた林と林の間を縫うように漕いでいると、門前のアスファルトの端っこに明日香がぽつんと突っ立っているのが見えた。
「おそい」
角のある声に仏頂面の明日香はじっとこちらを睨んでいた。
「時間通りだろ——」
腕時計を覗くとちょうど時計の針が十時を指していた。
「五分前に着くのが常識でしょう」
ダッフルコートの上にポーチを掛けている明日香は大仰に肩を窄めて喋っている。
肌は白く、頬を紅潮し、それに小刻みに体が震えている。 デニムのホットパンツから流れる黒のレギンスが、見ているこっちまで余計寒さを誘わせている。
「五分前から待ってたのか?」
「うーんと……もう少し前」
「じゃあ、いつから?」
「じゅう——ご分前、かな?」
「連絡よこしてくれよ。 わるい。 夜気にあたると冷えるから少しペースを落として漕いでたんだ」
買ったばかりのマフラーを明日香の首に巻いた。 爪先が首にふれたとき、自分の腕のように小さい首なんだと感動してしまった。 あまりに脆く、華奢で繊細な百合の花茎を連想させた。
「——ありがとう」
「あ、ああ……」
私の黒いマフラーを口元に当てながら、明日香は上目遣いで微笑んだ。 その表情に、体が反応していた。 どうやら寒さのせいで本当に麻痺しているかもしれない。
「あとの二人は?」
まだ来ていないのだろうか? それとも先に弓道部室で待っているのだろうか?
「二人は遅れるって。 待っている間に連絡があったよ。 ここで待っているのもなんだし、先に私たちだけで入っちゃおうよ。 私、もう寒くて限界」
そう言って明日香は周囲を警戒しながらゆっくりと門扉をスライドさせた。
常夜灯のない真っ暗な田んぼが学校の半円を埋め尽くしている。 その中に明日香のと思われる自転車が畦道の端に倒れ伏せていた。 私もそれに倣って明日香の自転車と少し離して横に倒した。 中古自転車を買って来し方三年。 屋根のない駐輪場に停めていたため、至る箇所が風雨に曝されて錆び付いた私の自転車はさながら廃棄自転車そのものだった。
「行こう」
絶えず目を凝らしながら辺りを窺い見る明日香が囁いた。 私はその背中を追って真夜中の学校の敷地に足を踏みしめた。
それは新鮮に施された新世界のようだった。 三年近く歩き慣れていたその景色をただ真夜中に変化させただけで見慣れた世界は見違えるほどの転覆を見せた。 全ての施設や鬱蒼と傍らに生育している植物らが真新しいものに見受けられる。 無断で敷地に上がっている背徳も手伝ったのだろう。 物怖じさを感受し、一歩一歩に後ろめたさと警戒心と好奇心が強まった。 門扉をもとの位置に戻し、周囲をぐるりと見回していたら、先を歩く明日香に素早い手招きをされた。 急げ、と。
来賓館と体育館を繋ぐ外回廊を踏み越えて進むと、斜向いに二階建ての運動部部室棟の建物が暗闇の中でも黒々と映った。 意図して施している訳でもないのに、蔓が棟の大部分まで屋根から這い出ているため、見ようによっては廃墟を想像させる。
その向こうに校庭があり、棟の右手にはプレハブの体育教官室が隣接している。
忍び足で静かに歩み寄り、二人で周囲に目を光らせる。 敷地内の常夜灯を除いて、灯りもひと気も無いことを確認したものの、それでも警戒を怠らないよう、ゆっくりと錆びた金属の階段を一段一段慎重に上り、外廊下を真っ直ぐ進んだ。
部室はどの部屋なのだろうと明日香の背中越しから覗き込んでいると、外側の手摺にバンダナ——夜目から見ても赤色と判別がつく——が巻き付けてある向かいの部室の前で立ち止まった明日香は、素早く左右と背後の校庭を窺ったあと、戸口を開けた。 鍵は施錠されていなかった。
「なんだ」 私は嘆息をもらした。「明日香が鍵を持っているのかと思ったよ。 開いたままだったんだね」
「うん。 いつからだったかな? たまたまノブを回したら簡単に開いてね。 日をおいて試してみてもやっぱり開いたままが続いてたの。 普通は鍵を掛けると思ったんだけどね。 まあ、だからこそこの場所を選んだんだけどさ。 ね、入ろうよ」
無機質な六畳の空間は、古く使い回されたデスクと、むき出しのコンクリートの天井に達した古い木棚のみというひどく簡素な趣向だった。 窓は戸口の向かいに一つのみ。 幸いにも、そこから冬の月夜がわずかに差し込んでいた。 廃部後、在校生が私的に利用していた形跡は素人目でもないだろうことが見て取れた。
「少し畳くさいな」
私は靴を脱ぎながら冷めた感想を述べた。
明日香は少しむくれた顔で、「壁があるだけ数段増しでしょ? あの寒さのなか何時間もいたくない」 といいながら私を畳みに上がらせ、寒くて真っ赤になった手で戸口を閉めた。
明日香は無言で窓側の壁に凭れかかるようにして畳に腰掛け、そこで乾いた息をこぼした。
私はただ突っ立っては首だけを緩慢に動かして珍しくもない室内を改まって見つめた。
もうそこは、閑寂さだけが充溢している空間となっていた。
「ああ寒い寒い。 ねえ見て、息が白い——」
明日香の小さな口唇からかすかに見える白い霧が吐き出てはすぐ消えた。
私は明日香と一人分間を空けて同じ壁の隅っこの方へと凭れた。
「珈琲飲む? 家で淹れてきたの持ってきたんだ」
明日香はポーチからピンク色の魔法瓶を取り出した。
私は寒さで固まりかけた表情を歪めた。 「ああ、ありがたい。 ここまで寒いとは思いもしなかった。 校内の自販機には……近寄れないからな」
「——怖いから?」
真っ黒い液体が魔法瓶の蓋にとくとく注ぎながら明日香は小悪魔のように囁いた。
「違うよ。 いや、そりゃちょっとはあるけどさ、警備の人に見つかったらばれるだろ?」
手渡された蓋を鼻先を近づける。 揺曳の湯気に流れて珈琲独特の芳醇な香りがあっという間に鼻孔を満たした。 冬の時期に飲む珈琲が一番美味しいと感じられるのはきっと私だけではないはずだ。
口に含むと明日香というキャラクターに相反して、苦味のある珈琲だった。 それでも二口三口で飲み干したのは、凍える寒さに耐えきれなかったせいだろう。
空いた蓋を返すと、再び珈琲を注いで、今度は明日香自身が鼻先を近づけた。
「ああ、温かい……」
魔法瓶を畳に置いて、細い十指に蓋を手挟み、珈琲から涌き上がる湯気を静かに吹きかけた。
窓越しの仄かな月影に照らされながら、真っ黒な液体をやおら見つめる彼女のその端正な姿は、ついシャッターを切りたくなるような可憐さを見せつつも、どこか寂しく儚げな女性を印象づけさせた。 いつもの明日香らしくないと言うのではなく、正しくは、明日香を見つめる私自身が普段の私らしくないというのだろうか。 先ほどの苦い珈琲の味が未だに舌先に残留しているためか、今暗闇に仄かに浮かぶ明日香こそが本来の姿であるかのようにも思えてくる。 このわずかのあいだで、私の見知ってきた明日香のまったく違った一面を垣間見てしまったのか、眼の前にいる明日香と言う人物との対応の変化に多少困惑している私はしばし、温かい珈琲に惚けている明日香を盗み見ていた。
それから明日香と私はしばらく黙りこんでしまった。 私は既に見飽きた室内を見回したり、腕時計を覗いたりで、明日香はと言うと、せっかく淹れた珈琲を飲まず、じっと見つめたまま身動きひとつしなかった。
「二人、遅いね」
私のなにげない言葉に、明日香はふっと顔をあげて直角に首を曲げて私の顔を見つめた。 彼女の表情の翳りが、室内の薄暗さに反映されて、物珍しくどこか不穏な雰囲気をより一層際立たせていた
「——来ないよ。 二人とも」
「どうしてさ」
「最初から呼んでいないもの。 初めから私たち二人だけだったもの」
私はさらに困惑した。
「そうじゃなくて、どうしてそうさせたのかを訊いているんだ」
「怒っているの?」
「違う。 でもおかしいとは思っている」
明日香はなにがおかしいのかここで不適に微笑んだ。 見ているこちらの背筋が凍るほどの寒気を誘う女性らしい笑みである。
「どうしてこんなことするか、判る?」
「判らないから聞いているんだ。 変だぞ? 明日香らしくない」
「それは本当の私らしさを知らないからだよ」
「じゃあ教えてくれ。 明日香のいう明日香らしさを」
「いいよ」
明日香はそういって暖をとっていた魔法瓶をそっと置いた。
彼女が畳に両手をついてこちらに近寄ろうとしていると思ったときには、明日香は私の口に自分の唇を重ね合わせたのだった。
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