第27話 ヒモの意義
★
なしくずし的に同棲生活が始まった。
つきあっているのか、いないのか、関係性をハッキリさせるのは野暮な気がした。このままグレーな状態をキープ。それが長続きする秘訣のような気がしたのだ。
荷物をまとめてマヒルの部屋に転がり込んだ俺は、素早くテレビにプレステ3を接続し、ゲームを楽しんでいた。夜の十一時にもなると眠くなってきたので、マヒルにメールをした。仕事中とはいえ、休憩が多いのか、すぐに返信がきた。
『遅くなるので先に寝ていて♥』
俺はクイーンサイズのベッドに横になった。ベッドの端により、マヒルが寝るスペースも空けておいた。夜中、マヒルが帰ってきたドアの音で目を覚ましたが、そのまま寝ている演技を続けた。寝ないと次の日がキツい。
朝は携帯電話のアラームが鳴る前に目を覚ました。月から金までの規則正しい生活のせいで体内時計ができあがっていたのだろう。マヒルはイビキをかいて寝ていた。キスする気にはなれなかった。ホッペにチュウすらままならない。誰だって寝顔の表情や角度までは演出できないのだ。
マヒルを起こさずにそっと家を出る。実家にいたときに比べ、通勤時間は二十分ほど短縮できた。単調な仕事は五時まで続き、俺がマンションにつく頃にはマヒルはすでに出勤している。
ともに仕事をしている日はしかたがないことだ。昼型の俺と夜型のマヒル。二人の生活は思った以上に交わるところが少なかった。
水曜日、俺が帰るとマヒルがいた。たった数日、生活がずれていただけなのに、ずいぶん久しぶりに会った気分だった。
「大助のくせに真面目に仕事行ってるから、ちっとも話せないね」
「実家を出た今、あんまりダラダラできひんかなって思ってさ」
「でも給料安いし、あがらないんでしょ? だったら真面目にやっても意味ないよ」
「まったくやわ。バブルのころはよかったとか過去を懐かしむオッさんどもを正座させて頭しばきたい気分やで」
「よくいるよね、昔の自慢ばかりするオヤジ。過去を振り返ってもしかたないのにね。さ、夕食にしよ」
マヒルはシチューを作ってくれていた。具の大きさがアンバランスなクリームシチューだったが美味かった。俺はそれを三杯おかわりした。鍋の中に少しあまっていたが、それは次の日の朝にとっておくことにした。
「美味かったわ。料理できるなんて意外やった」
「一人だと、あんまり手の込んだもの作っても虚しいからね、たまにはこういうのもいいでしょ」
「うん、寒くて疲れてる時には温かいシチューやね、外であんまり食べへんものやし」
腹を満たすと急に眠くなり、俺はベッドに横たわった。
数分としないうちにマヒルが寄り添ってきた。まるで飼い主に寄り添う猫のようなスムーズな寄り添い方だった。
なんとなく髪を撫でているうちに半勃起状態になり、そのままキス。シャツのボタンを外し、ブラを上にずらし、乳首を吸い始める。女性の体をいじっているあいだ、俺は無心にはなれない。むしろ疲れているときほど脳内は思考が飛び交ってしまう。
さっきの会話に出てきた『昔の自慢ばかりするオヤジ』ってなんだ? マヒルの生活圏内から判断するに、それはおそらく客だろう。『昔の自慢ばかりするオヤジ』にマヒルはキスをされたり、乳首を吸われているのだ。
つまり俺はマヒルの乳首をとおして『昔の自慢ばかりするオヤジ』と間接キスをしているというわけか!
そんなことを考えてしまい、ものの見事に役立たずになってしまった。ニートをしていたときは、日に二回は自慰していたというのに、精神的な作用であっさり役立たずになるなんて……。あんなにこなした自慰行為は、来たるべき本番のための修行にまったくなっていなかった。
状況を変えてみれば復活するかもしれない。
ソファに移動し、膝上にまたがってもらう。いわばオッパイパブ方式である。人間の習慣とは恐ろしいもので、キスもしていないのに、オッパイも触っていないのに、すでに俺はギンギンに勃起している。
いける。このままの姿勢でイチャイチャした後、たがいにパンツをとれば簡単に合体することができる。だが、一分ほどキスをした後、マヒルは俺の膝から降りた。
「なんか、こういうの嫌だ。するんだったら、ちゃんとした方法でやりたい」
彼女はベッドに移動した。追いかけるようにベッドにあがる俺だったが、焦っていたのかベッドの縁にスネを強打してしまう。叫びだしたいほどの痛さだったが、俺は何事もなかったかのようにベッドにあがった。
「電気消す?」と俺。
「少し暗くして」
彼女は服を脱ぎ、それにあわせて俺も脱ぎながら、愛撫を重ねていく。俺のペニスはかなり不安な硬さだったので、抱きあってるときも、さりげなく腰を浮かせてペニスの頼りなさがバレないようにした。ついに二人とも一糸まとわぬ姿になった。挿入直前だ。だが、中途半端な硬さの俺のペニスではコンドームを装着することができなかった。
「あれ? なんやろ? 軽く死にたい気分やわ。どうも今日は元気がないみたい。ちょっとシャワーでも浴びてリフレッシュしてくるわ」
俺は身を起こし、マヒルから離れる。背中越しに、彼女のつぶやきが聞こえた。
「客でくるときは勃起するのにね」
★
翌朝、ヒゲを剃り、寝癖を直し、働きに出ようとする俺をマヒルが引き止めた。
「え〜、働きにいくの? ずっといっしょにいてよ。仕事なんて意味ないって言ってたじゃん」
「いや、働くのは国民の義務やし。働くものは食うべからず、なんて言うしさ」
「店で出入り禁止にまでなった大助が、そんな退屈なことを言っちゃ駄目だよ。どうせ時給安いんでしょ? 派遣アルバイトなんてやっても意味ないよ」
働かざるものは食うべからずだなんて、そんなことは俺も本気で思っちゃいない。ただ、十才も年下の女に振り回されていくことを、自分の中でよしとしなかっただけだ。仕事なんて本当はしたくない。
マヒルは一つ賭けをしようと言った。
「今日、家に帰った時に仕事を続けるのが嫌だって言ったらペットにしてあげる。私に嫌われるまで養ってあげる。でも、今日、それを拒んだら、次の日にはペットの話は立ち消えね。一人で頑張って自分のぶんの生活費は稼いでね」
仕事中、同僚たちの顔を見て俺は思う。外見も内面もさえないこいつらと違い、俺は今、オッパイパブ嬢といっしょに暮らしている。単純極まりない検品作業しかできないこいつらと違い、俺はヒモとしてスカウトされたのだ。世の中にはモテない男たちが星の数ほどいるのに……これは一つの才覚といっても過言ではないのでは?
それはさておき、仕事は真面目にやっておこう。物凄く単調で精神的にキツいけれど。なぜなら俺はマヒルの話を完全に真に受けたわけではなかった。舌切り雀では大きなツヅラにお化けが入っていたし、欲をかくといけない。
木こりが湖に斧を落とした昔話を俺は思い返していた。金の斧ですか? ノンノン。銀の斧ですか? ノンノン。鉄の斧ですか? イエス! こうして三本の斧をゲットした木こりは本当に正直者だったろうか? 女神のまわりくどい性格をたくみに計算していたら真の意味で人生の勝者だ。なら俺もいきなりヒモになると決めないで焦らした方がいいな。いや、でもマヒルは女神とは性格が違うだろうし……。
そんなこんなで悶々としながら午前は過ぎた。一時間も働くと目も指もクタクタに疲れ、もう働きたくないと思った。
仕事はつらかった。誰にでもできる仕事を個性も出さずに黙々とこなすのは、自分が社会を構成するただの部品という認識が強まり、気がめいる。正直、働かなくてもいいのなら、他人に食わせてもらえるのなら、それに越したことがないように思える。昨夜、ベッドの中で勃起しなかったことも、もしかしたら仕事で疲れているせいかもしれないじゃない? うまくいかないことの諸悪の根源は労働だ、労働。
だが、持っていても邪魔なだけのプライドがその発想を遮りやがる。ヒモ=女の寄生虫……そんなマイナスイメージがどうしても払拭できない。
帰りの送迎バス。同僚たちはぐったりと疲れている。その目はうつろでにごっている。なんの役に立っているのかわからない仕事ほど精神的にくるものはない。こんなたとえはどうだろうか? たとえばベルトコンベアーで流されてくる大量のバーコード頭のオヤジ。そのバーコード部分に刷毛を使って味噌ダレを塗る仕事があったらどうだろう? 時給が今より二百円高かったとしても、そんな意味のない仕事を続けられるだろうか? でも無意味とはいえ二百円も時給が高いし今の仕事より楽だろ? だが、もし雇い主が「あなたたちの仕事は誰の役にもたっていません。世の中にとってまったく意味のない仕事です。僕一人の自己満足です。こんな無意味な工場を作るのが僕の夢でした。ですけど給料を払っているので真剣に働いて下さいね」などと公言してしまったら、それでもお金のために続けられるのだろうか?
「どうしたんや? 小日向くん。苦悶に満ちた表情をして」
ひとりで唸る俺を見かねて加山さんが声をかけてきた。
「それがね、仕事辞めよか迷ってまして」と俺。
「なに? 条件ええとこ見つかったん?」
「そうじゃなくって、キャバクラ嬢のヒモになれそうなんですけど、それってみっともないじゃないですか?」
「ミュージシャンや役者が下積み時代に女に食べさせてもらうのはよくある話やんか」
「いや、俺、夢ないやん。ちょっと淋しいけど」
「あとできちんとお返しすればええやん、まだ若いねんしチャンスあるって」
「だとええんやけどな。なんかこの先ええことなさそうやのに、さらに他人に迷惑かけるのもなぁ、サナダムシみたいな形をしてるからヒモって意味やろ? ただでさえ、俺、クズやのに、他人の栄養吸い取るのもなぁ……」
「それ、意味ちゃうで。ヒモの意味ってそれやない」
加山さんは説明してくれた。ヒモの語源は海女さんが腰につけているヒモからきているらしい。息が続かなくなった海女を船上から男がヒモをたぐり寄せて引き上げるのだ。
なるほど、それならマイナスイメージはうすい。うんちくを語り終えた後の加山さんのドヤ顔がにくたらしかったが、寄生虫よりはるかにイメージアップしたことで俺の決意はくつがえった。
★
部屋に帰るとマヒルはいなかった。そりゃそうだ。彼女は夜に働いている。なるほど、これがすれ違いというやつか。
近所のコンビニで晩飯を買いにいこうかと思うが、エレベーターに乗って下まで降りるのが面倒くさい。冷蔵庫に入ってあった冷凍のピラフを解凍し、一気にかき込む。缶ビールを一本あけるが仕事後の達成感がまるでない。それもそのはず、俺の仕事は指先や後頭部、眉間が痛くなる。肩や腰、太股の筋肉が痛くなるようなマッチョな仕事であれば心地よい疲れに変化するのかもしれないが、体力がないから俺には無理。
マヒルが帰ってくるまでテレビゲームでもしようかと思ったが、今日は真剣に働きすぎたので目を酷使してしまった。このコンディションではゲームをしたところですぐに頭が痛くなるか、3D酔いをしてしまうだろう。もうなにも考えたくはない。シャワーも浴びずにマヒルのベッドに入り、目を閉じる。なんかもう、目が覚めたら今までの俺の人生がすべて夢オチで、実はどこかの王族のあととり息子だった。などという都合のいい展開になってくれないだろうか?
その夜、ひさしぶりに悪夢を見た。
以前見ていたような死ぬ夢ではなかった。塵一つない真っ白な部屋で俺はドミノを並べていた。片手には設計図を持っているのだが、字が細かくてわかりづらい。時おり、北斗の拳に出てきそうな三メートル越えの巨漢が巡回してくるのだが、その都度、思いっきりクシャミをして衝撃波でドミノを倒していく。一からやり直しになっても監督には誰も文句は言えない。なにしろ子どもの頭くらいなら片手で握りつぶしてしまいそうなほどにガチムチなのだ。
「もたもたしてると残業だぞ〜」
俺たちをせかしつつも、クシャミをしていき、仕事を初期化してくれる監督。それでも文句を言わずに働く俺たち。時計も窓もない部屋で昼なのか夜なのかすらわからない。ふと仕事の手を休めて同僚たちを見ると、みんな老人になっていた。おそるおそる自分の手を見ると、しわくちゃになっている。自分の手をそっと顔に当ててみた。予想はしていたが、カサカサの肌になっている。
や、やばいぞ……これは……。
「これは楽しくない浦島太郎だ!」
そう叫んで俺は起き上がっていた。寝汗びっしょり。隣ではマヒルが熟睡している。時間は午前三時。俺はふたたび眠ろうとした。二度続けて悪夢を見ることはないだろう。しかし、まぶたを閉じると恐ろしい監督の姿が浮かび上がり、起きながらにして俺はうなされた。
俺は一時間の寝坊をしてしまった。今からすぐ家を出ると三十分の遅刻ですむ。一瞬、仕事に行こうかと迷いはしたが、布団をかぶり外の光を遮断した。隣ではマヒルが寝ている。彼女はスコースコーとうるさくもなく静かすぎでもない中途半端なイビキをかいていた。調子の悪いエアコンみたいな音だった。俺はなんとなく肩に頬ずりをしてみた。ほんのりピーチのにおいがする。軽く勃起してしまったが、俺は目を閉じた。何度も寝て何度も起きた。
十一時過ぎ、カーテンを全開にしたマヒルはベッドで寝ている俺の姿に驚いた。
「どうしたの? めっちゃ遅刻してるじゃない!」
「うん、なんか妙に熱っぽいというか、体が気怠くってさ……ムニャムニャ」
俺はダルそうに後頭部をかきながら答える。
「ムニャムニャじゃないよ! ほら、熱はかってみ!」
体温計を渡された。気持ちの面ではかなり気怠く、それと連動して体もだるいので、微熱くらいは出ていることを期待はする。
結果は35度7分。ものの見事に平熱だった。
「仮病だ。こいつ、仮病だ」
「うん、でも実際にだるいねんで」
「職場に連絡したの? 無断欠勤は罰金でしょ?」
「普通の仕事に罰金なんてないから。あのう、俺の口からは言いにくいんやけど、忘れた? 養ってくれるって。働かなくてもいいよって言ってくれたの」
俺は上目遣いで泣きそうな顔でマヒルを見つめる。
「うん、ちゃんと覚えているよ」
マヒルは笑顔だった。
「今の仕事は俺にはむいていない仕事や。あんなん誰にだってできるもん。もっと想像力、妄想力、クリエイティビティを発揮できる仕事に俺はつきたい。そんな仕事につけるまで、しばらく力を貸してくれないやろうか? まるでヒモみたいでちょっとだらしない気もするけど真剣やねん!」
「なに言ってんの!」マヒルは急に激昂した。
「え? だめ?」
「ヒモじゃないよ。ペットだよ! ペ、ッ、ト! ヒモなんて言ったら私がまるで利用されてるみたいじゃん。そうじゃなくてペットなの! 高収入の私が、甲斐性のある私が、愛玩用として大助のことを飼うの! ペットとヒモじゃあニュアンスがぜんぜん違うよ!」
愛玩用というフレーズに引っかかったが、男としてのプライド、人間としての尊厳以上に働きたくない気持ちが勝っていた。
「にゃ、にゃおごろ〜ん」
ベッドの中でしたように、マヒルの肩に頬をすり寄せてみる。
はねのけられた。
え? なんで? フリーズする俺にマヒルはたたみかけた。
「だって、猫って堂々としているよね。飼われてやってるくらいに思ってるよ、あいつら。飼うのなら、やっぱり卑屈な犬だよ。雨の日も風の日も毎日、リチャード・ギアを待ったりして泣かせるじゃない。犬はね、飼い主のことを全肯定しているんだよね」
全肯定というフレーズに重いものを感じたが、労働をしたくない気持ちが勝っていた。
俺の決意を察したのか、マヒルは仁王立ちになり、右手のひらを上にむけ、俺の方に差し出す。
「あ、待って、大助って名前だと人間っぽいから、一本足して犬助(いぬすけ)ってどう? これから犬助ね」
ペットの犬に犬助なんて侮蔑的な名前をつける飼い主があるもんか……そう思いつつも、俺は主君の前に出た忍者のように片膝をつき、身をかがめる。そして握った拳をマヒルの手のひらに置きこう言った。
「ワン!」
主従の契約が交わされた瞬間だった。
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