第2話
約二年前に遡る。
高校に入学して初めての夏、暇を持て余した私は郵便局の短期アルバイトに応募し、真夏の突き刺すような日差しの中働くことを選択した己の馬鹿さ加減に呆れ果て、その後悔を振り払うように重い郵便用自転車で入り組んだ町中を必死に駆け抜けた。
短期アルバイト最終日、私は〈夜海堂〉に足を踏み入れた。
〈夜海堂〉は私立病院の裏にひっそりと佇む、二階建てのこぢんまりとしたお店で、そこは和洋混合製人形を取り扱っていた。
曇りガラスの戸を開けて店内に踏み込むと、すぐさま珈琲の芳醇な香りが鼻孔を掠めた。 推定二十代前半までと思える
小包を届けに来たのだが、店主どころか見渡す限り人形ばかりで、生きている人間を見分けるのが至難といえた。
すみませんと声を張り上げて、店主を呼ぶと、貫禄をとうに越したと見える老人が暗い奥からぬらりと出て来た。 ほんの一瞬だけ恐怖で息が止まった。
「すまないね」 老人が幾重の口許のしわを緩ませ微笑んだ。 「珈琲を淹れていたものだからね」
なんだか急に怖くなり、小包を渡したらさっさと本局に戻ろうと、単調にサインを貰い踵を返したそのとき、老人が声を掛けてきた。
「もし良かったら珈琲でも飲みながらご覧になりませんかね」
どう見てもまだ勤務中なのだが、それをそのまま伝える度胸はなく、私はまだ仕事があるからと適当に煙に巻こうと黙考していた。
口を開こうとしたとき、老人が先ほど出て来た暗いトンネルのような奥の部屋から、誰かがこちらをじっと見ている気がした。
老人はそれに気付いたのか背後に目をやった。
「ああ、あれはまだ試作中なんですがね」
と言いながら奥へと下がると自分よりも頭一つ分抜き出た女性の人形を、しわが寄り、骨張った十指で抱きかかえて戻って来た。
それは店内にある人形よりもさらに精巧に作り込まれたより人間に近い人形だった。 翡翠のような瞳が殊更異彩を放っていて、鼻筋や眉一本一本に時間を費やしたことが容易に窺える。 今にも喋りだすのではないか、と錯覚するほどの出来映えだった。 これでもまだ完成していないのだから驚くべき傑作だった。
気付くと私は老人の勧められるがままにパイプ椅子に座り、温かい珈琲を吐息で冷ましながらちびちび飲んでいた。 その眼光は翡翠の瞳をした人形から決して離そうとしなかったのを今でも覚えている。
しばらくその様子をうかがっていた老人がおもむろに口を開いた。
「もし良ければうちで働きませんかね。 ちょうど男手が必要でしてね」
なにが一番恐ろしかったと言えば、それは私が短期アルバイトでその日で終了することを既知しているかのような物言いだったからだ。
そして、話すこと聞かれること全てがこの世界の真実だと受け入れてしまう赤子のような私はその老人の問いかけに一つ返事で頷いていたのだ。
「ああ、それは良かった。 本当に良かった」 老人はまた微笑んだ。 「ああそうだ、申し遅れました。 私はここの店主をしております。 七生と申します」
七生さんは懇切丁寧に仄白い頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
七生さん以上に深々と頭を下げた後、〈夜海堂〉の店主は目尻にしわをよせながらゆっくりと微笑んだ。
「お前は充分物好きなやつだな」
事情を伝えた間中に随分呆れられた覚えがあったが、こうしてそれから休日のみ、〈夜海堂〉でアルバイトをすることとなった。
路上から曇りガラス戸をこっそりと開いて店内を盗み見る人は珍しくもなく、かといって店内に進みいる人は数える程度の〈夜海堂〉での与えられた主な仕事内容は、そんな数奇者の接客と掃除全般、そして展示会会場の準備だった。 精巧な人形作りの細微な手伝いに関しては七生さんが、「これは色々面倒だから」 と一笑しただけで、その作業内容は黙契秘旨を貫き通し、それ以上教わることがなく、あっという間に二年が過ぎた。
間中から誘いが来たのは小さな森の会談から一週間経ったある日のことだった。 ちょうど試験を終えた私たちは、学校から一番近い喫茶店でささやかな打ち上げ会を催していたときだった。
食後の珈琲で暖をとりながらくつろいでいると 「実は」と間中が切り出した。
「今日呼んでるんだ。 と言うか、今この店の前に居るんだ」
急な展開に心臓が高鳴り、珈琲の余韻に浸る大事な一時が一気に腹の底に流れ落ちる気分がした。
「もしかして……
判りきったことをつい聞いてしまったが間中は鷹揚に頷いてくれた。
「呼んでもいいか?」
今更、嫌だと言える訳もなく、半ばどうにかなるだろうと投げやりになりだして、間中の隣の席にそそくさと移りだして、了解を伝えた。
食事時も携帯でなにやらしていたがこういうことだったのかと納得し、通話中の間中を横目にしていると、しばらくして女子が二人扉からそのままこちらに近づき、そして立ち止まった。
「あのときはどうも。 野面明日香です」
「こんにちは、明日香と同じクラスの赤坂沙也です」
野面と名乗る女子はやはり先日の窓辺の女生徒だった。 私と目が合うと、パッとひまわりのように花開いたような笑みを見せた。
赤坂と名乗る女子はあのとき会釈を交わした人で私とどこか似た静かさ、私にはない静謐さと理知的な雰囲気を漂わせていた。
こちらも立ち上がり、あらためて軽く紹介を交わしお互い席に着いた。 二人も私たちと同じ珈琲を店員に頼んだ。
仲介役の間中には進行を一任することがあらかじめ決められていた。
私たちは互いの誕生日や血液型、好きな食べ物、音楽、出身地や高校までの雑多で色褪せない思い出の数々を述べ連ねて、談義の合間合間には幾色の笑い声が混ざり合っていた。
間中から意味深なことを言われてか、会話の中、野面と目を合わせる度にどきりとした。 話の流れで互いの携帯電話のアドレスを交換したあたりで、暗くなった店の外で解散となった。
〈夜海堂〉では月に一回、人形を外気に触れるという欠かすことのできない大切な業務があった。 「太陽を浴びるとやけてしまうからそれはできないからどうして日陰からになってしまうんだけれど、それだけでも外の温かさや空気に触れて、心が晴れ晴れとしないかい? 人形だってきっとそうだよ」
この仕事は慎重に人形を運ばなければ障害物にぶつけてしまうし、天候の変化や風にも気をつけなければ大事な人形を汚してしまうので一体を運ぶことに多大な神経を注いだ。
高校三年生の時期の秋の肌寒さは例年を下回るほど堪え、店内の暖房は強く設定されていた。
喋り声ひとつあげない人形たちに囲まれる中、温かい空調のせいもあって、ついうとうとしてしまうが、その日人形を外に出すのだと考えると億劫になった。
それは確か最後の十二体目の人形を店の裏手の縁側にポールで立て掛けようとしたときだった。
何か甘いにおいが鼻につくなと思うや否や人形のひとつがひとりでに動いたのだ。
わっと驚いて声を上げると、それはよく見ると人形ではなく人間の女性で、その女性も驚いて金切り声を上げた。
声を聴いた七生さんが居間からきいきいと床板を軋ませながら、どうしたどうしたと出てくると、七生さんも、わっと小さく声を上げた後、「死ぬかと思った」 とボケと受け取れない安堵を浮かべた。
七生さんは女性をまじまじと見つめ、「ああ、人形が動いたかと思った」 と興奮気味に呟いた。
それが先輩とのおかしな出逢いだった。
私のときと同じように七生さんが先輩に珈琲を勧め、一旦は遠慮したものの、他の人形見たさなのだろうか、しばらくして先輩はこくりと恥ずかしそうに頷いた。
勝手口がある台所を借り、慣れた手つきで珈琲を淹れながら、私はどこか落ち着きを保つことが出来なかった。
居間では七生さんがほほほと笑う声が響いた。 ご機嫌なのだろう。
私も隅に置いていた座布団を持ってきて座卓を中心に三角の形で座り、三人で熱い珈琲を啜った。
「おいしい」
ほっとした顔でぽつりと先輩が感想を漏らした。
先ほど裏庭で嗅いだ甘いにおいは先輩の周囲から特に感じた。
先輩の話では大学帰りになんとなしに路地をぶらついていた。 以前から知らない場所をついあてもなく散歩する趣味があったらしい。
そうして店裏の路地を歩いていると物音が聴こえたので、首をそちらへ向けると板塀の向こうに洋風の
気付いたときには裏戸を開けて庭まで来ていたという。
七生さんの朗笑はこれだった。
「しかしこんなきれいなお嬢さんが狭い路地を歩くとはおっかないことですね。 お気を付け下さい。 何が起るか判ったものじゃありませんからね」
七生さんは湯に浸かった氷のように滑らかに語った。
「はい、以後気をつけます」
先輩は慎みながらもどこか生来の愛嬌さが姿から流れ落ち、それから小動物のようにふふっと微笑んだ。
冷めきった珈琲を居間に残し、二人で先輩を玄関まで送り出した。
夕日を背景に映す先輩の後ろ姿は陶器のように滑らかに磨き込まれた性質を持ちながら、同時に脆さも兼ね揃えているようで目を離した瞬間壊れてしまいそうな気配が感じられたのだった。
後ろ髪を綺麗に撫でおろした先輩は声質からも凛としていて、その痩躯がいっそう儚さを露にした。
まるで——。
「まるで本当に人形のようじゃったね」
そっくりそのまま言いかけた台詞を、心を覗いたように語るので、思わず七生さんの横顔をぎょっとした眼で見つめた。
「なんだね、ほら、翡翠色の瞳の人形さ。 あれにそっくりじゃった。 だから本当に魂が宿ったのかと思った。 いやいや年寄りには、ちときついね。 これは」
ゆっくりとこちらを見上げる七生さんの顔はちょうど斜陽と重なり、表情の半面が翳りを見せていた。
先輩は、七生さんとの話にも始終上の空で、ちらちらと居間の隅のポールで吊り立てられた翡翠色の人形に見入っていた。
自分が自分に見られているようで落ち着かなかったのかもしれない。
次の週末の〈夜海堂〉には、先輩の姿があった。
従業員用の渋緑色のエプロンを羽織っていた。 正式に七生さんが雇ったそうだ。
お店の方は大丈夫なのですかと、経営のことを率直に心配すると、「それなら心配ないよ。 それに、きみが喜ぶかと思ったからさ」 七生さんは何でもお見通しというふうににかっと笑ってみせたが、私は内心で七生さんの心眼の能力にひどく喜懼していた。
「改めてよろしくお願いします」
先輩は下駄をかつかつと地面に音を鳴らせながら駆け寄っては優しく微笑んでみせた。
その曇りのない、有り体に言えば太陽のように焦がれる笑顔につい相好を崩しかけてしまいそうになった。 握手を交わしているときも弛緩を筋肉で引っ張ることに精一杯で、その後のぎこちない挨拶をしてしまったが、それが余計先輩の笑顔の糧となっていた。
ついには私も微笑んでいた。
暖房が効き過ぎていたのだろう。 体中が熱く火照ってしまった。
十二月を既に迎えた昼休み、どんどんと誰かが窓ガラスを叩く音がした。 窓の外を見ると人ではなく、梢同士がぶつかり合い、狂乱を起こしているように必死に暴れていた。
外の女生徒たちが髪とスカートを手で抑えながら、強風の中じりじりと歩いていた。
明日香と食堂で昼食を摂っていると、「どうしたの、最近やけに明るいじゃん」 とこちらを覗いてはそんな一言を発した。
「そうかな。 普通だと思うんだけど」
あれから二人で会うことや食事をすることが自然と増えてきていた。
私を除く、明日香と間中と赤坂さんの進学組は毎日面接練習と受験勉強に忙殺され、次第に会う時間が削られていった。
明日香ももちろん忙しいはずなのだけれど、彼女はそれでもいつのまにか私の傍にいた。
「うそ。 なんか良いことあったんでしょう」
向かいの明日香は前のめりになって私の首筋を細い食指で突いてきた。
「本当になんでもないって」
狼狽して上半身をパイプ椅子にくっ付けた。
以前、いつかの節に首が苦手なことを知った明日香は、ことあるごとに首を突いたり、さすったりして私をひどく困らせることを嬉々として楽しんでいた。
「ねえ、明日は何をしているの?」
急に話題を変えてきたが、それが明日香の自由な特徴でもあった。
「明日は〈夜海堂〉でアルバイトだよ」
ふいに先輩の顔が脳裏によぎるや目尻がかっと熱くなる感覚を覚えた。 ときに明日香は鋭いことを突くので、明日香はどうなのか言い返そうと口を開きかけた。
「夜もアルバイトなの?」
明日香の果実のような甘い唇が口を挟む隙を与えず顔をさらに近づけ言い寄ってきた。
彼女の黒い瞳に朧げな私が口を開けている絵が微かに映る。
かけそばに視線を移しながら不器用に頷くと、「じゃあ、クリスマスは」と矢継ぎ早に投げかけてきた。
「その日は……」
私は、窓外から見える冷たい風に乾いた梢のつぼみが震える姿を眺めた。
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