第3話


 今まで腕や指の細部に至るまでが未全であった翡翠の瞳の人形は、冬木立の枯れ葉が地面にぱらぱらと目立ちはじめたある日、ついに完成した。

 名前はない。

 そのときになって素直に表現できる自分に気付いたが、私はその翡翠の人形に出逢った高校二年生の夏の頃からとっくに魅了されてしまい、なにがなしこの人形を眼で追うことも多々あった。

 私はその瞳の色と同じ『翡翠』 と名づけた。

 翡翠は、会計の真横の椅子にちょこなんと座りこんでいた。 その姿は、初めて見たときよりもずっと人間じみており、まるでこのまま動き出してしまいそうなほどの出来映えだった。 動き出してしまえばと何度も思った。


 〈夜海堂〉での先輩の休憩時間、携帯をいじる姿を幾度も見かけた。

 深く考えないように心がけてはいたものの容姿端麗で誰からも慕われていそうな先輩にはきっとそれに見合った相手がいるのだと思うとなぜだか物淋しさを覚える。

 判りきっていたその事実をどうしても理解したくはなかった。 私自身そこまで意地を張ったところでどうしようもないというのに。


 そうして見えない壁にぶつかったときは、決まって唇の皮を葉で剥くのが私の些細でつまらない癖であった。 無論、舐めれば滲みるほど皮を剥いたところでなんの進展も起こらなければ解決にもしない。 私はただ起こる事実と見える真実にはいつもそうしてうじうじと地団駄を踏んでいる無力な赤子なのである。

 私の鬱憤をその悪癖で紛らわし、引き延ばして、ちみちみと摺り下ろしながら真横に鎮座している翡翠の繊細な容姿をじっと文机から見つめていた。

 するとなぜか、それは本当に理解不能なのだが、次第にじわじわと苛立がこみ上げてきたのだ。 渾々と涌き上がる熱を帯びたなにかは、まだ自制できる程度に収まっているが、その渦中、映り込む翡翠の人形をまじまじと眺めていると全く別の感情が輪郭を見せはじめた。

 体中から込み上がるその輪郭が徐々に明確な形となって現れだすのが、これも不可解ではあるのだが、私は必死になって押さえ込もうと、腕枕にして会計の文机に頭を突っ伏したように踞ってしまった。

 しばらく瞼を閉じて蓑虫のようにじっと堪え、その体勢のまま首だけを動かして、そっと翡翠を見つめていた。

 理性では抑えきれない不明で粗暴な凶器がざくざくと翡翠を刺し込んでいく。 なんどもなんども深々と。 同時に自分の下唇の皮を剥ぎとる。 舌で舐めとるとひりひりとした痛みと鉄のような血の味がした。

 ここまで獰猛で野蛮な感情になったのは初めてだった。

 「あ、こら。 さぼってちゃだめだぞ」

 裏から先輩の声が聞こえ、急いで頭を上げて肩越しに声を返した。

 「あ、いや、考え事してました」

 「そんな判りやすい——ん」

 笑いかけた表情がぴたりと止み、つぶらな瞳を大きく開きながらこちらをしばらく凝視していた。

 下駄を突っ掛け足早に近づいて来た。

 「あの、どうし——」

 先輩は中腰の姿勢で小さな顔を近づけ、息がかかるほどの距離まで近寄って来た。 睫毛のかたちがまじまじと見える。 この距離だと甘い香水のにおいが特にはっきりと鼻なり体なり反応した。 先輩に合った、先輩のにおいだ。

 「——」

 惚けていた私は、先輩がなにか言葉を発していたことに全く気付かなかった。

 「あ、すみません。 もう一度お願いします」

 「だから付いてるよ。 血」

 先輩は自身の下唇に人差し指を当てた。

 ああ、と気付き、唇をさすった。 ひりっと痛みを感じ、当てた指を見ると赤い濁点のような跡が残った。

 「癖——なんです。 唇の皮剥くの」

 「……やっぱりきみは変な子だね」

 先輩はその後ゆっくり微笑んだ。

 その笑顔を見ているとなんだか自分の抑圧していた一時の感情が急に馬鹿馬鹿しく思えてしまい、そんなくだらないことを抱いていた私も、先輩の微笑みに倣うかのようにつられて笑い出してしまった。 抑圧した感情は、そのとき融けたような消えたような気がしたと、そのときは思った。


 先輩とも次第に打ち解けはじめたある冬の夜中、閉店作業を終えた私と先輩は駅までの道程を並んで歩いていた。

 夜気は刻々と闇の色合いを深め、それに張り合うように赤と白と緑の電光色が煌々と町を照らしていた。 聖夜はそこまで迫っていたのだ。

 冷たい夜風が厚手のコートから難なく入り込んでは凍える体をさらに震えあがらせる。 首筋に冷気が吹き付けられると鳥肌が立つ。 マフラーを買わなくてはならないようだ。

 「クリスマスは何をしているの?」

 「クリスマスですか? うーん……何をしているんでしょうか。 この歳で家族と祝うのも恥ずかしいですし、かといって予定がある訳でもありませんし」

 「この歳って、きみはまだ十八でしょうが」

 横から多少体重を載せながら肘でぶつけてきた。 この一種のアクションも先輩からある程度の信頼を得たと解釈していいのだろうか。 そう思うと体がぽかぽかと火照りだした。

 口から熱を吐き出すように、白い息を吐き出してみた。 白い吐息はすぐさま消え去った。

 顔を上げて先輩をちらっと見た。

 「じゃあそんな先輩はなにしてるんですか」

 「え、あたしは——」

 髪色と同じ茶色く染めた眉が片方傾いた。

 「——すっぽかされたんだ」

 「クリスマスの日にですか」

 「そう、クリスマスの日に」

 いつもの声質とどことなく雰囲気が違うような気がしたが、ちょうど私たちの横をスクーターが通り過ぎたため、その騒音に合わさって正確な判断が出来なかった。

 先輩は右手に見える飲食店の窓ガラスから店内の様子を覗き込んでいて、横目からではどんな表情をしているか判らなかった。

 「七生さんがね——」

 夜も更け、閉店した仄暗いお店ばかりが続き、もう見飽きた先輩は寒さで頬を少し赤らめた顔をこちらに向けた。

 「友達にすっぽかされたことを七生さんに冗談で話したら、そしたら三人でお食事会をしないかって誘ってくださったんだけど——」

 七生さんが奥さんに先立たれたことは、以前、七生さんから直接聞いていた。 十年前、〈夜海堂〉が開店したその年に亡くなられたそうだ。 それからずっと独りだった

 「いいんですか。 その、先輩は……」

 「友達はみんな彼氏と過ごすそうだからね。 クリスマスの日に女ひとりって言うのはなかなか堪えるものなの」

 「いや、そうじゃなくて……彼氏さんとは」

 歩きながら数秒ほど無言でこちらを見ていた先輩はそれからゆっくりと首を傾げた。

 「いないよ。 彼氏なんて」

 「え、あ……そうですか……」

 なにか小石が詰まっていたみたいにぎこちなかった私はその後気兼ねない会話を楽しむことができた。 私もそれに興じ、雑感を交えた内容をいくつか話したが、念頭は最早それどころではなかった。

 一つ先の駅だと言う先輩を駅の改札口まで見送り、近くのコンビニ前に無断で停めていた自転車に乗って、自宅まで帰ろうとしかけた。 だけど、その日は体が軽くなった高揚感に近いものが体を駆け巡らせ、疲労すればその体温は静まるだろうと考え、吹きつく夜風を振り切りながらそのまま三駅分の道程を高架線に沿ってがむしゃらに漕ぎ続けた。

 耳朶に風を切る音が流れ込むほど、力一杯足を休めずに。 私は嬉々として漕ぎ続けた。



        *



 「——バイトだよ」

 「クリスマスの夜だよ」

 「そう、クリスマスの夜にアルバイトだよ」

 「わざわざそんな日まで働かなくてもいいじゃん」

 「お金が欲しいんだよ。 いろいろと」

 言葉に嘘偽りはない。 そう、その日は本当にアルバイトなのだから。

 含みなどあるわけがない。

 「明日とクリスマスに何か用事があるの?」

 明日香の言いたいことは大体予想出来てはいたのだが、具体的な内容をとりあえず知っておきたかった。

 「明日は買い物に付き合ってほしかったんだ。 アルバイト代でたし。 それで、クリスマスの日には……一緒にどこかへ行きたかったのに」

 最後、声を落とした明日香は僅かに頬を紅潮させてこちらを一瞥し、手前のやきそばを突つきだした。

 「〈夜海堂〉……だっけ?」

 「なにが?」

 「アルバイト先」

 「あ、ああ、そうだよ」

 そう簡潔に答えると、明日香は急にこちらに顔を向けて真面目な表情になった。

 「どこ? そのお店」

 明日香はいつの日も明るくて相手の相好を崩すことに長けていたので、そんな表情が珍しく、それでいて少し怖かった。

 大きい瞳には小さな私がまた映り込んでいる。

 「どうして、そんなこと聞くの?」 と私が返した途端、それははっきりと表情に表れた。 驚愕とした顔。 哀愁を帯びてさえ見れる。 蒼白の色を混ぜた明日香と私の周囲の時間が止まってしまったように感じる。

 明日香は私のなにかに対し、明白な拒否の態度をとった。

 「なんでも、ない……」

 その声はとても気弱で頼りなく、偶然耳に届いた程度の声量であった。 それ以上の追求をひどく拒んでいるように聞こえた。

 滞る状況は、校内のチャイムが鳴ったことで誤摩化すことが出来たが、食器を下げた明日香はなにも言わず、一人で食堂を辞した。

 なにか、ひどく嫌な予感がしてならなかった。

 外廊下へ出ると横風が髪を掻き出した。 また風が強くなった。

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