第25話 彼女と本当の名前
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客観的に見てもお粗末な性交未満をしてしまった俺だが、生意気にもマヒルに腕枕をしていた。
「なぁ、俺はこのままマヒルって呼び続けていていいの? 俺はまだ君の本名すら知らんねん」
店に通っているあいだは知らなかった。むしろ知りたくもなかったマヒルの本名。正しい名前を知ったところでなにかが変わるのだろうか? いつまでも源氏名を呼び続けることで彼女に演技を続けさせているのかもしれない。俺は彼女の本質の部分に踏み込みたかった。
「テレるね。なんだかスリーサイズを発表するより恥ずかしいよ」
マヒルの本名は佐倉井真冬。名前からして一月か二月生まれに思ったが、誕生日は三月二十三日。なぜに真冬? 俺は首を傾げる。
「その日、たまたま季節外れの寒さだったみたい。適当でしょ? いかにも急場しのぎでつけた名前でしょ。私、寒いの大嫌いだってのにさ」
「そっか、それでマヒルって名前にしたんか」
「マナツって名前にしようかなって思ってたんだけど、すでにその名前を使っている人がいたのね。だからマヒルにしたの。めちゃめちゃ夜型の生活をしているのに、マヒルなんて名前おかしいでしょ?」
「ううん。勇なんて名前やのにヘタレなやつもおるし、真と言う名の嘘つきもおる。名前なんて名付け親の願望やん。君がよければそれでええねん」
マヒルとマフユ。発音的にはかなり近いので違和感なく、本名のマフユへと移行できるだろう。マフユ、マフユ、と彼女の本名をつぶやいてみる。
「お願いだから。今までどおりマヒルって呼んでよ」
「え、でも、店で働いているときのことを思い出してしまわへん?」
「いいの。それより、昔のことを思い出したくないんだよ。知ってる? 名前を変えるだけでね、自分がまるで別人になった気分なんだよ」
ドラゴンクエストでも主人公の名前を『だいすけ』と入力していた俺にはその感覚はわからない。俺は子どものときからずっと『だいすけ』のままだ。
「名前がたくさんあるって、まるで逃亡犯みたいやね」
「逃亡犯ね、そうだね、逃亡してきたのかもしれないね。もう帰る気がしないもんね。あんなところ」
「そうか。俺は地元を離れたことがないな。この年になって恥ずかしい話やけど」
「離れたくないのなら、それにこしたことがないよ」
「そういうもんかね」
それからマヒルは子どもの頃の話を始めた。
俺は半ば眠りかけながら、話を聞いていた。勉強や運動もよくできた自慢の兄のこと。内気でいじめられていた小学生の頃、聞いていて面白いような話ではなく、どこにでもあるようなとりとめのない話だった。
そんな彼女が高校を卒業した年の秋に、京都に一人でやってきた。
その具体的な経緯が話からすっぽりと抜けていて、不自然だった。
京都に来たマヒルはパチンコ屋でバイトをするようになった。時給が高くて寮完備が魅力だったかららしい。ある程度の貯金ができたマヒルはパチンコ屋をやめて一人暮らしを始めた。パチンコ屋の元同僚がキャバクラは楽だと言っていたので、夜の求人情報誌を見て面接に行ったのが『ぱふぱふ』だったらしい。
「求人誌には具体的な仕事内容が書いてなかったんだよ。やり口が詐欺だと思わない?」
「そら、そやないと人が集まらへんのとちゃうん?」
俺は話をオッパイパブ方面からそらしたかった。
「あ、そや。京都に来たのは去年の秋……ってことは十九才? 未成年やん。店でどうどうと酒飲んでなかった?」
「あはは。店で下半身さらけ出した人が変なところでかたいね」
「そっか。アイドルがうっかりブログに書いたら炎上するけど、一般人の飲酒やもんな。そろそろ寝よか」
「え? もう寝るの? 私のこと、興味ないの?」
「今日はもう寝よ」
思えば緊張しっぱなしの一日だった。暖かい羽毛布団とマヒルの人肌が心地よく、集中力が完全に切れていた。
幸せというのは、ただ単純に思い悩むことがない状態のことをいうのかもしれない。じつに快適な時間と空間だった。
そして俺はひさしぶりに他人の枕で眠った。
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