アマレット

大久保

第1話


 貿易商社ビル内に設けられた喫茶室の最後のアルバイトを終え、新越谷駅の地を踏んだ底冷えの暮夜、幾多の常夜灯が街をほのかに、煌びやかに灯していた。


 クリスマスが明日に迫った今宵、重く黒ずんだ雲が夜空を覆い隠し、地上は一層しんと冷えこんでいた。 震える首を縮めて歩きながら、知れず辺りを見渡すと、駅前のパチンコ店の外壁には大型液晶ディスプレイが設置されており、その目映い照明は毒々しく光を放射している。 その周囲だけはまだ昼下がりなのではないかと錯覚してしまうほど眼には有害だった。

 突然、私の横をすれ違った人が、あっと呟いた。

 知り合いかと思い、それとなく振り向くと、背を向けた女性がなぜだか顔をあげて雲の空を見上げていた。 私も倣って見上げる。

 一面はやはりただ灰色混じりの曇天模様だった。

 不意に、音も無く頬に冷たいものを感じた。

 それが雪だと少ししてから気付く。

 雪に触れようと手を差し出したが、手のひらに行き着いた白い雪はしゅんとさみしげに変容をとげ、ただの水滴に戻った。 いや、元々水なのだが。 濡れた手をやおら頬に当てると手のひらがほんのり温かかった。

 行き交う人が時折眉を傾けながらこちらをうかがうので、なにかと訝しんだが頬に当てている自分を不思議がっているのだと気付き、そっとその仕草を解いた。


 先ほどの女性は帰宅の雑踏に紛れて手のひらの雪のように消えていた。

 その女性の後ろ姿はどこか先輩と被さって見えた。


 先輩とは、就職先が決まり、高校生活も残すところ半年を切った秋頃、同じアルバイト先で出逢った。 年齢を訊ねていないが、私より二つ三つは上だろうと余計なことを考えた。

 今ほどではないが、当時の私は寡黙気味で周囲と打ち解けることを不得意としていた。 そんな私を先輩は露ともせず気軽に話しかけてくれた。

 春の日差しのようなぬくもりと優しさを一緒くたにした温かい笑顔、切れ長で理知的な黒くつぶらな瞳、くるんと跳ねた柳眉、小さくて細長い鼻筋、見惚れていたら吸い込まれてしまいそうなほのかなピンク色の唇。

 そして——あの馥郁ふくいくたるアマレットの甘い香り——。

 

 アマレットの香気がどこからか漂うとき、私は自然と先輩を夢想してしまう。


 学校では未だ進路が決まっていない生徒と既に決まった生徒たちとの心理的諍いが多々あった。

 そんなときは、第二棟校舎の一階に設けられた自動販売機で買った缶珈琲を飲むことが常だった。 横から吹き付ける秋の寒風に身を捩りながら制服の襟を引っ張り、近景に映る竹格子で囲繞された和風庭園を見つめていた。 造園科の生徒の卒業制作だろう。 誰も踏み入れない石畳が所狭しに敷き詰めてあり、松を豪奢に使って辺りに植えていた。

 どこから取り寄せたのか、奥には苔が付着している灯籠まで鎮座されていた。 小さな池には枯葉が数枚浮いていて、庭の傍の大きな木立が冷たい風に煽られ梢をがさがさ騒ぎ出していた。 先ほどより少し池に浮かぶ紅葉が増したような気がした。


 「——何科の生徒?」

 どこからともなくそんな声が聴こえた気がした。 辺りに目を配らしていると、「後ろ後ろ」とまた声が聴こえた。 言われたとおり後ろを振り向くと、先ほど出てきた第二棟校舎の二階窓辺から上体を預けている女生徒がこちらを見下ろしていた。

 この人だろうかと訝しんでいたが、周囲に眼をやっても、この女生徒以外見受けられなかった。 その女生徒だけがにこやかにこちらを見ている。

 「生物生産工学科」

 私はその問いかけに対し、少し遅れて気恥ずかしく応えた。

 「ああ、B科なんだ。 あたしはね、生活技術科——S科なんだ」

 女生徒がそう答えたとき、狙ったかのように錆び付いた予鈴が鳴りだした。

 「授業始まるよー」と女生徒の隣からクラスメイトが詰め寄り、私に気付いた友人はそそくさと会釈をした。

 会釈を返すと、「授業始まるってさ」と女生徒が復唱して私に告げ、いたずら好きの子供のような無邪気な笑みを見せては友人とともに窓の奥へとすっと消えていった。


 私が通う学校は農業専門の学校であるが、在校生の誰もが農業に興味があったり、将来農業で生計を立てようとは思うものはほとんどいなかった。

 家から近い距離で選んだ生徒や生家が農業に携わる生徒もなかにはいたようだが、それを除く生徒は、学校の圧倒的な偏差値の低さを理由に入学したものばかりだった。 小学生の頃から勉学を不出来としていた私もまた、同じ理由で入学試験を受けた。

 県内三位の敷地面積を有する学校——何もない田畑を均して建てただけ——には六つの専門学科があるが、私が専攻する生物生産工学科という科は主に茸の菌糸を研究する不思議なところだった。

 「B科」とはバイオテクノロジーの頭文字、「S科」は生活技術科の頭文字をそのまま略称した隠語だった。


 第一棟校舎の裏門を抜けると体育館、柔剣道場までの外廊下があり、その中間に「来賓館」という名の食堂があった。

 縦幅のある食堂奥——、一学年の駐輪場を背中にかけそばを食べていると後ろから肩を叩かれた。 箸を止めて振り向くと間中が立っていた。 

 「この後、ちょっといいか?」

 顎髭を擦る癖のある間中が言いたいとする内容がいまいち掴めなかったが、無言で首肯した。

 間中は裏手のガラス戸から出て行った。

 食堂には二カ所出入り口があり、外廊下から出入りする扉と間中が出て行った反対側の奥のガラス戸があり、そこを抜けると一学年駐輪場へと繋がる。

 食堂に隣接する柔剣道場の外壁には弓道部が練習用に使用する巻き藁が据えられ、外へ出ると、藁の湿った独特の香りが鼻についた。

 間中はそこでじっと巻き藁を見つめていた。 実際は目線をそこに捉えているだけで頭の中は別のことを考えていたかもしれない。


 間中は私の知る学内の友人中、一番と言うほど他学科の生徒との交流の幅が広かった。

 学業を介して他学科との親好が皆無だった生物生産工学科——B科において、彼は稀な生徒であり、間中という人間の特色でもあった。 軽音楽部のベース担当で、洋楽のロック系統を中心に演奏する。

 ベースはグループ内の音の竜骨と聞いた覚えがあるし、見られるのが恥ずかしいからとも聞いた覚えがあった。 前者をベースという楽器を尊重しているのだと解釈し、後者を間中という人間の内面を表しているだと解釈し、そんな彼に私は好感を持った。


 砂利の音で間中はこちらに気付いてびくっと振り返った。

 「悪いな、飯時にさ」

 にやりと不器用にはにかんだ表情を見せた。 なんともないと返すと、そっかと後ろ髪を雑に掻きだした。

 間中は握り拳から親指を突き出し、食堂からさらに裏手にある、「小さな森」を指した。 私はそのとき間中が言わんとすることがやっと理解でき、無言で頷いては、辺りを見渡した後、小さな森に向かって歩き出す彼の背中を私は追った。


 「小さな森」とは呼んでいるものの、実際は校内の敷地になにかの意図があって植えられたであろう針葉樹の密林を私と間中はそう呼称していたにすぎなかった。 森と呼ぶだけあって、そこは思惑が不明確と思うほど無尽蔵に植樹され、半ば外界から隔絶されていた。 外から奥を覗くは疎か、森のうちから外を覗くことが困難を極めるほどで、初めて校内の敷地を踏み入る者たちは、一瞥するだけで過ぎ去る、さながら結界のような場所だった。

 小さな森の中には誰がいつ使うのか明確でない謎の倉庫があり、その倉庫前は密かに間中が煙草を嗜む秘密の場所と化していた。

 私は煙草を吸うことはなかったので、実情間中の独擅場だった。

 風下に流れる煙をそれとなく意識しながら、私は間中から告げられるなにかに期待していた。

 半分ほど煙草が消えて灰にすり替わった時、ようやく間中は薄い瞼と口をやおら開けた。

 「——野面のもせ明日香って子、知ってるか? 俺らのクラスの隣なんだけど」


 私は農業クラブならぬ不可思議な所属団体の副会長の席に着いていた。 管轄内容は農業学校の各種行事運営が常だったが、いつしか生徒会、家庭クラブならぬ所属団体と三位一体協力し合い学内を取り締まっていた。 今でもあの団体の存在理由をうまく説明できない。

 そんな私は、もちろん生徒一人ひとりの名前を把握している訳も無く、間中の問いかけに対しても、判らないと正直に答えた。


 「ん、おっかしいなあ。 あっちはお前のこと知っているって言うし、お前とも話したって言ってるぞ?」

 間中は顎髭をさすりながら意味ありげに答えた。

 「そう言われてもなあ。 隣は生活技術科だろう? あのクラスは女子ばかりであまり長々と見ていると不審がられてとても見れたものじゃないからな。 それにそこまで交友もないし」

 私はそう返答に窮しながら答え、ズボンに手を突っ込み、中に入った目薬の蓋を開閉しながらあることを考えていた。

 思い当たる節がひとつある。 先ほどの二階から話しかけていた女生徒だ。

 そういえばいつの日か、誰かが間中が言うその名前を女生徒に投げかけていたのをふと思い出した。

 「農ク副会長なのにか?」

 「それは関係ないだろう」 私は鼻で笑った。 「そこまで生徒全体に目を配っている訳じゃない。 そんなの無意味だろう? あれはただ単に割り当てられた席だよ。 それにS科のことなら家庭クラブの領分だよ。 あのクラブは仕組みがよく判らないけど、役員全員が生活技術科なんだから」


 間中は残り少ない煙草を大切に吸っていた。

 「よくわかんねえなあ」

 白い煙を上空に吐き、煙草を地面に擦り付けた。 火が消えたことを確認した後、森の奥深くへと豪快に投擲した。

 「それで、えっと……その人がどうかした?」

 「野面のもせ明日香だよ。 その野面のもせがお前に話があるとさ」

 手に付いた煙草の残香を嗅いだ間中は、こりゃ匂うなあ、と額にしわをよせながら呟いていた。

 少し困惑している私の心情をよそに、日程は間中が調整する手筈となった。 私たちは昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るや否や第一棟校舎三階のクラスに引き返した。

 三階の廊下は外と同じでひんやりとし、白い息が吐けるほど寒々としていた。

 「外とあんまり変わんねえじゃねえか」 隣を歩く間中が心中の思いを吐露するようにぼやいて、私は笑った。

 

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