それから一週間ほど、和之は森の奥にあるあの木まで足を運ばなかった。


 椎子の形をしたもののことを忘れたというわけではなかったが、前回、かなりの時間凝視していたのもあって、さしあたっては見に行かなくてもいいか、という思いがあった。もしも、透明な膜の中にあるものがなんらかの動きを見せでもしたら、また違った感想を持ったかもしれないが、実際はぴくりともせずにその場にあっただけである。言ってしまえば、忠実に再現された椎子の人形が丸いものの中にあるというだけに過ぎない。似たようなものを見るという意味ならば、生前の写真を見るだけでも事足りる。


 また、和之自身がまだ大学一年目だったというのもあって、それほど現在の生活に適応していなかったというのも大きい。頭の片隅には森の奥にある木に対して、なんだったんだろうなあれ、くらいのぼんやりとした思いはあれど、実家から大学まで電車に揺られたり、ようやく勝手がわかりはじめた講義を受けたり、できたばかりの学友と食事をしたり、その学友が入ってる文芸系サークルに誘われたりといった日々の忙しいようなそうでないような感じに流されがちだった。


 だから、一週間後に足を運ぶことになったのは、ちょうど時間に空きができたからにほかならない。端的に言えばその日もまた雨空が広がり、講義はまた休みだったということだ。


 さてどうしようかと考えてから、森のことが頭に浮かんだ。先週と違い、行けば大抵は空いているサークル専用の部屋に遊びに行くという手もあったが、そちらはどうせ明日も明後日も行くだろうと思い、せっかくだし、物珍しい方にしてみようという気になった。


 そして一週間前とほぼ同じ道順を少しだけへとへとになりながら歩いた末に、和之は例の透明な実を生やした木がほぼ変わらずそこにあるのを見出した。違いはといえば、その手前にビニール傘を差したサラリーマン風の男性が立っていることくらいだろうか。


 そりゃ、こんなに実が生ってるんだから、ここにやってくるのは一人や二人ではないか。今更、そんなことに気付いた和之は、実の中をじっと見ているであろう男性の後ろ姿を遠巻きに眺めながら、音を立てないように注意を払って傘を差し、椎子の形をしたもののところへと向かおうとした。


「やあ、こんにちは」


 しかし、歩きだす前に男性の方から声をかけてきたため、反射的に足を止める。一瞬、気付かない振りを決め込もうかと考えかけたが、それはそれで感じが悪いような気がして、動けなくなった。そうこうしているうちに男が振り返る。その顔は笑ってこそいたものの、どことなく疲れが見えた。


 仕方なく、会釈すると、男は空いてる手でおいでおいでしてくる。相手や態度は違えど先週もこんな感じのことがあったなとややうんざりしつつ歩み寄ると、あの少女と同様に透明な実を指し示された。覗きこんでみれば、実の中にいるのは白髪混じりの中年女性だった。男とはあまり似ていないところからするに、親戚ではなさそうだなという印象を抱く。


「君もいなくなった誰かに会いにここまで来ているんだろう。差しつかえなければ教えてくれないかな」


 物怖じもせずに切りこんでくる男性に、話したくないなと思いつつも、直接そう答えるのはためらわれたため、口を開く。


「幼なじみです」


 言ってから、ちょっとした腐れ縁です、とでもごまかしておけば良かったかもしれないと思う。それだけ、この言葉はどことなくこそばゆかった。


「男の子、それとも女の子」

「女、です」


 既にあまり口を開きたくなくなっていたが、一度話しはじめてしまった手前、いきなりやめるのはためらわれ、素直に答える。男性は、おお、と楽しげに声をあげた。


「女の子の幼なじみっていうのは羨ましいな。僕はいたことないし。ひょっとすると好きな子だったりしたの」

「そういうのじゃないです」


 投げやりに口にしながら、面倒くさくなってくる。まるでたまに会う親戚みたいな馴れ馴れしさだと辟易し、さっさと話を切りあげるにはどうしたらいいかと考える。男性は、そうかそうか、と一人納得するような素振りをみせてから、再び背を向けた。解放されるのか、と安堵しかけたのも束の間、


「僕が会いに来ているのは、昔通っていた駄菓子屋のおばちゃんでね」


 唐突に話しはじめた。その話し方から長くなりそうだと察しつつも、堰を切られたみたいに口を動かす男性を止められはせず、


 *


 その駄菓子屋には、小学生の頃通っていたサッカークラブの帰りによく行っていたんだ。寄るのはクラブが終わった後で、その時はだいたいくたくたになっていたから、甘いものは沁みるくらいおいしかったし、しょっぱいものにもよく手が伸びていたよ。アイスや炭酸飲料、ちっちゃなカップ麺。その他にも色々。毎回、少ない小遣いをどう使うかを悩みながら、これだと決めてレジに持っていく。その時、迎えてくれたのが、このおばちゃんだった。口調が荒っぽくて、小心者の僕は会計の度にびくびくしていたけど、ある日、毎度あり、の一言を口にする時に元々ひん曲がっていた口の端を弛めているのがわかって、段々、その仕種を見るたびにほっとするようになって、なんでかちょっとだけ楽しくなったんだ。そうなったあとは、あまり怖くなくなったからかな。おばちゃんが暇そうな時だけではあるけど、雑談をしたりもするようになった。もしかしたら、おばちゃんと話してる時の方が駄菓子を食べている時よりも満たされていたかもしれないね。ここまではいい思い出。


 さっき、小学生の頃って言ったけど、僕がサッカークラブに通っていたのは三年くらいでね。高学年になる前に、辞めてしまったんだよ。元々、考えもなしに走り回るだけで特に上手くもなかったし、頭も悪かったからコーチや他のクラブの連中の言っていることもあまり理解できなかった。特に最後の方なんかは酷くてさ。他の人たちが当たり前のようにこなしていることもできず、わけもわからずに走り回っては同じクラブの連中にくすくす笑われたり、後ろからボールを思い切りぶつけられたりした。そんなだから途中からクラブには行かなくなって、公園へ足を運ぶのも避けるようになった。当然、そうなると駄菓子屋に行く機会もなくなる。クラブの後の小腹を埋めるためという名目で渡されていたお小遣いもなくなったから、そちらに割くお金が無くなったというのもあるけど、とにかくそれから駄菓子屋には行かなくなった。最初はクラブに行けなくなった僕の弱さへの自己嫌悪だとか、おばちゃんと話せなくなった寂しさだとかもあったけど、時間を置けば置くほど、段々と気にならなくなって、いつしか思い出すこともなくなった。


 それから何年も公園の辺りを避けたまま月日だけが流れて、高校生くらいになった時かな。たまたま用事で公園の近くに行かなきゃいけなくなった時があって、そう言えばと駄菓子屋のことを思い出して、久しぶりに覗いてみようって気になった。公園内に代替わりしたサッカークラブの連中がいなかったのを確認してちょっとだけ気が楽になったのもあって、このいい気分のままでおばちゃんの顔を見たいと思ったんだ。

 

 おばちゃんは覚えいてくれてるかな、なんて淡い期待を寄せていざ行ってみると、以前よりも少し寂れた駄菓子屋のレジには、顔を知らない中年の男の人が腰かけていた。今日はいないのかななんて軽く考えながら、レジにラムネを持っていって、会計が終わったあとにおばちゃんについて尋ねてみたんだ。そしたら、そのレジにいた男の人が寂しそうな顔をしたあと、自分はそのおばちゃんの息子だと名乗ってから、おばちゃんが数年前に……


 /


「後はお察しの通りさ。人間なんて少し見ないうちにどうなっているのか、わからないものだよ」


 そう自嘲気味に口にして、男性は息を吐き出す。特に興味のないうえ反応に困る類の話に和之は、そうですか、と曖昧に相槌を打ちつつ、そろそろ椎子の形をしたものの前に行けるかな、と考える。


「だから、今年転勤してきて、この木の前まで来られるようになったのは本当に良かったって思ってる。なにしろ、おばちゃんにまた会えるようになったんだからね」


 気持ち悪いくらいに優しい声音は、心から満足しているようにもそう自らに言い聞かせているようにともとれた。和之は、良かったですね、と気のない相槌を打ったあと、この場を辞すための言葉を紡ぐべく口を開こうとする。


「君も幼なじみの女の子にまた会えるようになって嬉しいだろう」


 さも当たり前だという風になされた問いかけ。それに対して和之は口を詰まらせる。別段、悩むようなことではないはずなのにもかかわらず、嬉しい、という一言を発するのがためらわれた。和之のそんな反応などおかまいなしに、男性は、そうだろそうだろ、などと一人納得している。


「その清く正しい心が、君を森の奥へと誘ったのさ。幼なじみの女の子に対しての果たせなかった思いを叶えるためにね。言ってしまえば、きっとご褒美なんだよ」


 そこまで口して満足げに何度も頷く男の言葉の大半は、和之には悪い冗談にしか聞こえなかったが、ただ一点、果たせなかった思いを叶えるため、という点には興味を惹かれなくもなかった。不思議な現象にあるかどうかもわからない理屈を見出そうとするのは不毛にも思えたが、何の足がかりもない状態よりは、気が休まりそうなのもたしかである。


 椎子相手に果たせなかったこと。付き合いもそれなりに長かったゆえに、五百円を貸したままだったとか、いなくった日の三日後にお互いの家族同士で寿司を食べに行く予定だったとか、そういった取るに足らない話だったらいくつかあったが、どれもこれもしてもしなくても、たいしたことのようにも思えない。もちろん、いなくなったあとに、もう少し話したかったことや聞きたかったことがなかったというわけではない。しかし、仮に話す機会に恵まれたとしても、生前と同じようにどうでもいい話に終始する気がした。あるいは、そういうどうでもいい感情がたまりにたまった末に、この場へと誘われたのだろうか。


 そんな風に和之がまとまらない思考を巡らせている間も、男性は思い出したかのように駄菓子屋のおばちゃんとの間にあった出来事を話している。相変わらず特に興味の湧かない話を右から左へと聞き流し続けている間も、和之は果たせなかったこととやらについて考え続けたが、疑問は解けることはなく、それは何時間かあとにようやく椎子の形をしたものの前に足を運べたあとも変わりなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る