7章 俺はペット

第26話 プッチ家出


 先に目覚めたのは俺だった。朝の十一時だった。日曜とはいえ、周囲の喧噪もなく、八階の部屋はただただ静かだった。俺はふたたび目を閉じた。次に起きたのは一時半だった。今度はマヒルも起きていた。マヒルは冷凍食品のピザをレンジで解凍した。俺たちは遅めの昼飯を食べた。


 食事を終えるとマヒルはまたベッドに寝転んだ。『食べた後に寝ると牛になる』という諺は勤勉な昔の人のためのもの。マヒルという名にふさわしくなく、彼女は夜型人間。日中はだらだらとベッドの中でまどろんでいた。ベッドの隣に入った俺は、さりげなく胸に手を伸ばし、再挑戦をうながしたが「エッチは夜にするものでしょ」と一蹴されてしまう。彼女は笑っていたが、俺は切なかった。ならばせめてキスだけでもと懇願したが「今、キスをすると出勤するのがつらくなる」とマヒルは真顔で言った。もっともな言い分だと思った。


 そして少し眠る。マヒルは夕方の四時に起きると一時間かけてゆっくりと化粧をした。化粧を終えると彼女は冷蔵庫からビールをとりだし、ゴキュゴキュと飲んだ。その光景を珍しそうに見ていると「出勤前にありえないなって思ってるでしょ?」とマヒルが笑った。

「飲むとね〜。キス魔になるんだ。素面より楽なんだよね」

 飲み残しのビールを俺に押しつけるように渡すと「じゃ、行儀よくお留守番していてね」

 マヒルは出ていってしまった。俺も同時に帰る気でいたのに取り残されてしまった。合鍵を渡してもらってないので、施錠しないまま帰るわけにはいかない。ましてやオートロックの番号を教えてもらっていないのでマンションから出かけることもできない。つまり、マヒルが帰ってくるまでこの部屋で大人しく留守番しなけりゃならない。


 まずは食料の確保。俺は冷蔵庫をあけてみた。中はびっしりとビールで埋め尽くされていた。それ以外に入っていたのはスライスハム、そしてプリン。マヒルのやつ、自炊をする気は毛頭ないらしい。冷凍庫を開けると大判焼きが残っていた。俺の晩飯は決定した。

 テレビを見ながら解凍した大判焼きを一人でつまんでいた。実家だと下の階から母の笑い声や大地くんの奇声、それに姉の怒声が聴こえてくるのだが、たった一人ですごす2LDKの部屋はあまりにも広い。

 テレビでは大家族のドキュメントをやっていた。前妻との子が二人に今の妻との子が五人もいる大家族だ。俺はいつもこの手の番組を見る時に不思議に思う。家はせまく、一つの部屋に布団を三つほど並べて寝ているような状況で、夫婦はいつ性交しているのだろう? 子どもたちにバレていないのだろうか? それともバレないように猫や鳥のようにちょちょっと高速ですませているのだろうか?


 テレビを消した俺は本棚をチェックし始めた。本棚には進撃の巨人やアイアムアヒーローがならんでいた。女子のくせに殺伐とした漫画を好んでいるな。だが、ベルセルクのコンビニコミックが五冊ほどならんでいるのを見て、俺は思った。

 これ、以前に同棲していた彼氏かなんかが置いてった物じゃねーの?

 とたんに息苦しくなってきた俺はマヒルにメールした。

『今すんごいヒマ。なにか面白いものない?』

 期待していなかったが五分以内に返信がきた。メールには合鍵の場所とオートロックをあける四桁の数字が書いてあり、近所をぶらついてみたら? とあった。

 さっそく俺はドアに施錠をし、外に出た。駅はすぐに見つかった。いったん電車に揺られると、このまま家に帰って寝るのもありかなと思えてきた。


 実家に着いたのは八時過ぎ。台所でなにか物色しようとしていると、二階から姉の怒鳴り声が聞こえてきた。なんやなんや? と階段に向かう途中で母と顔をあわせる。

「あんた昨日はどうしたん?」と母。

「友達んち泊まっててん」

「いちおう連絡くらいしなさいや」

「ええ大人にそんなこと言うなや」

「うちに住んでいるぶんには何才だろうが、うちの子どもや」

 母が俺の頭をはたく。むずがゆい気分だ。

 階段を上っている最中に大地君の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。なんだか嫌な予感がする。

 ドアを開けるとそこには姉貴にお尻を強打されて泣いている大地くんの姿があった。大地くんの尻は真っ赤にはれており、鬼気迫る姉の形相に俺も母も引いていた。しかも平手で叩くならまだしも、布団叩きで手首のスナップを効かせて叩いているのだから大地くんの痛がり方も納得できる。成人男性の俺ですら、あの叩き方をされたら泣いてしまうだろう。

「あんたやめとき! エキサイトしすぎや!」母が姉を大地くんから引きはがす。

「あ、姉貴すごいな……子どもを甘やかす親が多い中、すごいスパルタぶりやったで……で、なにしはったの? 女子の髪でも引っ張ったとか?」

 暴力を間近に見、ビビっていた俺は姉と一定の距離をたもちつつ、半笑いで尋ねた。

「はい、大地。まずはオジさんに謝りなさい」と姉。

 母と俺の顔をうかがうようにながめた大地くんは口を噛みしめ、涙をこらえながら

「だいずげオジざん。ごべんだざい」

 と、濁音だらけの謝罪をした。

「え? あ……とりあえずパンツ履いといたら? 姉ちゃん、大地くんはいったいなににたいして俺に謝ってるんやろうか?」

 おそるおそる姉に尋ねてみる。隣で母も首を縦にふっている。

「そろそろ寝る時間やから、歯を磨きなさいって大地を探していたんや。一階には見あたらへんから、二階に上がってみたら。あんたの部屋に電気ついてるやろ。ドアを開けてみたらこれや」

 姉はフローリングに落ちていた物体を軽く蹴った。たまたまめくれあがってヘアヌードのグラビアのページがさらけ出される。目を見張る母親。

「な、な、なにするん?」

 とっさに俺はエロ本を拾い上げ、腕をクロスにして抱きかかえてやる。

「え? つまり、なに? 俺の部屋で大地くんがエロ本を読んでいたことにたいして怒っているん?」

「そういうことじゃないんや。他人の部屋に勝手にあがり込んで、他人のものを勝手にいじるというコソ泥みたいな行為にたいして母親として厳しくしつけする必要があったんや!」

 母は大地くんの皮破け肉裂けた尻に軟膏をすりこんでいる。大人であれば自殺ものの屈辱だろう。大地くんに心底同情できる。

「嘘や。しつけとちゃうやろ? 息子がエロ本に興味しめしてるの見て激昂しただけやろ。もろにパニクっただけちゃうんか、そんなもん! 子どもに八つ当たりして誤魔化すな!」

 母が大地くんの手を取り「さ、もう寝よか」とそそくさと部屋を出ていく。手を引かれながらも大地くんは、睨みあう俺と姉の姿を気にしていた。

 姉はいきなり俺の腕のエロ本をひったくると、床に向かって叩き付けた。

「そもそもやで。あんたがこんなものを見つかるところに置いてるのが原因やねん」

「なんで俺がお客さんにそこまで気を使わなあかんの。姉貴らが急に戻ってくるから悪いんやんけ」

「あ〜、あんたの存在はほんま教育によくないわ。大地はあんたのことを尊敬しているみたいやけどな。ミツルおじさんに落書きしたときといい、今回の一件といい……あんたは悪影響しかくれへんよな。ほんま人を見る目がないわ、大地は。似たような名前をつけて大失敗したわ」

 姉の放つ失敗という言葉が俺の琴線に触れた。

「人を見る眼がないのは姉貴やんけ。陰で借金こさえるような旦那選んでよ。それが大失敗やんけ!」

 その瞬間、俺は姉に頬をはたかれた。平手打ちとはいえ、気を緩めると泣いてしまいそうな痛さだ。

「彼女を作ることさえできんで、家にばっかおったあんたに、人のことを非難されたくないわ!」

 売り言葉に買い言葉とはまさにこのことで

「か、彼女ならおるわ! つい最近できたんじゃ! でな、これからいっしょに暮らすねん! 俺を見くびるなよ、ボケ!」

 俺は部屋から姉を追い出すと、リュックの中に着替えを詰め込み、プレイステーション3を手提げの紙袋に入れた。

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