第5話

 

 高校生最後の冬休み、クリスマス後の〈夜海堂〉のアルバイトは新年を迎えた三箇日までお休みとなった。 家にいてもなにもすることがなかった私は、早昼をだらだら時間をかけて食べ終えたあと、用もなく駅近くの書店に足を運ぼうと思い至った。

 適当な分厚い身支度を整えて玄関扉を開いた瞬間ひどく後悔した。 寒空のもとに立てば冷たい風が首元を狙い澄ましたかのように侵入してくるのだ。 今日はまた一段と冷え込んでいる。 書店の帰りにでもマフラーを買おうと決めた。

 はじめから、お目当ての書籍を買おうと言う目的で書店に来たのではなく、ただ高々と棚に陳列されたいくつもの種々雑多な本を見巡りするだけで、私はあっという間に充溢してしまうおかしな質なので、この日もただただグラフィックなデザインや目移りしてしまうほど魅力的な装丁の数々に、一時的ではあるが、心持ち穏やかになった気がした。

 店内をくどくど蛇行しながら見回ったあと、やはり結局何も買わずに、私は書店をあとにした。

 歩いて数分足らずの場所に小さな服屋さんがドアを開け放った状態で構え、「セール中」と掲げられたステンレスカゴが入ってすぐに眼に止まった。 カゴのなかの埋め尽くされた防寒具のなかから、グレーと黒の地味なマフラーを見つけだした私は、それを手にレジへと向かった。 入って五分程度で用事を済ませた私は、服屋さんの前で袋からマフラーを取り出し、そそくさと首に巻き込んだ。

 手に余った袋の処分をどうしようか考えていたら、不意に声をかけられた。

 「似合ってるよ」

 ふとどこか聞いたことがある声だと思い、首をその方向へ傾けると、そこにいるのはなんと赤坂さんだった。

 四人で顔合わせしたとき、お互いにどこに住んでいるかと回し回し答えていたのだが、確か赤坂さんは私の最寄り駅——新越谷の隣の越谷駅であったのを思い出した。

 越谷は新越谷に比べ、若者向けのお店が乏しく、足を運ぶ人も多いと居住する赤坂さんが教えてくれたのも思い返した。

 「ああ、赤坂さん。 久しぶりだね。 元気だった?」

 「久しぶりって、最後に会ったの終業式だよ? 二週間ぐらいしか経ってないのに、大げさ」

 グレーのコートに身を包んだ赤坂さんはポーチを肩にかけ、両手をポケットに入れながらうっすらと白い歯を浮かべた。

 「買い物?」

 「うん。 でもまあ今目的が達成されたからもう帰るんだけどね。 意味も無くぶらぶら散歩でもしようかと考えてたんだけど、この寒さじゃどうもね。 どうしたの、赤坂さん?」

 赤坂さんは小さな唇を開いてなにか言いたげな顔を私に向けていた。

 「ううん。 いや、なんとなく少し驚いただけ。 なんか以前よりも変わった気がして……」

 「変わった? どこが?」

 「なんだろう……うまく説明出来ないんだけど」 赤坂さんは首を傾げた。 「柔らかくなったって感じ」

 「柔らかく? じゃあ今まで固かったのかな?」

 錆びついた機械のようにがくがくと顔を上下左右に少しずつ動かしたら、赤坂さんを口を両手で塞ぎながら笑いを堪えていた。

 「そう、それだよ。 今まで誰かを笑わかそうなんてしなかったのに。 うん。 本当に変わったね。 やっぱり……明日香に出逢ってからかな?」

 「え、明日香?」

 その名前を聞いて、まず先週のことを瞬時に思い返した。 あれから明日香からはなんの連絡もなかったが、赤坂さんはなにか聞いていないだろうか。 私はそれを問おうかと、口を開いたが、同時に友人に対して探りを入れているかのようで憚られた。

 そんな私の困り果てた姿を見ていた赤坂さんは、「どうしたの?」 と訝しげに聞いてきた。

 「いや、赤坂さんの言う通り、確かに明日香のせいかもしれない。 ああいう性格だからいつのまにかこっちにまで伝染したのかも」

 「そうだね」

 赤坂さんは少し口を曲げた笑ったあとで、神妙な面持ちに挿げ替えた。 思わず息をのむほどの変わり身の速さであった。

 赤坂さんはお店の外壁に凭れはじめ、伏し目がちになった。 彼女を煩わすなにかがあるようだと容易に見て取れた。

 「でもね。 ずっとああだったってわけじゃあないんだよ? と言っても、私たちは高校入学してからの付き合いだから明日香の全てを語れる訳じゃあないんだけどね」

 「赤坂さん、今から帰り?」

 「え……うん。 今って年末セールでしょ? だから、買い物してたんだ」

 物が目に付からなかったので、多分ポーチの中に入っているのだろう。 買い物を終えていたのならちょうど良かった。

 「駅まで送るよ」

 「うん。 ありがとう」 赤坂さんはそこで一旦言葉を切って、それから「やっぱり変わったね」 と微笑んだ。

 自分ではよく判らなかったが、赤坂さんがそこまで言うのなら、確かに私は変わったのだろうと考えた。

 年末の町並みはひどく閑散として物淋しさを視覚から感じさせる。 それに寒さが付随すれば尚更憂いてしまう。

 コンビニであんまんを二個買った私は赤坂さんに一つ差し出し、並んで食べながら駅に向かった。

 話題はもちろん明日香のことである。

 「最初はね、明日香ってどこか危なっかしい雰囲気があったの」

 息をあんに吹きかけながら赤坂さんが過去を思い返した。

 「ああ、なんとなく判るよ。 少しだけドジって場面に出くわすし、日本語もたまに間違えるし——まあ人のこと言えないけど」

 「ううん、そうじゃなくて、危なっかしいって言うのは、ドジとかそう言うんじゃなくて、本当の意味で危なそうな感じがしたの」

 「……危なそう? 危険ってこと?」

 「うーん。 危険って言うと少し言い過ぎなのかもしれないけれど、括りで言うと、そう。 私たちS科って一年生のときにクラス内でグループを組んで、幼稚園に訪問して子供たちと一緒に遊んだり、紙芝居したりするんだけど、そのグループって仲がいい人達が五、六人集まって一つなんだけど、明日香、それまでずっと一人だったんだ」

 「意外だな。 あんな性格だから友達なんかすぐ出来ると思っていたのに……」

 「それは今の明日香を知っているからだよ。 多分——いえ、きっとクラスのみんなも明日香の雰囲気に気後れしていたから、初めの頃は気軽に話せなかったんじゃないかな? 私たちのグループが定員割れしたから、私が明日香を誘ったの。 少し怖かったんだけどね。 でもいざ話してみたら別段普通の女の子だったの。 変に邪推してた自分が急に馬鹿みたいに思えるほどにね。 幼稚園児と遊んでいるときも全然普通だったから、それを見ていたみんなも、そのあと徐々に明日香と話すようになったって、それでやっとクラスに馴染むことができたの」

 そんな事情があったのかとあんまんを頬張りながら、その過去の明日香という人間像を想像した。 ただ真っ暗闇な風景のなかにぽつんと明日香が立っている。 その彼女の周囲を紫色の不気味なオーラが棚引いていて、目は虚ろがちで不安定な状態を物語らせる。

 まるっきり私が見知している明日香とは異なっている。 別人のようだ。 肌に粟を生じらせるほどではなかったが、鳩尾あたりに妙な冷たさを感じた。 気のせいだろうか。

 「驚いたな。 そんなこと本人から聞いたこと無かったから。 でも表面だけ怖そうなだけで、やっぱり明日香は明日香なんだし、いいんじゃないかな? 今の明日香が本当の明日香というか——本来の明日香なんじゃないのかな?」

 眼の前に見える歩道用の信号機が明滅した。 掛け合うことも先んじて走り出すこともなく、渡る手前で信号が赤に変わった。

 駅がもう目に見える位置にまで迫っていたのだが、まだなにか話し足りない雰囲気がして、意識的に時間を引き延ばす手段をとった。 赤坂さんもそうだったと思う。

 「うん……私も、そう思っていた」

 左右に目を動かしても車が往来していないことは明白だった。 明白なのだが、信号無視をしてまで足を上げようとはしなかった。

 ——そう思っていた。

 きっとここから先の件を赤坂さんは言いたかったんだろうと読み取った。

 伝えようとした、の方が正確なのかもしれない。 あまりいい流れではないようなのは、伏し目がちな赤坂さんを横目に見れば、それは一目瞭然であった。

 「そのあとぐらいかな? 正確な時期は覚えていないんだけど、一年生の夏ぐらい。 私、料理クラブに入っていてその日遅くまでクラブの先輩と喋ってたの。 覚えていないぐらいの雑談ね。 先輩と廊下でわかれたあと駐輪場に向かったら、その端っこで女生徒同士が声高に口論しあってたの。 最初は誰だか判らなかったんだけど、段々暗闇に目が慣れてきたら、一人は一つ上の同じS科の先輩で、もう一人の相手がクラスに打ち解けたばかりの明日香だったの。 二人ともとにかくすごい剣幕だった」

 容易にその部隊が想像できた。 私たちB科の駐輪場とS科の駐輪場は向かい合わせなのだから、否応無しに覚えてしまう。

 「小さな森」ほどではないが、あそこも人の往来が激しい訳ではない。 夕暮れ過ぎなのも加味していたのだろう。

 赤坂さんは当時の情景をはっきりと覚えているのだろうか、宙を見据えながら、転じてとても明快に口元を動かしていた。

 それとも誰かに話すために予め順序だてを巡らせていたのだろうか。

 ほんの爪の先ほど、女性というものが怖くなった。

 「怖くて下駄箱前に引き返して適当に時間を潰したあと、もう一度駐輪場に戻ってみたら、そのときにはもう二人とも駐輪場から立ち去ったあとだったの」

 「じゃあどんな内容で二人が険難な状況だったのか判らずじまいか……」

 「ケンノン?」

 「——いや、なんでもない」

 「私も内容が気になったけど、明日香本人から聞くのが怖くてね。 なんとなく近寄り難かった明日香をまた思い返しちゃって……だからさっき話していた料理クラブの先輩に思い切って聞いてみたの。 その人もS科だか知っているだろうなと思って」

 「……その人はなんていったの?」

 前置きは長かったものの、私は赤坂さんが一番伝えたかった内容はここだと確信していた。

 「先輩たちのクラスでも持ち切りだったそうなんだけど、明日香がね……先輩の彼氏を奪ったそうなの。 でも奪ったって言い方もひどいんだけれど、その人とも数日で別れたそうなの。 この話、いつか明日香本人から直接聞くかもしれないけど——でもなんでかな? このことは貴方にも伝えたほうがいい気がしたの」

 「それは……」

 口にしかけた言葉がなかなか出てこない。

 「友達なのにね……」 押し黙ってしまった私をよそに、赤坂さんはそう自虐的に呟いた。

 つい先週先輩を見送った駅の階段前で、同じように赤坂さんを見送った。

 最後に 「良いお年を」 と微笑んだ赤坂さんは先ほどまでの思い詰めていた表情を解いていたが、無理に頬を吊り上げていたようにも見えた。

 「友達だから言えないのかもしれない」

 「……かもしれません」

 踵を返した私は、ロータリーの縁に設置された冷たい金属性の筒状のイスに腰掛けた。

 下り電車が到着したのを下から視認出来た。 時間的にあの電車に赤坂さんは乗り込んでいるのだろうと想像した。


 ——いつか明日香本人から話すかもしれないんだけど——なんでかな?


 私はじっと赤坂さんが乗っているであろうくすんだ銀色の電車を見つめながら勝手な推測を立てた。

 明日香は赤坂さん——きみにもそのことをまだ伝えていないのが、きみの話を聞いてても判断できる……

 きみはやっぱり——きみたちはやっぱりどこか互いを恐れたくすんだ関係を持続し続けていて、そのせいで互いを信用し切れていないんじゃないのかな……。

 電車はゆっくりと発車し、視界に途切れたのを認めると、私もおもむろに立ち上がって家路に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る