いつの間にか七月になり、大学も試験期間に突入しつつあった。和之もまたその波に呑まれ、レポートや小テストなどをこなしては、先日入会したばかりのサークルに足を運ぶという生活を送っていた。


 目が回るという言い方をすれば少々大袈裟ではあったものの、なんらかの大きな力に振り回されているような感覚は、しんどくもあり、どこか心地良くもあった。そんなある日の昼。


「君って、たまに付き合い悪くなるよね」


 大学から少し離れたところにあるファミレス内、対面に座る明石がそんなことを口にした。つい数秒前まで今日提出したレポートが通るか通らないかについてああだこうだ言い合っていた中、唐突に放たれた一言に、和之は少しの間、どう反応するべきか迷ってから、


「そんなことないと思うけど」

「そんなことあるよ」


 明石は間髪入れずに言い返し、口を尖らせる。少々幼げな顔立ちをますます際立たせる女の友人を目にしながら、和之は心当たりを探すものの、やはりなにかの間違いではないのかと思う。その旨をつたえると、女は手元にあるメロンソーダを一口吸い上げて、


「ここのところ、何の用事かも言わずにいなくなる時があるでしょ。バイトしてないからいつでも暇だよとか言ってた癖に」


 不満げに告げてから、コップの隣に置いてあった、明日試験予定の講義でとっていたとおぼしきノートをうちわ代わりにする。その際、半袖の白いTシャツと首の間にできる隙間がちらりと見えた。和之はそこからすっと目を逸らしてから、ああそのことか、とようやく納得する。


「って、言ってもそれで断わったのって、二三回くらいだと思ったんだけど」

「五回くらいだよ。しかも、いっつも決まって急用を思い出した、とか言っていなくなるし」


 明石の指摘に、そんなにあそこに行っていたのか、と我がことながら驚きつつ、ごめん、と口にする。


「それはなにを謝ってるわけ」

「いや、なんとなく」


 答えたあと、遊ぶ時間が減ってしまったことや回数を間違ったことかな、と思う。しかし、それを続けて口にする前に、明石が、なんとなくで謝ってほしくないんだけど、と眉を顰めたため、その意見を呑みこんでしまい、ただただ、ごめん、という言葉がこぼれだし、しまったと思う。女は、そういうのだよ、と苦笑いを浮かべてから、メロンソーダを思い切り吸いあげた。


 それから程なくして、和之は、思いついたばかりの謝罪の中身について話したが、女の反応は芳しくない。どうすれば機嫌が直るだろうか、と手元のアイスコーヒーに口をつけたところで、


「急用ってなにさ」


 直接、問いかけられた。さあ、どう言えばいいんだろう、と和之は考える。一番てっとり早いのは、急用、のために足を運んでいる場所に明石を連れて行くということだろうが、そうなると色々ややこしいことになるのは目に見えていた。仮にあの木の前に連れて行ったとして、明石がどんな反応をするのか想像がつかない。なんとはなしに受けいれて大人しくしてくれればいいが、実とその中身を見て、鬱陶しいくらいに騒ぐかもしれなければ、死ぬほど気持ち悪がるかもしれない。仮にそう言った生理的な部分に問題がなくとも、その次には実についての詳しい説明を求められるだろう。付き合いが長いわけではないため、絶対とは言い切れないものの、和之が知っている明石の性格からすれば、根掘り葉掘り尋ねてこようとするはずで、そうなれば実の中にいる人物についてもある程度語らなくてはならなくなる。和之にはそれが面倒で仕方がなく、


「あんまり言いたくないんだけど」


 少し考えてから和之は自らの気持ちの一端をほぼそのまま言葉にすることにした。明石は子供のように頬を膨らまし、じろりと睨みつけてくる。


「なにか後ろめたいことでもあるわけ」

「あるっちゃあるかな。それも含めてあんまり言いたくない」


 面倒くさいからさ。そんな奥に込めた本音だけを口にしないまま、なんとか押しきろうとする。明石はしばらく子供のような膨れ面を浮かべていたが、やがて小さな溜め息を吐いた。


「しょうがないなぁ」


 そう言ったあと、傍を通った若い男のウェイターを呼び、パンケーキを追加注文した。男性店員が確認作業を行ってから立ち去ったのを見届けた明石は、誰でも秘密の一つや二つはあるだろうしね、などと得意げに口にし、


「でも、どうしようもなくなったら相談して。友達の力にはなりたいからさ」

 

 ニカッと笑う。力強い表情に、和之は、ああ、と曖昧に応じながら、いいやつだなこいつ、と思った。その一方で、たぶん相談しないだろうな、と半ば決めつけていたのもあって、まだそういう状況になっていないにもかかわらず、明石に対して、悪いな、と心の中でぼそりと呟く。


 明石はすっきりしたようで、明後日のドイツ語の小テスト、全然覚えられてないんだけど、とさほど困っていない風に愚痴る。それに和之は、こつこつやってればなんとかなるだろう、と面白味のない答えを返してから窓の外を見て、目を見張った。


 いつの間にか、曇り空からはぽつりぽつりと雨粒が落ちはじめている。


 /


 まるでこの前、心理学の講義で触れたばかりのなんちゃらの犬みたいだと思いつつ、のろのろと木々の間を歩いていく。幸い今回は明日にやや大掛かりな試験が控えていて、一人で集中して試験勉強がしたい、という言い訳ができたため、何回か使った、急用がある、という物言いをしなくて済んだ。明石の方も多少話し足りなさそうだったものの、最終的には、そういうことなら、と引き下がってくれた。

 

 明石ともう少し話してた方が楽しかったのではないか。そんな風な気持ちがなくもない。なにせ、あの木の前に立って、実の中身をじっと見つめていたところで、面白くもなんともないし、特に得るものもない、と和之は思っている。しかしここのところ、雨が降る度、足を運ばなくてはならないという強い感情が押し寄せてきた。


 そんなに俺は椎子のことを気にしているんだろうか。考えてから、むしろそれ以外になにがあると自らに対して突っこみをいれる。少なくとも、もう既に振り切った過去だという以前の和之自身が持っていた認識は古いと言わざるを得ず、思いのほか気にかけていた、あるいは思い出したあとにまた気になりだした、と見るべきだろう。


 ぐだぐだと考えている内に、目の前の景色が開けた。慣れてきたせいか、こころなしか以前よりも早く森の奥へとたどり着いた気がする。木の前には、最初にここにやってきた時にいた少女の後ろ姿があった。夏用とおぼしきカッターシャツのやや透けるような色合いとその上で僅かに揺れているように見えるくくられた長い髪の先から垂れる水滴を一瞥したあと、すぐさま自らの定位置へと歩きだす。


「こんにちは」


 既に視界から外れていたものの、雨音の隙間から聞こえてくる低い声音は、紛れもなく少女から発せられたものであるとわかる。


「こんにちは」


 事務的に挨拶を返しつつも、和之は目的地へと向かう足を止めない。最初の時を除いたこの場所での数度の邂逅と同じく、それ以上の会話へと繋がることもなく、気配もついてこなかった。自分のことで精一杯なのか、あるいは他人に対してさほど興味がないのか。なんとなく、自らと同じだとすれば後者だろうと思ったあと、椎子の形をしたものが入っている実の前に辿りつき、足を止める。


 できるだけ近付いてみるが、幼なじみの少女を象ったものは、やはり記憶の中にある人物とまったく同じ形をしていて、毎度のことながら不思議だった。既に新鮮さこそ薄くなったものの、かつて当たり前だった空気がこの場に戻ってきたよう気すらして、自然と自らの口元がほころぶのをおさえきれない。とはいえ、かつてとははっきりと異なっていることもあり、椎子の形をしたものは目を瞑ったままであるし、喋りだしたりもしなかった。ただでさえうるさかった幼なじみだっただけに、その部分だけは惜しかったものの、いる、というだけで、何かが元に戻ったような安心感がある。


 今日あったことでも話してやろうか。何日か前にサラリーマン男性が駄菓子屋のおばちゃんの形をしたものに会社での愚痴を漏らしていたのを思い出し、そんなことを考えるが、後からやってきた誰かに見られた場合になんとなく恥ずかしくなりそうだったのでやめる。その上、話しかけても反応を返さないものに語りかけること自体が、おかしい人間のやることのように思えて、気が引けた。もっとも、こんなところに足繁く通う時点で、既におかしくなりかけているのかもしれなかったが。


 実の中にいるものは、生きているんだろうか。仮に生きているとしてこちら側を認識しているのだろうか。認識しているとして、こちらのことがどのように見えているのだろうか。無言でいる内に頭の中ではそんな考えの数々が駆け巡ったものの、どれもこれも和之側からは確かめがたい事柄だった。


 さしあたっては膜の前で手を振ってみたり、先程までやろうとしてなかった会話などを小声でしようとしてみたが、やはり椎子の形をしたものは微動だにせず、この日もまたいたずらに時は過ぎ去っていく。その際、いっそ実をちぎってみたらどうなるだろうという思い付きを起こしたものの、木との繋がりが無くなった際に中身が無事であるかどうかがわからなかったため、試してみようという気にもならなかった。

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