8章 真冬
第29話 俺の知らない彼女の姿
翌日の夜、俺は『ぱふぱふ』の前に来ていた。
自らの意思で『踊るアホウ』というより、宮本くんの手のひらでまんまと『踊らされているアホウ』という気もするが、気になるのだから仕方がない。
出入り禁止になってから一ヶ月は経過しているが、いまだに俺の写真はロッカールームに飾られているのだろうか? 顔バレ対策としてサングラスと口ひげ、それにアフロカツラを用意しておいた。近くのビルのトイレで装着し、鏡で確認したときは笑ってしまったが、大通りを歩いたときの往来の反応は皆無だった。誰も他人に興味はない。
かつて通いつめた懐かしい店。インカムをつけ、表情を変えないで近よるボーイに
「あ、今日は指名なしで、フリーでお願いします」
緊張しないで言えた。そして、下半身露出事件の客だとバレずにすんだ。思えば酔客が回転するオッパイパブ。あれくらいのトラブルは日常茶飯事なのかもしれない。
「三十分ほど待つことになりますが、よろしいですか?」
この不況の時期とはいえ、金曜の夜はさすがに混む。クリスマスまで四日足らずということもあり、客たちも必死なのだろう。待たされるのは少しだるい。だが、客が多いということは、それにあわせて出勤する嬢の数も多い。つまり、俺がマヒルとあたる確率を減らすことができるのだ。
マヒルと当たってしまうのがそんなに気まずいのなら、いい方法がある。同時間に美原を連れていき、美原にマヒルを指名させることで確率をゼロに近づけることができるのだ。そんなプランを宮本くんは提言してきたが、即、却下! もし美原がマヒルとキスしているところを見てしまったら美原のことをボコボコにしてしまうかもしれない。もしマヒルが美原に微笑みかけていたら美原を殺してしまうかもしれない。そこで俺は気がついた。キスよりも笑顔のほうが妬けるだなんて、キスは仕事上の義務で、笑顔は素だと信じていた証拠だ。愚か者か俺は。マクドナルドの『スマイル、ゼロ円』あのフレーズは、ある意味「仕事中の笑顔だから勘違いしないでよ!」と念を押しているようにもとれる。ましてや水商売のこと、苦手な客にだって笑いかけることは当然あるだろうに! 俺という愛するペットがいようとも、どんな客とも楽しげにふるまう。その真実を俺は受けとめなきゃならない。
ひさびさのオッパイパブの雰囲気に俺は圧倒されていた。膝の上に若い女を乗せている男たちがズラリ。圧巻。
マヒルの姿は見あたらなかった。というより、暗い店内でミラーボールが回転して目がチカチカする。半径五メートル以内じゃないとマヒルの姿を認識することができないだろう。
それにしても、元はマヒルが稼いだお金を使ってマヒルの店に遊びに行くとは……なんと皮肉なことか。浮気の形としては最悪だと思う。でも、ここのところずっと女の乳首も唇も吸っていなかったので、せっかくだから遊んでいこう! 俺、最低!
だが、俺の遊びたい気持ちを一人目の女は見事に完封してくれた。俺のカツラや口ひげに終始、質問をぶつけてきたのである。
「お客さん、なんの仕事してる人?」
「ん〜、殺し屋」
ちょっとウケている素振りで肩や太股を触ってきたので、俺もついつい気をよくし、質問に答えているだけで時間が過ぎてしまった。
一人目の女が去り、俺はカツラと口ひげを外した。マヒルに顔バレする危険性も増えたが、いちいちカツラや口ひげをつっこまれると、嬢とたわむれる時間が減ってしまう。もはや優先順位的に『マヒルの仕事姿を参観する』ことより『おのが性欲を満たすこと』のほうが上回っていた。
テーブルの上のドリンクに口をつけた。ウーロンハイを注文したはずなのに、なぜかアルコールは入っていなく、ただのウーロン茶だ。やはり顔バレしているんだろうかとドキドキする。
二人目の女がやってきた。挨拶もそこそこに膝上にまたがってもらおう。が、女はテーブルの上に乗せていた俺の携帯電話に興味をしめした。最新型のスマートフォンでもなく、三年前に買った携帯電話でなんの変哲もない。女は携帯電話本体でなく、携帯電話につけている仮面ライダーフォーゼのストラップにくいついてきたのだ。
「わぁ〜、フォーゼやん、これ。好きなん? 見ていたん? これ?」
「いや、小学生の甥にもらったからつけているだけで一回も見たことないね」
俺は嬢との会話をばっさりと切り落とした。これがコンパの場であるならば共通の話題にもなるのだが、オッパイパブでそれをしてなにになる? 嬢のほうはオッパイも吸われず楽をできるが、俺のほうはどうだ? 十分千五百円も払って仮面ライダーの話なんかしたくはない。
「ま、いいや、とりあえず、膝に乗ってくれるかな?」
そうそうに膝の上にまたがらせ、女のドレスの首の後ろのヒモをほどき、胸をあらわにする。
マヒル以外の女性の乳を揉むのはひさしぶりだ。サイズは小さめ、推定A。にもかかわらず乳輪は大きめで、そのギャップがある種の風格を生み出している。普段は人に見せないところといえども、顔や服装と同様に人それぞれの個性がある。
さっそく乳首を口に含む。哺乳類の本能だろうか? 乳児だったときの記憶を呼び返しているのだろうか。なぜだか落ち着く。と、同時に勃起もしているわけである。それが大きな矛盾に思えてくる。
それでも以前通っていた時に比べて俺は冷静だ。自分の精神の流れが手にとるようにわかる。セックスをしていないとはいえ、ペットとはいえ、マヒルと暮らしている今となっては裸の女と密着することなどたいしたことじゃない気がする。確かに気持ちいいよ。確かに楽しいよ。けれど、こんなことに安くないお金を使っているのだ。ちょっとアホなのかな? ここに来ている人たちはみんなアホなのかな?
三人目、タイプの子が来た。肌の色が白くて茶髪。唇が分厚く腫れぼったい。顔自体は美人というわけではないから、発情を促進させる顔立ちなのだろう。重ねたくなる唇だったが、キスはしない。今回、キスをしたら浮気になるという自分ルールを設けたことで、それ以外のオッパイ揉みや乳首舐めに罪悪感を抱かなくなったのだ。というわけで、膝の上に座ってもらう。
両乳を揉みしだきながら、右乳首を吸う。左乳首を吸う。その時、左脇の隙間から俺の見知った女の姿が見えた。
そう、マヒルが働いていた。
マヒルは客の膝上にまたがっていた。そして乳房を弄ばれていた。乳首を吸われて恍惚の表情をするわけでもない。不快感をあらわにするわけでもない。
マヒルは虚ろな目をしていた。
客の姿なんてまるで見えていないようだった。マヒル以外の膝に乗っている嬢たちも、みな無表情に見えた。働くとはこういうことなんだろう。
俺は眼前にある二つの乳首を舐めた。時おり体をビクッと震わせることから全くの無反応でないことはわかるが、いったいどんな表情をしているんだろうか? 彼女の表情を想像し、俺は愕然とした。そこにいたのはのっぺらぼうだった。俺は嬢に膝から降りるように言った。煙草に火をつけようとしたが、指が震えてなかなか火がつかない。彼女は心配して、ボーイに水と冷たいおしぼりをもってくるように指示をした。水を飲んで、首の後ろにおしぼりをあてがうと少し落ち着いた。俺を気遣う彼女はちゃんと血の通った表情をしていた。演技ではない戸惑いの表情だった。
三人目の嬢が去った後、俺は携帯電話をいじっていた。店内を見渡して乳を弄ばれる嬢たちの姿を見るのがつらくなってしまったのだ。中南米のコーヒー豆労働の苛酷な実態を知ってしまった後に、安くて美味しいスターバックスコーヒーに入りづらくなる心境もこんな感じだろうか?
携帯をいじる俺は『ぱふぱふ』のモバイル版のページを開いた。何時からどの女の子が出勤しているかも一目瞭然だ。この日はマヒルを入れて三十二名が出勤していた。1セットにつき、四人が付く計算だとしても32÷4の=8。マヒルが俺に当たるのは八分の一だ。普通ならまず引き当てることのない確率だ。
ふと、気配を感じたので俺は顔をあげた。そこにはオシボリとポーチを持った嬢がいた。そしてその嬢はマヒルだった。
ああ、そうか。神様というやつは、こういう場面で必ずといっていいほど、お約束のパターンを盛り込んでくるのだ。
しばらく俺たちはたがいに見つめあい、硬直していた。見てしまった。見られてしまった。凄腕の剣豪たちが睨みあったときのように、なかなか動けない。
先に言葉を発したのはマヒルのほうだった。
「だ、だれ?」
あまりに素朴すぎる質問に、一瞬意味がわからなかった。少し考えてから俺は
「お、俺? たぶん、小日向……大助かな?」
ちょっと自信なさげに答えた。
「だよねえ」
マヒルの顔は少しあきれているように見えた。
「……」
「……」
まあ、とりあえず座ったら?
俺はソファをぽんぽんと叩いた。
「で、なんでここに来たの?」マヒルは突っ立ったままだ。
「ほら、ボーイが見てるから、いぶかしがられるから、とりあえず座って!」
マヒルは素直に座った。
「で、なんでここに来たの?」マヒルは同じ質問を繰り返した。
「それは……ご主人様の帰りを、待てなかったんだワン!」
舌を出し、犬っぽくハァハァと息をしてみる。
「ああん?」
マヒルは顔を背け、軽く舌打ちをした。すべった。思いっきりすべった。居心地が悪い。もう帰りたい。
「ねえ、どうしてここに来たの?」マヒルは同じ質問を繰り返す。
「たぶん、淋しかったんじゃないかな」
「本当に? でもそれって嬉しくないよ」
「いや、淋しかったのが理由じゃないな。俺はきっと、君との関係がこんがらがってしまったから、初めて出会ったときのことを思い出したくなったんや! ここは、この店は俺にとって思い出の場所なんや!」
「前に、あんな場所とか言ってたくせに、大助にとっては思い出の場所なんだ? 私にとってはただの職場だけど」
「そっか、ごめん」
「なんで謝るの? だって事実じゃん」
気まずい。そこまで怒っているわけじゃなさそうだが、気まずい。なにを話せばいいのかわからない。
「よくわかんないけどさ。せっかく、お金を払って店に入ってるわけでしょ? まぁ、もとは私のお金だから変な話だけどさ。もったいないじゃん? なにもしていかなくていいの?」
話をするのが苦手なら、話をしなくてもいい方法があった。
「じ、じゃあ、そう言ってくれるのであれば……」
最低ではあるが、せっかく、来たんだ。俺は静かにマヒルの胸に手を伸ばした。
ドレス越しに彼女の胸の柔らかさ、温かさが伝わってくる。少し複雑なシチュエーションに緊張しているのか、俺の手はまるで童貞のように震えていた。
そんな俺の手にマヒルは手を重ね、ぎゅっと乳房を押しつけた。
「今は『ペット』じゃなくて『ただの客』だから遠慮することはないよ」
ただの客の『ただの』という部分が気になった。ペットの身分より、かなり降格した気分だが、性衝動にはかなわない。
結局、俺はオッパイをもみもみしている。首の後ろで結ばれたドレスのヒモをほどき、マヒルの生乳をあらわにしている。膝の上にまたがらせて、右の乳首、左の乳首と交互にむしゃぶりついている。
親指と人差し指に自分の唾液をつけ、マヒルの乳首をこりこりといじっているときに、ふと聞かれた。
「どう? 楽しい?」
俺は言葉につまった。
夢中になっていたのは事実だが、楽しいという言葉があてはまらなかった。
かつて美原は『オッパイパブには作法がある。それはただ一つ、楽しむことだ』などと、どこかから借りてきたようなフレーズを口にしていたが、それも一つの真理だと思う。
ただし、それは客の視点から一方的に見た場合であって、嬢の立場からすると金をもらって乳を吸わせているにすぎない。二人の人間がいて、一方が楽しくても一方が不快に思っていたとする。その場合でも、主観の『楽しい』を成立させてしまってもいいのだろうか?
マヒルの腕が俺の頭にぎゅっとまわされ、力が入る。鼻をすする音が聞こえる。どうやらマヒルはすすり泣いているようだった。
「罪悪感なんて持たないで楽しんでよ……じゃないと、私も間違っていることをしている気分になるじゃない……」
わかったよ。そうだよ。これは単純な等価交換じゃないか。料金分楽しまないと自分が損をすることに……って、その金を出しているのはマヒルで……つまりそれはペットとして彼女を裏切っているようなもので……。
「そろそろお時間のほう……あ!」
延長交渉にやってきたボーイが俺とマヒルの微妙な空気を察知して、緊張している。
「いいの。帰ってもらうから」
涙声のマヒルがボーイをしっしと追い払う手振りをする。
にもかかわらず、融通の利かないボーイは
「そろそろ時間になりましたが、今夜は当店のほう、キャンペーン中でして、延長時の指名料がかからなくなってます。どうですか! 今日来てみて、誰かお気に入りの子はいましたか?」
マニュアル通りのフレーズを読み上げてきた。
そして俺はこう答えた。
「じゃあ延長でお願いします。マヒルちゃんで」
延長、するのかよ。声に出してこそ言わないが、マヒルの顔はそう語っていた。そしてなにより延長を口にした俺自身が一番驚いていた。
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