第4話


 クリスマス当日はそれまで通りの平静さでいられなかった。 おかしい言い方なのだが生きている心地がしたのだ。 実感が得られたと言っても過言ではない。 これが劣った人間の感性といえる。


 営業時間を少し早めに切り上げて、店の奥——座敷間でクリスマス会の準備を始めていた。 私と七生さんは二人いても手が余るほど大きな用がなく、手持ち無沙汰でシャンパンとワイングラス、ナイフとフォークと皿をそれぞれ人数分並べたりした。 奥からシチューの香ばしいにおいが漂う。 先輩の手作りシチューだ。 入店前に先輩がスーパーで食材を買ってきてくれていた。 母以外の手作り料理がなんだか新鮮さを感じ、静かに、だけど確かに大きく昂揚しだした。

 どんどん感情の起伏の上限が麻痺しだしたことに今更気付いたが、抑えることさえ惜しいぐらい心が勇躍していた。

 多分、この日が『楽しい』 と当て嵌められるだろうと確信した。 人生でそんな日は訪れないと思っていた分、込み上げてくるこの感情は壮大で開闢とし、体がふわりと浮遊しているようだった。 まるで夢の中に飛び込んでいるみたいだった。

 食卓の中央には商品である燭台が鎮座し、五本の蝋燭の先に明かりが灯っている。 「クリスマスみたい」 先輩がそう呟いて、七生さんが孫を見るような眼差しで微笑んだ。 商店街で外売りしていたチキンが予想以上に美味しく、香ばしい油の香りが余計食欲をそそらせた。 シャンパンは残念ながら私だけアルコール抜きを出されたが、全く気に留めず味わった。 口の中で泡沫が跳ねる舌触わりが、普段口にする炭酸の飲料水とは異なり、それがなんだかおかしく、その感興が目の前のご馳走を色鮮やかに施させた。

 極めつけは先輩が作ったクリームシチューだ。 正直言ってクリームシチューは好んでいなかった。 理由は甘いと感じてしまうからだ。 甘ったるいと表現した方がより判りやすいかもしれない。 口の中にびたびた残る泥濘みたいなものがまた不快感を誘ったのかもしれないが。 先輩の作ったものはその思慮と概念を綺麗に払拭させた。 見ただけでまず違いを見分けられた。

 艶があるのだ。 流麗ともいえる。 スプーンで掬ってみると白いシチューはとろとろと柔らかさを表現させた。 親が作ったものとは、この時点で既に異なる。 真逆なのだ。 うちのは艶もなく、シチューを垂らすとぼたぼたと落ちる。

 何が違うのだろうと、口のなかに含むと——。

「美味しいです」

 自然と口に出していた。

 それは本当に、脳が勝手に伝播した言葉なのだったが、「そんな驚くほど美味しかった?」 と先輩が柔和な顔で答えた。

 どうやら私の顔は私が気付かないほど驚いていたらしい。

 「だって、こんな美味しいの食べたこと無いんです。 家で食べているのとは全然違います。 なんて言っていいか言葉じゃ説明出来ないんですけど、本当に美味しいです」

 「べた褒めじゃないか」

 たった一杯で顔を赤らめた七生さんが、破顔しながらグラスに残ったシャンパンを飲み干した。

 考えてみれば、七生さんは奥さんを亡くして以降、ずっと一人きりだったのではないだろうか。 クリスマスだけでない。 毎日ずっとだ。

 今日と言う記念日に欣快きんかいしていて、七生さんの心情を汲もうともしなかった。

 そう慮るとなんだか無性に切なさが込み上げてきた。

 ちらりと先輩を見ると私の心機と同様なのだろうか、感慨深いととれる表情を七生さんに向けていた。

 先輩もこちらに気付いたのか、朗らかでいてどこかさみしい表情を向けた。

 「さあ、まだまだたくさんあるし、ケーキだってあるんだから、どんどん食べよう」

 

 用意していたシャンパンも全て空き、テーブルに並べられた聖夜のご馳走もお腹が膨れるほど満足して食べられた。 蝋燭も既に溶けて、途中からは室内照明に切り替わっていた。 驚いたのは先輩が華奢なつくりに反してよく食べたことだ。 甘いものが好きらしく、ケーキを笑顔で快食していた先輩は少女のようで愛嬌があった。 私はバレないように笑いを堪えられただろうか。 二人の顔にに赤みが増し、酔いしれている姿を見ていると、なんだかこちらも酔った気分だった。

 クリスマスがこんな楽しいとは想像だにしなかった。

 間中が以前、クリスマスは特に印象深い思い出になったと物語っていたのをこのとき思い出していた。 今のこの感覚と同じかもしれない。 いや、実際こう体感していると、間中の表現しきれていない以上の満足感が心から感じられる。

 ……幸福感?

 ああ——そうか。 これが幸福——幸せというやつか。 どおりで見つからないわけだ。

 私は聖夜を忘れてグラスを回す二人を見て不意に微笑んだ。

 ここにあったのだ。


 完全に酔いが回り、座敷に臥せた七生さんの顔はいつも以上に真っ赤で、それでいてすこやかであった。

 小さな寝息が聴こえる午後十一時、閉幕となった〈夜海堂〉で私は先輩と一緒に後片付けをしていた。

 「七生さんを二階の寝室に運んできます」

 「うん。 お願い。 こっちはごみをまとめておくから」

 七生さんの腕を肩に掛け、ゆっくり起き上がらせる。

 「七生さん、寝室に行きますよ」

 「——うーん……」

 細目だったが寝ているようにも見えた。

 明日が定休日で良かった。

 階段に足を強く打ち付けないよう注意を払いながら慎重に七生さんを寝室まで移動させた。

 襖を開くと、藺草いぐさと線香の混ざった香りがした。 階下と違って静閑な空間をしている。

 部屋の隅に蒲団が畳まれていたので、少しの間、七生さんを畳上にゆっくり寝かせた。

 足を止めたのは、そのまま横臥してしまいそうな七生さんをふかふかの蒲団に寝かしつけた後だ。

 回廊に出ようと踵を返したところ、襖を入ってすぐ横に仏壇が置かれているのに気付いた。

 写真立てに一人の女性が正面に向かって微笑んでいる。

 瞬時に脳裏を掠めた。

 奥さんだ。

 場所はどこかの公園だろうか。 眩しく照らしている新緑から夏を想像させる。

 白髪の女性は写真を見て判るほど痩せこけている。 頬骨や首の骨が浮き出てしまっている。 色素が若干薄く見えてしまうあたり、病状が芳しくない当時の撮影なのだろう。

 とても——とても幸せそうな顔をしている。 カメラの向こうの相手に微笑みを投げているようだ。

 その撮影者の寝顔をそっと覗きこむと、奥さんとよく似た表情をしていた。

 音をたてないように襖を閉め、回廊さえも忍び足で階下まで降りる。

 仄暗い回廊から居間に戻ると、先輩の姿が見当たらなかった。

 「起きちゃった?」

 店内に通じる木戸越しからくぐもった声が聴こえた。

 先輩の声だ。

 「いいえ。 しっかり眠ってました」

 戸を開くと、暗い店内の文机に先輩が腰掛けていた。

 首は翡翠の方を向いている。

 ガラス戸から外の常夜灯が店内をほのかに照らしている。 深閑でいてどこか溶質の密度がこの店内には漂っていた。 先輩の傍まで歩み寄り、文机の椅子に手をそえる。

 「この人形、本物みたいだね」

 「……はい……でも人形です」

 「いつも見ていたね。 この人形を」

 先輩はわずかに唇をつり上げながら私にその切れ長の瞳を放った。

 驚いた——が、表情に出さないよう善処した。 なんだか見られたくない顔を見られていた気分だ。

 「輪郭のはっきりとした瞳の色は今まで見たことないぐらい、宝石のように光沢があって、睫毛もくるりとカールしてて、この藍色の髪なんか人工的だけど、決して違和感を覚えない。 体温が流れているかのような張りのある肌。 唇だってほら、艶があって桃みたいにもちもちしていそう」

 そうして再び翡翠に目を向けた先輩の表情は、この無垢な人形たちに溢れた一室と同じぐらい物寂しく翳りを魅せていた。 正確には——初めてこの店内に入り込んだときから先輩はどこかそんな気色を帯びていた。


 「人形は、何の為に存在しているんでしょう?」

 「どうしたの。 いきなり」

 先輩はやや眼を見開いては心配そうな眼差しをこちらに向けた。

 「この人形を見たちときからずっと考えていました。 この人形は限りなく人間に近い人形だけど、それでも人形の域からは決して逸脱できない。 だって人形ですから。 抜けられない世界には上や下といった境界線はない。 それなのに、どうして人形はそれでも人間を模倣する——近づこうとするんだろうって」

 小さな唸り声がすぐそばで聴こえた。 先輩は指先で文机をとんとん響かせながら、じっと足許を眺めて考え込んでいる。

 「……私は、彼女たちはそれでも人間だと思うよ? 想ってあげたい……のほうかな? 彼女たちは私たち以上に人間を欲し、人間に焦がれ、人間のことばかり——ただ人間の一念しか揃えていない神秘的な存在なんだよ。 愛してさえいるかもしれないし、愛するがために不倶戴天のひとつもあるかもしれない。 私たちは確かに人間だけど、人間であるが故に、人間という理性的な存在を損失しかねている——忘却しているとでも言うのかな? 私という個の存在を誰でもない私自身が証明しない限り、私は人間でもなければ人形でもないただの空っぽの塑像そぞう——空気……。 だから彼女たちが強いて祈望きぼうするのなら、もうその時点で枠から抜け出した人形以上の人形。 人間以上に人間を望んだ存在だと思う」

 「先輩は大学でなにを専攻しているんですか?」

 「ドイツ語学専攻だよ」

 「先輩は、自分を空っぽの存在だと思うときがあるんですか?」

 「私は……うん。 いつも思うよ。 みんなは笑ってそのことを深く考えないだけで、わずかにその疑問を頭のどこかに残らさせているんじゃないかな。 きみは、きみは考えたことはない?」

 先輩の解釈は、私の中の奥深くまでを見事に混濁させた。 私は無気力なまでに人間に無欲だった。 自分以外の人間に興味や関心もなかったし、自分自身にも向き合わず日がな一日を無駄に過ごしてきただろう。 私こそ空っぽな存在であったと痛切に感じた。

 少なくとも翡翠を見たときと、先輩を見たときを除いては。

 自分にではなく、人間を欲する人形に。

 自分にではなく、自らを空っぽの塑像と語る女性に。

 少なくとも彼女たち人形の前では、私は人間だったろうと想像してしまう。

 私という個の人間が、果たして人間足り得ているのだろうかと、先輩の話を聞いて頭を抱えたいほど困惑しだした。

 混濁に混濁を重ね合わせる迷いのなか、私は初めて自分に問い質した。 では、翡翠と先輩以外のときの私はいったいなんなのだろうかと。

 私はそれをずっと考え悩み倦ねた。


 暗闇にふっと映る月の暈が浮上する白綿のような雲と重なり、殊更霞んで見える。 それでもクリーム色の月が周囲の黒闇と先輩を淡く照らす。

 手を後ろに組んだ先輩は一歩前をハミングで歩きながら月を見上げる。

 長くてきれいな茶褐色の髪がクリーム色の光にあてられ、艶が出ているように煌々と濡れていた。

 「留学しようと思うんだ」

 月を見ながら確かに先輩はそう言い放った。

 「それはまた突然ですね」

 「ずっと前から考えていたんだけどね。 どうしてだろう。 今は行きたいって思えるようになった」

 「どうしてでしょうね」

 「うん……どうしてだろうね」

 先輩はこちらを振り返らない。

 「期間はどのくらいなんですか?」

 「一年はいるつもり。 でももしかしたら……もっとかも」

 なにも言い返せなかった。 鉄球付きの足枷が繋がれ、思うように身動きが取れない。 また頭がくらくら朦朧とし、視界が遅鈍に揺れ動いてくる。 

 いつも素通りする駅前のコンビニの照明がこの夜はひどく眩しく眼を痛めつけた。 そのときになって、先輩とはもう言葉を交わす頻度に限りがあることに気付いた。

 駅の改札口へと階段を上がる先輩が「またね」と言った。

 私はただ、「はい」としか答えられなかった。 「さようなら」と別れの挨拶を軽々しくも口に出来なかった。 その言葉を不容易に吐いてしまったら、先輩は本当にどこかへ行ってしまいそうな気がした。 ぎらつく閃光に包まれて、ぱっと消滅する先輩の幻想が脳裏を過ると、夢想する私自身をひどく心痛にさせた。

 無機質なコンクリートの階段を一段ずつ踏み込む先輩の後ろ姿を朧げに見つめながら、私はどこか、自分の日常の範囲内に先輩がいることがさも当然なんだと、哀れ儚く誤解していたことをしった。

 何も考えていなかったといっていいぐらい私はその世界に思っていた以上に、夢見がちにどっぷり浸っていたようだ。

 叶うならいつまでもこの世界にいたかった。 週末の〈夜海堂〉で先輩と過ごす短い一時を永遠に繰り返していたいと数えきれぬほど希求したのも事実だ。

 私はそのときの心理状態を努めて厳しく内観した。

 なぜこんなにも複雑な思いを馳せるのだろうか。 なぜ先輩に対して深く思い悩んだりするのだろうか。 なぜ度々先輩の姿や顔立ちを考え込んでしまうのだろう。

 小さくて、だけど強い熱を持った幾多もの疑問は全て帰結した答えに導いてる気がした。

 それとなく、もう先輩も誰もいない階段を呆けていたとき——これはまったくの偶然なのだけれど——見られていると感じる、直線的な視線を感じた。

 そんな鋭い視線を感受したのはこのときだけであるが、その視線に穿たれたとき、私はつい反射的にその方向を振り返った。

 ロータリーを隔てたパチンコ店前の路地でこちらをじっと見つめている女の子がそこにいた。

 どうして——。

 明日香がここに——。

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