六
「それはきっと、愛じゃないでしょうか」
薄桃色のブラウスを着た女性が唐突に口にした事柄に、和之はこっ恥ずかしさを覚える。
「ですよね。実は僕もそう思っていたんですよ。いやぁ、気が合うなぁ」
黒いこうもり傘を握り、女性の意見にでれでれしながら追随するサラリーマン風の男性を見て、果たして本当にそう思っていたのかと疑問を持つ。とはいえ、和之もその可能性について考えていなかったわけではなかったため、一概に否定はできなかった。
「そこの二人はどう思うかな」
男は楽しげな様子で、和之と背の高い女子高生に問いかけてくる。和之は、あの話をするべきではなかったかもしれないと思いつつ、聞かれた以上はそれらしい返事をしなくてはならない、という微かな義務感にかられる。
きっかけは、いつも通り椎子の形をしたものを見ていた和之に、どこか心細げな女性が赤い傘を片手に話しかけてきたことだった。散歩の途中に森の奥に迷いこんできたという女性は、例のごとくとある実の中に一月前に亡くなったかつての夫の姿を見出したらしく、これはいったいどういうことかと尋ねてきた。この件に関して和之は、説明されたことはあってもしたことはなかったのもあり、どう説明するべきかとやや戸惑いつつも、知っていることをできるだけ簡潔に口にしようと努めた。とは言っても、話せることといえば、この木にはいなくなった人間の形をしたものが入った実が生ることと、先日知ったばかりの自らの生前の知り合いの形をした実しか触れられないということくらいだったが。その途中、後からやってきたとおぼしき駄菓子屋のおばちゃんの形をしたものに会いに来ているサラリーマン風の男性と、引っ張られてきたとおぼしき双子の妹の形をしたものに会いに来ている女子高生が合流したのをきっかけに、なんとなく情報交換がてらに全員で話をする流れになった。その会話の流れで、和之はおおよそ一月前に目撃した、昔馴染みの女性を食べた男の話をしてしまった。そこから話題は広がったり転がったりしながら、なぜ実を食った男がその行為にいたったのかという部分に移り、今にいたる。
「あの人も実の中にいた人に対して思うところはあったと思いますけどそれが愛かと言われると、よくわからないです」
結局、和之は当たり障りのないことを口にし、結論を避けた。その背景には、言葉にできるような感情で男は動いたのだろうかという疑問が残っていたのと、あまり言語化したくないという気持ちがある。そもそも一口に愛と言ってもどのようなものかによって、随分と話が変わってくるという考えもあった。
「わかりません」
女子高生はつまらなさそうに答える。気乗りしていないのか、あるいは元からこういう顔なのかは、少女の表情をよく観察していない和之には判断しかねた。
「ノリが悪いなぁ、二人とも。言うだけならただなんだし、もう少しおじさんに付き合ってくれても良いじゃないか」
唇を尖らせる男性を隣にいる女性が、まあまあ、と取り成す。先程、ここにやってきたばかりの時、女性自身が漂わせていた心細そうな感じは既に薄くなっていた。
「私は思いつきをそのまま口にしてみただけですし、お二人にはお二人の考えがあるんでしょうから、無理に意見を言ってもらわなくても」
「そのお二人の考えとやらを言って欲しいものですね。もっとも、何度かその彼とおぼしき人物と会った感じ、おそらく、愛ということで正解だと思いますが」
どうやら、サラリーマン風の男性は、あの実を食った男と面識があったらしい。よくよく考えてみれば実を食った男性はそれなりの期間、この木に通っていたような口ぶりで話していたのだから、和之よりも長くここに通っているであろう何人かと会っていないというのは逆に不自然かもしれなかった。
「それこそ、会うたびに調子が違ったんですよ、彼。穏やかに実を見つめていることもあれば、睨みつけている時もある。げらげら笑いながら捲くし立てるように話しかけてくることもあれば、近付いてくるなっていう空気を出している時もあった。ただ、いつでも彼が言うところの、いけ好かない女性のことは気にしていました。そこら辺は、実の中身を見に来ている僕らとさして変わらないかもしれませんね」
同意を求めるような期待をこめた男性の視線を浴びた和之は、簡単に一括りにして欲しくないと思いつつも、事実、実の中身を気にかけ続けているのはたしかだったので、心の中で半ば頷いている。
「機嫌が良さそうな時は、とても楽しそうに女性の悪口を言っていて、逆に機嫌が悪そうな時は悪そうな時で、呪詛みたいなものをぶつぶつ延々と実にぶつけていました。最後に会った時は、後者だったように思えます。僕が見るに、あれは愛が膨らみすぎた結果なんじゃないかなと」
男は自らの独演に納得したように頷いている。そういうものだろうか、とやや疑いを持ちつつも、サラリーマン風の男性が見たという、実を食った男が抱えていたとおぼしき気分を、自らの経験に合わせて想像してみようとした。
椎子との口喧嘩してた時みたいな気持ちだろうか。ぱっと頭に浮かべたそれは、主に中学生に上がってから少女がいなくなるまでの間、続けられた営みの一つだった。当時、成長期によって身長が伸びていくのに合わせて気が大きくなっていった和之の中では、いつでも一緒にいようとする椎子を疎ましく思う気持ちが膨らんでいた。この頃、幼なじみの少女が普段の親しさをいいことにあれこれ細かいところまで口を挟んでこようとしたのもまた、和之の苛立ちに拍車をかけた。登校前に髪がわずかに跳ねていた時、弁当に入っていた嫌いな野菜を残そうとした時、昔馴染みの友人たちとの遊びの誘いを断ろうとした時。くだらない争いの火種はどこにでも転がっていて、和之自身も頭に血が昇りやすくなっていたのも手伝い、すぐに喧嘩になった。幼なじみの少女もやりとりのはじめのうちこそ穏やかではあったが、言葉の応酬を繰り返しているうちに熱くなっていき、次第に本気になっていった。最終的には誰かの仲裁が入るか、掴み合いになって我に返ったあたりでようやく終結を見る。そんなことが幾度ともなく繰り返された。おかげで、中学時代のかなりの時間、椎子との争いに費やすことになる。とはいえ、根っこから相手が嫌いになったというわけでもなく、なんだかんだそれなりに上手くやってもいた。それこそ喧嘩に熱中している間は、殺してやるという感情の一歩手前くらいまでいくこともあったが、幼なじみ同士、相手の心の機微みたいなものもなんとなくつかんでいたため、気分がいい時の共感もまた強くなった。そのため、前日まで相手を八つ裂きにしてやろうとは思っていても、その次の日にはころりと仲直りしてげらげら笑いあったりもしているし、その逆の時もあった。
感情の振れ幅が随分と極端だったことを思い出した和之は、我が事ながら、ややひいてしまいそうになる。ともかく、実を食った男とその実の中身の原型である女性もまたこんな感じの関係性だったのかもしれない、と勝手な想像をした。そんな自分なりの理解を深める和之の横で、
「それだけ強い感情を抱いた相手なんだから、自分の手で終わらせたいっていうのは、なんとなくわかるな、うんうん」
男は満足気な顔で自分なりの結論を下した。
「本当に、それだけなんでしょうか」
直後に桃色のブラウスを着た女性が首を捻りながら疑問を呈する。瞬きをする男性に、女性は、きっと食べるってことが大事なんじゃないでしょうか、と新たな持論を展開しはじめた。
「食べる、ということは相手を自分の体に入れるということです。たしかに本人が言った通り、終わらせる、という意味合いがなかったわけではないと思いますけど、どちらかといえば、食べることによって相手と一つになるという点が重要なんじゃないでしょうか」
その論は和之の頭にはなかった発想だったが、不思議としっくりと来る気がした。実を食った男の飄々とした顔の隙間から見えた、歯切れの悪さみたいなものの源としては、ちょうど良く思える。
「終わらせようと思ったのが先だったのか、一つになろうとしたのが先だったのか、あるいは両方とも一緒に思いついたのか。そこまではわかりませんけど、思いが強ければ強いほど、離れ難く感じたはずです。だから、きっと、それが私の知らない彼が出した最上の結論だったということではないでしょうか」
「一つになる、ですか。そこまで思いいたりませんでした。僕も考えが甘かったかもしれないですね」
一つになるという考えに、男性はいたく感心したらしく、同意を示しながら女性を見つめる視線には、どこか崇拝じみたものが滲みだしているように見えた。和之にしても男性ほど感じ入ることはなくとも、先日まで理解の及ばなかった行為に、多少の親しみが湧きはじめている。
「穴を塞がなきゃいけなかったんですね」
唐突に言葉を発した少女は相変わらず無表情を浮かべていたが、どことなく寂しそうだった。
「塞がなきゃ、生きていけなかったんだ」
誰に言うでもない様子で呟く少女は、自らの肩を抱く。その髪やシャツやスカートからは雫が絶えず滴り落ちていた。雨を浴びるのが好き、と平気そうに告げる普段とは異なり、どことなく寒そうに見える。とっさに和之は傘を差しかけようとするが、少女の左手にそれを制され、腕を中途半端に伸ばしたまま止まった。他の二人も心配そうに少女を見ていたものの、同様に動くに動けないようだった。
穴。空からの落涙ばかりが雄弁になりつつある中で、和之はそのことについて考えはじめる。ここを訪れたものは、多かれ少なかれ、少女の言うところの穴が心に空いたからなのだろうか、と。とはいえ、人が生きているかぎり、心には大小にかかわらずそう言った穴のようなものはいくらでも空いているだろう。本人がこれはと思うものだけではなく、気付かないうちに空いているものもあったりして、生きているうちは穴を穴と認識できないこともあるかもしれない。
ふと、森の中にあった大きめな窪みに落ちて、天を仰いだ記憶がよぎる。見上げたところ、覗きこんでいるのはあっけらかんと手を差しのべる椎子。
もしかしたら、ずっと大きな穴にはまったまま動けない人生というのもあるのかもしれない。あるいは、はまったままであるということにすら気付けないでいることも。
横目でちらりとうかがえば、膝を抱えた椎子の形をしたものの姿。穴は埋まっているのだ、と一人納得しようとする。
いつからだろう。雨音に混じって、男性と女性の会話がまたはじまっていた。時折、話を振られるため和之も適当に相槌を打つが、何を言ったのかよく覚えていない。いつの間にか、背の高い少女はいなくなっている。
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