第30話 やがて、もうじきクリスマス
延長したことを俺は即座に後悔した。
クリスマス前の金曜日ということで、店内が異様に混んできた。おまけにマヒルの指名がかぶっていたのだろうか? 十五分近く一人ぼっちのまま放置された。やっとマヒルが来てくれたところで、情熱的に口説いたり、キスすることもできず、誰とでもできるような天気の話なんかしてしまった。
「今夜はなぁ、深夜に初雪が降るかもしれないんやってさ」
違うんだ。マヒル。本当に俺が話したいのはこんなことじゃない。
「へぇ、そうなんだ。だったらさ、今夜はエアコンつけっぱなしで寝ててもいいよ。家に帰った時に寒いのって淋しいし」
そうだよ。いっしょに暮らしているんだ。なのに、こんなところでなにをしているんだ俺は?
五分ついたかつかないかだろうか? ろくに話もできず、マヒルは別の席に呼ばれていった。
二十分後、マヒルが戻ってくるものの、たいした話はできず、時間は終了してしまった。
店の外は耳が千切れそうな寒さだった。腕を組んだカップルたちが大量に歩いていた。これからセックスするのだろうか? 十二月に自殺者が多いのもうなずける。自分の幸せは他人にとっての幸せではないし、他人の幸せは俺にとっての幸せではない。だから誰しもが同じように幸福になれないんだ。だから俺は一人でいるのが好きだったんだ。だから俺は一人が好きだったはずなのに、今では?
自信を持って答えることができない。
マンションにもどる前に、俺は近所のコンビニに寄った。なんとなく俺は日本の廃墟を紹介した本を立ち読みしていた。
ふと顔を上げると、外には雪が降り始めていた。
子どもの頃は雪が降ると無邪気にはしゃいでいたが、大人になった今では、ただ寒くて歩きにくいとしか思わない。
レジで肉まんとお汁粉を買った俺は、食べながらマンションに帰ることにした。肉まんがやたらと美味しく感じるのは寒さのせいだろう。
普段は電気の節約にはやかましいマヒルからエアコンの許可が出た。俺はエアコンをガンガンに効かせてから、熱いシャワーを浴び、すぐに眠った。
夢はなにも見なかった。
朝の九時に目が覚めた。
マヒルは母親の腹にいる胎児のように、手足を丸めて布団の中に完全におさまっていた。
カーテンを開けると妙に空気が輝いて見えた。ベランダの桟には三センチばかり雪が積もっていた。
「積もっている?」
マヒルが布団から顔をのぞかせた。
俺は笑顔で親指を立てた。大人になったといえども、たまの積雪にはやはり心がかき立てられる。
昼過ぎになると、マフラーにニット帽、手袋をした完全装備の状態で俺たちは外に出た。
道路中央の雪は車や歩行者に踏まれ、べしゃべしゃに溶けていた。汚水のシロップをかけられたように黒ずんでいて惨めだった。が、すこし目線を上げると屋根や木々に残った雪は純白の姿を保っていて、さながら知らない町にさまよい込んだ感覚だ。
「すげえ。裏ステージやで、ここは!」
「はしゃいでいると転ぶよ。別に地元じゃ珍しくなかったからねー」
そう言ってマヒルは俺の手を取り、つないだ。
どこかの家の郵便ポストの上にペットボトルサイズの雪だるまが置かれていた。心ない人に落とされたり、壊されたりすることのないよう、俺は祈った。
「ねぇ、あの店で働くの、もうやめちまいなよ」
晩飯のメニューを相談するようなトーンで、唐突に俺は口走っていた。
「へ? どしたの? 急に」
マヒルは立ち止まり、俺から手を離した。
まずいことを言ってしまったか? というか自分でも変なタイミングだったと思う。
「俺は、君に、オッパイパブの、仕事を、やめて、ほしいんだ」
仁王立ちをした俺は、一語一句はっきりとしゃべった。
「なんで?」
マヒルの返答はじつにシンプルだった。
「忌野清志郎の歌に『昼間のパパはいい汗かいてる♪昼間のパパは男だぜ♪』というのがあるんやけど、昨夜の君はその真逆に思えたわ。俺には働いている君が辛そうで、感情を殺しているように見えたんや」
「な、なにを今さら」
マヒルは体をくの字に曲げて笑い出した。
「だったら働いているところを見なきゃいいじゃん」
「たとえ見なくても想像してしまうねん。夜、一人で家にいると君の辛い姿を想像してしまうねん」
わっかんないな。マヒルは独り言のようにつぶやいた。
「大助だって、働いているときは辛そうにしてたよ。死にたい死にたいって、しょっちゅうぼやいてたじゃない」
う……それには返す言葉がまるでない。
「それに、高卒の私にまともな仕事が見つかるとは思えないし、できる仕事も思いつかない」
「……前に働いていたというパチンコ屋の仕事はどうなんや?」
「ないね」
「なぜ? そりゃ今とは比較にならんやろけど、時給だって悪くはないはず。なにが不満なんや?」
「気分的に荒んでくるんだよ。だいたい朝っぱらからだよ。主婦や若い男が目の色変えて打ちに来てるの見ると、なんだかこの国終わってんなと思えるんだよ。開店前の行列見てみるとわかるよ。ゾンビにしか見えないよ」
「はは、ゾンビだって、言い過ぎ」
「大袈裟じゃないよ。みんな虚ろな目をして携帯電話をいじってさ。貪欲に手を伸ばして欲しいものを追いかけてるゾンビのほうが、まだ人間らしいよ」
うつろな目、という言葉で、他の客にオッパイを吸われていたマヒルの姿を思い出してしまった。
「だから私はもうしばらく、あの店で働くよ。それしかないでしょ?」
本当にそれしかないのか? あまりに視野が狭過ぎはしないか?
「わかった! じゃあマヒルの代わりに俺が働く。だからマヒルは家にいてくれればよろしい!」
できの悪いジョークを耳にしたように、マヒルは馬鹿にするように笑った。
「はぁ? 大助が働いたところで今の家賃払って二人も食べてけると思う? いつ体を壊して収入がなくなるかわかんないし、老後にむけて貯蓄してかなきゃダメなんだよ」
風俗嬢ゆえに退廃的な性質をしているかと思っていたが、意外と現実的な考えの持ち主だった。
「あ、お、おう……それは、つつましい生活をしていれば、なんとか……」
もし俺が、大企業の二代目だったりしたら、このラブストーリーはハッピーエンドにおちつくのだが、経済力のなさ、その一点が俺を苦しめる。
「大助の稼ぎなんて、たかだか知れてるって。だから私は若いうちに、稼げるだけ稼ごうと思って」
俺の携帯電話が鳴った。ジャケットから電話を出し、液晶を見た。着信相手は俺の姉からだった。
「いいよ、出たら?」
姉から電話が来るなど滅多にないことだ。ひょっとして母が倒れたり、なにかよくないことがあったのか? 悪い想像しか出てこない。
「はい、もしもし」
俺はおそるおそる電話に出た。
「あー、大ちゃんひさしぶりー」
電話の声は甥の大地くんだった。悪いニュースではなさそうだ。
「まぁ、あんたも大ちゃんやけどな。で、どーした? なんかあった?」
「んーとね、んーとね、もうじきクリスマスやん、そんでねー」
俺は二十四日の夜に実家で催されるクリスマスパーティに誘われてしまった。
「……ちょっと姉さんに変わってくれるかな?」
「……もしもし」
電話相手を姉に変わってもらった。電話のむこうで聞こえる姉の声は相変わらず不機嫌そうで、俺は萎縮した。
「あの、それって強制参加? 俺、今年は彼女がいるんですけど」
隣にマヒルがいるので『彼女』の部分は小声で話した。
「いや、大地がどうしてもあんたと遊びたいって言うもんやからな。ほら、あの子も父親と別れたり、転校したりでな、情緒不安定なんや」
親の都合で環境が激変した大地くんにはいたましいものを感じる。
「んー、たしかに大地くんは可哀想やけど、また別の日に遊んだるからって言うといて。さっきも言うたけど、俺には恋人が……」
「どーせあんたにはクリスマスのプランを考えるのなんてめんどくさいやろ? その彼女も連れてきたらええやん。お母さんもどんな人か気にしていたし、一石二鳥やろ?」
一石二鳥の使い方、違うと思う。
「とにかく彼女にも聞いといて!」
そう言って姉は電話を切った。
「家族?」
マヒルは首をかたむけ、微笑んだ。
「うん、姉貴からやけど。いま、旦那と別れて実家にもどってきとるねん」
「ふーん、大助ん家もいろいろあるんだね」
「あのさ、クリスマスの予定やけどさ」
「ん、仕事だよ」
提案するまでもなく可能性をつぶされてしまった。
「え? 両方とも? だってクリスマスやで?」
「接客業にはそんなの関係ないよ。淋しい殿方が大量に押し寄せてくるしね。イブもクリスマスもミニスカサンタデイなんだよ」
ミニスカサンタデイ! なんと魅惑的な響きであろうか。俺が客として行きたいくらいだ。
しかしマヒルが仕事というのは考えようによってはよかったんじゃないか? これで俺一人、小日向家のクリスマス会に参加すればいいわけだ。
が、単身乗り込んだときに姉が「ほんまに彼女なんかおるんか? クリスマスに仕事やなんて……あんたが勝手に相手のことを彼女やと思ってるだけと違うんか? ストーカーか! あぁ、こわっ!」と小馬鹿にしてくる風景が具体的に思い浮かんだ。
「そこをなんとか、二四日の夜をあけといてくれへんやろか?」
電話のときとはうってかわって、俺は是が非でもマヒルを姉に見せたくなった。
「どしたの? ペットのくせに今日は生意気だねー」
「俺のためではない。俺の甥っ子、大地くんのためにその日はあけておいてほしいんだ」
俺は小日向家のクリスマス会のこと、大地くんの境遇のことを話した。
「わかった。二十四日はなんとか休んでみる」
「いけそう? 休めそう?」
「今からだと罰金はとられるし、指名客が減るかもしれないけど、大地くんのために一肌脱いでみせるよ」
そっか。一肌脱いでくれるか。ある意味、オッパイパブ嬢らしい心強いセリフだと思った。
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