五
八月になり、大学はやや長い夏休みに入った。そんなある日の夕方、和之は久々に獣道を通り抜けている。
試験期間の終わり頃から今日まで、なかなか森を訪ねる機会に恵まれずにいた。あまり雨が降らなかったということでもあれば、仮に降っていても夜で実家にいたということもある。別に雨の日でなければ行ってはいけないという決まりはなかったが、なんとなく他の天気の時に行こうという気にはなれず、ずるずると毎日を過ごしていた。
そして今日、大学における夏期特別講義の三日目が終わり、年中おおむね開きっぱなしになっているサークルの部屋で涼もうとしたところで、雨が降りだしたのを見て、久々に森に行こうという気になった。
前回の訪問からかなり間が空いたせいもあってか、和之は自身がやや焦れているのを理解しており、ぬかるんだ地面の上を注意を払いつつも、自然と足早になる。その度に、道の狭さや足場の不安定さにもどかしさを覚えた。
もう少し体が小さければ、走れてたかもしれないな。ぼんやりとそんなことを思う。更に欲を言えば、地面も渇いていて欲しいところだったが、雨の日である以上、望むべくもない。
ふと、小学生の頃を思い出す。近所の神社。その裏に広がっていた森。マムシ注意なんて看板が立てられている茂みの中を、探検だとか、秘密基地に行くぞ、なんて近所の友人たちとともに走り抜けていた。諸々の面倒事がもっと単純で、楽しかったり、腹がたったり、泣きたくなったり、とその場で発散させつつもさほど引きずらなかった、そんな時代。
子供たちの集団の先頭には、決まって椎子がいた。声が大きく元気で、だいたいは楽しそうに笑っている。どちらかといえば後ろから見ていたことが多かった和之は、そんな印象を持っていた。そんな風なものだから、室内で過ごしたがる和之を外に誘拐するように引きずっていくのも、椎子の役割だった。
お日様を浴びないと、ずっとひょろひょろのままだよ。ほら、遊びに行こ。白い歯をちらりとのぞかせて笑う少女を、少々鬱陶しく感じる一方、こうして遊びに誘われるのが嬉しくもあったので、最終的には折れて、手を引かれて外に出た。そんな風だから、なんとなく子供の頃の椎子は夏の日を背負っているような印象がくっついていた。
そんなことを考えている内に、視界が開け、件の木が現れる。その前には、見慣れない男性とおぼしき人物が、傘も差さずに座りこんでいる。黒いタンクトップと短パンを履いているその人物の年齢はよくわからないものの、なんとはなしに和之と同年代くらいなのではないのかと思えた。
知らない人間がいるのにも既に慣れはじめていたのもあり、いつも通り邪魔しないようにと注意を払いながら目的地に向かおうとする。その寸前、男性が両手になにかを持つようにしてごそごそとしているのが見えた。なにをしているのか、和之の立っている位置からは窺うことはできない。
自然と興味が湧く。いつもであれば、無視するところだが、大抵は実を見つめているここを訪れていた人物たちとは異なる行動をしている男らしき後ろ姿は、どうにも気になって仕方がない。覗くのは趣味が悪いという良識と、別にこの木の傍にいるのに規則なんてないだろうという考えの二つを天秤にかける。その間も、和之自身は足音を殺しつつじりじりと距離を詰めているため、もう既に天秤がどちらに傾いたのかははっきりしていた。考えている振りをしているうちに、件の人物の背後までたどり着き、直後に唖然とする。
その人物は和之と同じくらいの年齢のいかつい男で、がつがつと丸いものに喰らいついていた。その透明な皮と、その合間からちらりと窺える細いマッチ棒のような肌色の物体は、和之自身もよく知るものだった。
「何を、しているんですか」
とっさにそう尋ねる。男はどことなく億劫そうに和之の方を振り向いた。その口の周りは赤黒く染まっている。
「飯を食っている」
不思議そうに答える男を見ながら、違うそうじゃない、と思いつつも、
「実の中にあるものをよく見ましたか」
できるだけ感情をこめないように心がけつつ、聞いてみるが、男はますます首を捻った。しかし、なにかに思い当たったように、そういうことか、と納得したように言う。
「たしかに人っぽいのが入ってるな。しかも、とっくにくたばったいけ好かない女の形をしてやがる。けど、それがどうしたんだ」
「どうしたって、だって」
「実は実だろう。そりゃ、ちょっとばかし気持ち悪かったが、食ってみたら案外いけるぞ。なんなら、ちょっと味見してみるか」
ほれ、おすそ分けだ。どことなく楽しそうに告げて、手にしていた実を差しだしてくる。そこには半分ほど齧られた果実の外皮と、下半身がなくなった少女の形をしたものがあった。
「けっこうです」
目を逸らしながら、吐き気を覚える。対して男は、案外繊細なんだなあんた、などと気楽げに告げたあと、再び食事に戻ったらしく、咀嚼音が聞こえはじめた。こころなしか、雨が弱めなせいか、その音はより生々しく耳に入りこんでくる。すぐにでもこの場を立ち去りたかったが、言い残していたことに気が付き、覚悟を決めて男の背中を見つめた。
「お願いがあります」
程なくして振り向いた男は食事を止め、なんだよ藪から棒に、と応じる。実の中にある人の形をしたものは既に胸の辺りまで食われていて、噛み痕からは内臓らしきものがところどころ垂れこぼれだしている。一刻も早く目を逸らしたかったが、それでは和之自身の意思が伝わらない気がして、なんとか耐えようとした。
「あなたが食べた実は、それ一つだけですか」
「ああ、そうだが。それがどうした」
何を当たり前のことをいう風な男の答えを耳にして、ほっと胸を撫で下ろす。
「だったら、この木の実を食べるのはそれ一個だけにしてもらえませんか」
言いながら、和之は既に断わられたあとのことを考えはじめている。仮に、男が食欲だけで動いているとしたら、頷く可能性は低い。そもそもからして、この実一つ一つは誰のものでもなく、男が和之の言をわざわざ受けいれる理由もないのだから。
「俺、まだまだ腹減ってるんだけどな」
案の定、男の反応は芳しくない。和之は「そこをなんとか」と口にしつつも、最終的には椎子の形をしたものだけでも食べられないようにするべく、頭を回転させる。
その直後、男が少女の形をしたものの右腕を食いちぎり、考えるようにゆっくり顎を動かしたあと、急にカラカラと笑いだした。
「そんな顔するなよ。冗談だって。てか、食いたくても食えないんだけどな」
その謎めいた答えに和之は困惑する。男は食べ残しを片方の手に持ってから立ち上がると、新たな実へと空いてる方の手を伸ばしてみせる。中年男性とおぼしき形をしたものが入った実を掴もうとする大きな掌を見て、和之はとっさに止めようとするが、声を出す前に手は実に触れた。触れたはずだった。
「ほら、見ての通りだ」
言いながら、男は伸ばした掌を閉じたり開いたりしてみせるが、一向に実を掴めないでいる。わけがわからず呆然とする和之を、男は目線で実が生った枝の方へと促す。その動作にしたがって、おそるおそる手を伸ばしてみるが、実の辺りを触ってみても手ごたえがない。まるで、そこに最初からなにもないようだった。
「お前、ここに来るようになってから、どれくらいだ」
「たしか、二ヶ月くらいだったかと」
和之の答えに、男は呆れ顔をする。
「それだけ経ってるのに、たしかめようとしなかったのか。適当に枝に手を伸ばしてみれば、自分の知り合いが入った実以外触れられないことくらい、簡単に気付くだろうに」
新たに教えられた事実に和之は小さな驚きを覚えつつも、それなりにここにやってきているのに、まだまだ知らないことだらけなのだと思い知らされる。ここまで無知でいたのは、椎子の形をした実以外に特に興味がなかったからというのもあるだろうが、一番は和之が実自体に触れようとしなかったからにほかならない。稀に、ちぎってしまおうという思いつきこそ起こしたものの、手にした際に中身が無事であるかどうかはっきりしないという気持ちが勝り、触ることすら避けていた。この木や実について知りたくなかったかといえば嘘になるが、現状にもそれなりに満足はしていたので、必要以上に求めることはしなかったし、今もまた、椎子の形をしたものが無事であれば特に言うこともない。
黙りこむ和之を見ながら男は、どうでもいいけどさ、と呟いたあと、荒々しく実にかぶりつく。胸と残っていた腕の部分が無くなると同時に、首がぽろりとこぼれた。あっという間に、少女の顔面の形をしたものは泥にぼとりと落ちる。
「汚ねぇな」
男は舌打ちをしたあと、すぐさま首を拾いあげ、空へと放り投げる。泥が付着した丸いものが難なく口の中に落ちると同時に、唇ががっちりと閉じられた。その直後、ゆっくりと骨を砕いていくような音が和之の耳にこびりつくように響く。吐き気をもよおしそうな光景であったが、不思議と目が逸らせない。
なんで、この人は平気で知り合いの形をしたものを食べられるんだろうか。その時点で和之には理解できない行動だった。いくら自らに言い聞かせたところで、かつての知り合いの形をしているのはたしかなのだから、今の和之のように気持ち悪くなりそうなものである。しかも、先程男自身が説明した通り、自分の知り合いの形をしたものが入った実にしか触れないのであれば、おそらく実を食べたのは男にしてもはじめてのはずだった。もしかしたら、ここには多数の知り合いの実が生っていて、男は多くの人の形をしたものをばりばりと食べている可能性もあったが、いずれにしても理解に苦しむのは変わりがなかった。
「なんで、実を食べようと思ったんですか」
男がげっぷをしたのを見はからって、そう尋ねる。ここに来てからの男の言をまとめるのであれば、ただ単に腹が減っていた、という説明になってしまうのかもしれなかったが、あまりそれは信じたくなかった。
「腹が減ってたら、食うだろ、そりゃ」
男は一端その信じられない理屈を口にしてから、それが半分くらい、と告げ、
「今食い終わった女は、しょっちゅう俺をぶん殴ってきたし、口も無茶苦茶悪かったし、色々と面倒なやつだったが、それでも、早く死ねとまでは思ってなかった。俺は偶然そいつの姿を映したものを目にする機会に恵まれはしたが、その度に本人はとっくに死んでいるってことを思い出す。思い出すたびにしんどくなって、ここに来たり来なくなったりを何度も繰りかえしてから、だったら、いっそ自分でぶち壊しちまおうかなって思って、色々考えた末に出した結論が」
「食べることだったと」
「まだ、話の途中なんだから口を挟むなよ。まあ、だいたいそんなとこだ。こんな実、ずっと見てても、時間の無駄だしな」
吐き捨てるような男の口ぶりは、時間の無駄、という言葉とは異なり、歯切れの悪さを感じさせる。
詳しいことはわからないけど、とにかく色々あったんだろう。他人の事情にあまり踏みこみたくなかった和之は、曖昧な事情を曖昧なまま呑みこもうとしつつも、実のところこの男の感性をちっとも理解できずにいる。ぶち壊してしまおうという発想自体は、他人事ではあるものの、なんとなくそういう考えになるのもわからなくはない。しかし、それが、食べる、というところに飛躍すると、途端に理解がおよばなくなる。そこには和之の知らない、色々、がかかわっているのかもしれなかったが、ある程度思い入れがあるのならば、尚更、そんなことはできないのではないか。
ともかく、理解はできないものの、椎子が入った実が食われることはなさそうだ。釈然としない心地ではあったものの、他人の考えと割り切ろうと努めながら、ようやくほっと胸を撫で下ろす。それと同時に、自分はいつまでここに足を運ぶのだろう、という疑問が浮かぶ。そこに実があれば、できうるかぎり。今の気持ちとしてはそんなところではあったものの、これからも延々と同じことを続けていくとなれば。
「まあ、あんたも悔いがないようにな」
どことなく満足したように告げたあと、踵を返して木の元から去っていく男の後ろ姿を見守りながら、しばらくの間、ぼんやりと立ち尽くす。そうしてから、とにかく椎子の顔を見たいと思い、それ以外は何も考えないようにして、歩きだした。
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