二
それからどれだけ時間が経っただろうか。不意に和之の体に降りかかっていた雨が止まる。
「風邪、引きますよ」
椎子か。目の前にある姿かたちにしたがって、一瞬、そんな妄想をするが、既にいなくなってしまった少女はこんな低い声ではなかったはずだと思い、振り返る。
やはりというかなんというか、そこに黒い傘を差して立っていたのは見知らぬ少女だった。紺色のブレザーにチェックのスカートという姿からしておそらく学生だろう。あまり日の光を浴びていそうにない色合いの顔や後頭部で一本に結われた長い髪。女にしては高い背丈。節目がちで何を考えているのかよくわからない表情。どれもこれも椎子とは違っていて、勝手な期待を抱いたのは和之自身なのにもかかわらず少々落胆する。
「聞こえてますか」
再び、いなくなった少女とは違う声を耳にして我に返る。
「すまない、ぼうっとしてた。拾ってくれてありがとう」
「いえ。お礼を言われるほどのことじゃないです」
淡々とした声音とともに傘は和之に手渡され、今度は少女が雨ざらしになった。慌てて傘を差しかけようとしたところで、
「大丈夫です」
そう素っ気なく告げられる。
「けど、風邪を引くだろ」
「その時はその時。きっと、いつもより桃缶とかプリンがおいしく食べられます」
どこかずれた答えを耳にした和之は、じゃあ俺に傘を差したのは桃缶とかプリンを食べたくなさそうだったからなのか、などと思ったりした。しかし、わざわざ口に出すと、もっとへんてこな答えが返ってきそうな気がしたので、そうか、と口にするだけに留めた。そして、つい先程まで見ていた透き通った実に再び視線をやった。やはり中にはいなくなったはずの少女がいて、幻ではなかったことに安堵する。
「綺麗な人ですね」
和之と同じものを後ろから覗きみているのだろう。生きた少女の淡々とした言葉に、それほどじゃないと思うな、と応じる。実際、生前の椎子を綺麗と思った記憶はほとんどなく、せいぜい葬式に飾られた写真を見て、割と顔が整っているなと他人事じみた考えを起こした時くらいだった。
和之の答えに少女はさほど関心なさそうに、そうですか、と相槌を打つ。その後、立ち去る気配もなければ喋りだす様子もなく、背後からの視線は一向に消えない。たぶん、この透明な膜に覆われた椎子の形をしたものを見ているんだろう。そう認識しつつ、徐々にこの奇妙な状況を振り返る余裕が生まれる。
「これはなんなんだろう」
「なにとは」
よくわからないと言いたげな声に、
「この、人が入った実みたいなやつのこと」
目に入った特徴をそれっぽく言葉にしてみた。
「詳しいことは私にもわからないですけど」
少女はそう素っ気なく答えたあと、
「その人は、なにか不幸にあわれたあなたのお知り合いですよね」
確信しているように尋ねてくる。和之は、ああ、と応じたあと、なんでわかるの、とあらためて問い返そうとして振り向く。それに反応したかのように少女は手招きをしてから、そそくさと歩きだす。
なんとなく口を開く機会を逸し、釈然としない気持ちを抱えたまま後ろについていくこと数秒、別の垂れ下がった枝の前まで辿りつく。そこに生っているいくつかの透明な実のうちの一つを少女は指差した。和之が示されるままに少女の前に進み出て覗きこめば、そこには今そばにいる人物と瓜二つの顔立ちの人の形をしたものが膝を抱えた状態でおさまっている。違いといえば、裸なことと髪がくくられずに下ろされていることくらいだろうか。
「去年の冬、亡くなった妹です。少なくとも私の目にはそう見えています」
「双子だったのかい」
尋ねると少女はか細く「はい」と応じる。ここまで来れば、少女が見当をつけた理由を察することができる。
「これは亡くなった人間の形をしたものが入った実ってことでいいかな」
「少なくとも私はそう思ってます」
それ以上のことはよくわからないですけど。付け加える少女の声音を耳にして、和之はさしあたってはそういう不思議なものがあるという結論で満足することにした。もう少し追求すればいくつか新事実も出てくるかもしれなかったが、この実が実際にあるという以上のことには今のところ興味は湧かない。
程なくして少女が木の方へと一歩分の距離を詰めたらしく、雨に紛れてスニーカーとぬかるむ土がこすれる音がした。それきり黙りこんでしまったため、より地に降りそそぐ雫たちの気配がはっきりとしだす。
この少女はいったいどんな目で、妹の形をしたものをを見ているのか。そんなことを考えたあと、ぱっと振り返って背後を確かめたくもなったが、そんなことをするのはひどく無粋な気がして、わけもなく目の前にある透明な実の中身を覗きこんだ。仮にもし、目を瞑っているとしたら、鏡みたいだな。実を見ている最中、そんな妄想が頭に浮かんだ。
やがて、また椎子の形をしたもののところに行きたくなり、先程いたところまで歩きだす。その際、背後を見ないように細心の注意を払った。後ろにあった気配は付いて来ることはなく、ここから立ち去るまでの間、あらわれることはなかった。
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