第28話 俺はペット
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ぬるい生活だった。日中はだらだらとテレビを見たり、ゲームをしたりしている、本物の犬と違い、雨の日に散歩する義理もない。工場で働くことに比べて楽勝だった。
ただし、ペットと飼い主の立場を崩さないように、いくつかのルールは設けられてあった。それはA4用紙に明朝体でプリントされ、トイレのドアやリビングやキッチンの壁、いたるところに貼られてあった。
ペットと私の五つの約束。
一、飼い主に決して噛み付かないこと。
好きなタイプが『殴らない人』であるマヒルらしい意見。俺は恋人はおろか家族にも暴力をふるったことはない。中学の時、ゲームセンターで不良にからまれ反撃したのが最後の暴力だ(複数いたので途中で逃げたが)
二、飼い主が帰宅してきた時に必ず家にいること。
マヒルいわく、大半を外で過ごし、エサだけもらいにくるような猫は論外らしい。ペットたるもの飼い主が戻ってきたら尻尾をふりふり飼い主の存在を全肯定しなければならない。もっともマヒルは仕事のときは早くても帰ってくるのは十二時過ぎ。派手な交友関係のない俺にはなんら問題ない。
三、手のひらを差し出されたら、必ずお手をすること。
人として屈辱的なことをさせられている気がするのなら、それは固定概念のせいだろう。俺に言わせれば、真夏にスーツや革靴、ネクタイを強要されているサラリーマンたちのほうがよっぽど屈辱を背負っているように見える。汗水をたらして働くことを思えばなんでもない。お手なんかいくらでもしてやる。
四、飼い主はペットのことを自在にカスタマイズできる。
このルールには俺も少し躊躇した。最悪の場合、去勢手術をされるかもとおおいに震え上がった。が、実際はただのオシャレ改造。ブリーチ剤で髪を茶色に脱色されたり、左耳にピアスをあけられたりとその程度。ピアスをあけるときは思いのほか痛かったが、刺青を入れられるヤクザの愛人に比べれば、まるでカジュアル。
五、ペットは飼い主に決して欲情しないこと。
このルールははたして必要なのだろうか? 初夜の失態を挽回するチャンスが断たれてしまった。が、欲情しなくていいということは恥をかくということもないので、ほっとする気持ちもあった。風呂上がりの半裸姿のマヒルを見ると、普通に勃起したりもするが、直前で萎えることの恐怖が染み付いていたので、わざわざ禁を破ろうとは思わなかった。
それらのルールが課せられていても、ペットの立場は魅力的だった。夜、マヒルが働きに出る前に夕食代として五千円を渡される。その範囲で豪勢に焼き肉や寿司を食うのも自由。松屋などで食費を浮かせてゲームソフトを買おうが、全額貯金をしようが俺の好きなようにできた。渡した五千円をどう使ったかマヒルはいちいち聞いてこなかった。
退屈な夜には実家に戻ったりもした。気前よく土産のケーキを持っていったりして、母親や姉に驚かれた。実家でバイトをしていた時には甥の大地くんにあまりかまってやれなかったので、算数や理科を教えてやったりもした。こっそりエロい雑誌を見せてあげようかとも思ったが、姉にバレた時に尻を強打されるのは大地くんのほうなのでやめておいた。
母親には今の生活のことを聞かれた。昼間は働いていると言ったら、すんなりと信じた。「あんたな、いい人がおるんやったら、きちんと紹介しなさい」母は言った。照れくさかったので俺は黙っていた。
平穏な毎日だった。実家暮らしのフリーターから、女に飼われているペット。世間のランク的には降格しているのだろうが、不安は薄かった。以前はお先真っ暗ノーフューチャーな気分が蔓延していた。それこそしょっちゅう死にたくなったが、それもなくなった。ただ、夜中にマヒルがときどき泣いていた。俺のこととは関係なく、以前から泣いていたのだろう。そんなときに俺はどうしていいかわからず、子犬のように顔をこすりつけるくらいしかできなかった。だけど、マヒルのつらさと俺の生活は連動していない。以前の俺が抱いていたヒリヒリとした焦燥感や、感傷めいた青臭さも薄れていった。よくいえば大らかに、悪くいえば愚鈍になったのかもしれない。
ある夜、ひさしぶりに宮本くんから電話がかかってきた。
俺は下半身露出事件から大助ペット化までの経緯をことこまかに話した。宮本くんはおおいにウケていた。
「いやぁ、しかしよかったやん。働かなくてもいいなんて」
第三者の目からはシンプルにそう思えるのだろう。たしかに楽な生活だし、悪夢を見ることもなくなった。が、しかし……。
「でもそれは、マヒルが暗い場所でオッパイを吸われることによって成り立っているわけやん」
マヒルは若いし青春を謳歌していいはずなのに、退廃的な暮らしっぷりだ。
「うぬぼれるなよ。大助。お前がペットになる前から彼女はその店で働いているわけだろ。お前がペットでいることで彼女の心理的負担を軽くしているんちゃう?」
それはそうかもしれない。が、彼女から楽な暮らしを提供してもらっているぶん、罪悪感があるのだ。
「俺はやっぱりつらいねん。指名さえすれば、すべての男性がマヒルのオッパイを吸えてしまうという、その事実がつらいねん」
宮本くんが呆れたかのように、大きくため息をついた。
「なに? お前はマヒルちゃんを独占して束縛したいのか?」
「かりに俺が、映画プリティーウーマンのリチャード・ギアだったとしたら、マヒルを今の境遇から救い出してやれるのにな」
「あぁ、お前が大金を持っていたら、逆にマヒルちゃんをペットにすることができるのにな」
宮本くんが皮肉っぽい言い方をした。
「違うわ……そんなことを俺は望んでいない。俺はただ、彼女と普通のカップルになりたい。きっとそれだけなんや」
工場で働いているとき、俺はずっと妄想していた。話題の映画を見に出かけたり、ウィンドゥショッピングに行ったり、ゲームセンターでUFOキャッチャーのぬいぐるみをとってとせがまれたり、そんな平均的なカップルを夢見ていたのだ。
「彼女がどうしてオッパイパブで働いているのか聞いたことはないのか? 家族の借金とかはないの?」
そういうこみいった事情に俺は足を踏み入れることができなかった。
「彼女が仕事に誇りを持っていたら? お前はどうする?」
「誰もやりたがるような仕事じゃないやん。誇りなんてないやろ」
もし俺が女だったら、とてもできないと思う。キャバクラでなら働けると思うけど。
「なにを言ってるんだ。オッパイパブは素晴らしい仕事やろ。美原の自殺をふせいでいるわけだし。お前が彼女に理解をして応援しなくてどうするねん?」
「え、えーっ! 応援はできひんわ!」
宮本くんのやつ、完全にかき乱そうとしか思っていないな。だんだん、この電話に飽きてきたのだろう。
「よし、決めた」
な、なにがや?
「一度、お前は彼女の仕事を参観すべきや。他の客に接する彼女をガン見するねん。その時、お前は自分自身にむきあうことができるだろう」
荒療治にもほどがある。だが、今こそ冷静に現実を直視する必要があるのかもしれない。
嫉妬で胸がはち切れそうだけど。
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