第24話 マンション
★
「な、俺の話なんてしょうもないやろ? 聞く価値がないくらいにへぼいエピソードやろ?」
「へぼいっていうより、大助くんはある意味、乙女みたいだね」
「なんかさ、さっきの職場の話はおいといて。趣味やファッションと同レベルの感覚のくせに『恋に悩んでいます』ってやつが多くて腹たつねん。そういや親しい先輩でさぁ、出会い系サイトで女と出会ってすぐにつきあって二、三ヶ月で別れたりを繰り返していた人がおってさ。失恋するたび電話をかけてきて鬱陶しいからビシッと言うたったこともあったわ。そんなもんは恋とは呼ばない。お別れといっても、ちょこっと傷ついて少しばかり反省して、次が現れたら迷うことなく飛びついて……それは恋愛というより一時的な発情なんだって」
「言うねぇ、その人、先輩なんでしょ?」
「つきあうたびに、頼んでもいないのにメールで画像を送ってくるから迷惑やねん。なにが腹たつかというと、きちんと毎回セックスできてるってことやな。前に怒鳴ったこともあるわ。一回でもセックスしてる時点で失恋でもなんでもないわボケ!って。
……ちょっと最低な発言かもな。でも俺と比べて思い出がたくさんあるだけ羨ましいわ。俺なんか気持ちいい思い、ぜんぜんしてへんもん。まぁ努力もしてへんけどな」
「じゃあ、一回でもエッチしたら失恋じゃないと大助くんは考えてるわけだ?」
「おかしなことを言うもんやね、俺も」
失恋じゃなくしてあげようか?
空耳かと思った。だけどそれはマヒルのほうから聞こえてきた。
「え?」
「だから、失恋じゃなくしてあげようかって言ってんの」
マヒルはうつむき加減に自分の爪をいじっている。
「それは願ったりかなったりやけど、ええのん?」
「最近、ずっとやってないからぎこちないかもしれないけど」
マヒルの顔をよく見ると赤く変色している。少し酔っているようだ。これはいけるかもしれない。ここ数年間、性行為をしていない俺にうまくことが進められるだろうか。ぎこちないどころじゃすまないだろう。そのことが心配だ。恥をかくことになるかもしれない。でも……今までじゅうぶんに恥をかき続けてきたじゃないか。スマートにリードしようなんて考えるな。今はただ、よき流れに身をまかせるんだ。
会計を済ませて外に出る。ここで重要な過失に気がついた。食事代に八千円も使ってしまい、財布の中身は二千円弱。これではラブホテルに宿泊するどころか休憩もままならない。
弱々しくそのことを報告すると、マヒルは自分のマンションで飲み直そうと言った。
★
マヒルの家は山科にあり、タクシーで三十分もかからなかった。近くのコンビニでアルコールやおつまみ類、それにこっそりとコンドームを購入した。
新築のオートロックマンションの八階にマヒルの部屋はあった。2LDKで家賃は十二万円。俺にはとても払えない家賃だ。
「仕事のときは家に帰ったら速攻でシャワー浴びるんだけど、今日は大助くんのおかげでさぼれたしね。先にシャワー浴びる? それとも後にする?」
「俺はどっちでもええわ」
「なんかめんどくさそうだね。じゃあ一緒に入る?」
「あ、勘弁」
女といっしょに入浴だなんて、セックスにおいてペーパードライバーともいえる俺には刺激が強すぎる。俺は先にシャワーを浴びることにした。いつも以上に熱心に体を洗った。女物のシャンプーやボディソープはいい匂いがした。
どうせ服を着ても、すぐに脱ぐことになるだろう。俺はトランクスだけ履いて、ドライヤーで髪を乾かすこともせずに部屋に戻った。
入れ替わりにマヒルが浴室に行ったことを確認してから、手際よく装着できるようにコンドームを枕の下にしのばせておく。そして部屋の電気を豆球だけにしておいた。
それから数分後、しっとりと湿った体のマヒルが俺の隣に入ってくる。石鹸とシャンプーの匂い。店で嗅ぐ香水の匂いとはまた違う。
足をからめてもつれあう。触れ合う肌と肌。店でオッパイを吸っていた時に比べて、マヒルと触れ合っている面積の広さがまるで違う。少しでも多く肌を触れ合わせようと、背中をさすり、胸や首を押しつける。ここにはめまぐるしく回転するミラーボールも、けたたましいユーロビートも、まるで祭りを思わせるボーイの手拍子や掛け声もない。俺とマヒルだけの世界。俺とマヒルだけの部屋。俺とマヒルだけの時間。
軽く歯と歯がぶつかる激しいキスをする。鳥同士がクチバシをぶつけあっているのは見たことがあるのに、犬や猫のキスを見たことがないのは不思議な気分だ。子どもが想像できないようなキスこそが本物のキスだな。映画やドラマによってはベロチューをしないのはまさにフィクションという感じがする。こんなぞくぞくするキスをしている真っ最中だというのに、頭の中では粗雑な思考が自動的に飛び交う。マヒルもなにか考えているのかな? 目と目を合わせる。笑ってみる。マヒルも笑う。大丈夫。この瞬間、通じていた。
「ねぇ、私たちっていったいなに?」
「え?」
質問の意味がまるでわからない。
「大助は私のことどう思っているの? セックスフレンドにしたいと思っているわけ?」
「セックスはしたいけど、セックスフレンドになりたいとは思ってないよ」
「じゃあなに? お母さんやお姉さんみたいに甘えさせてくれる存在が欲しいだけ?」
「母も姉も甘えさせてはくれんかったよ。子どもの頃から、俺のことをキモがっているだけや」
「だからこそ、甘えさせてくれる人がいてほしいとは思わないの?」
「うん、そもそも甘えるのが苦手やねん。ずっと甘えていると不安になってくる」
「だったらなに? 大事なことをなにも聞いてないよ。大助は私のことをどうしたいの?」
なんとなくまわりの意見や境遇に踊らされているだけでここまで来てしまい、自分の意思をなにひとつマヒルに伝えていない。
「好きだ。俺はマヒルとつきあいたい。恋人になりたい」
「たったそれだけ? そんなの小学生にだって言えるよ。どう好きなのか、もっとちゃんと説明してよ」
「初めて会った時、たった十分間で気になる存在になったよ。なんとかしてやりたい。ささえてあげたい。そんな気分にさせられたんやろな。情が沸いてしもてん。で、間隔があいて再び指名した時、情だけじゃないことに気がついた。数多くいる嬢の中で、マヒルは好みの顔やってことに気づいてん。それに大きすぎず小さすぎず、ほどよいサイズの胸も、膝の上に乗せたときのほどよい重さや顔の位置。つまり華奢な体も俺の好みやってん!」
「顔とか体を褒められてもな〜、正直、微妙な気分だよ」
「性格を褒めるのは好きじゃないねん。明るい、優しい、そんな褒め方は簡単やん? 性格を褒めるのに一言で表現することに、俺は不誠実なものを感じるねん。そやねん、なんとなくやねん。なんとなくしっくりくる、ピンとくる、落ち着く、ときめく……そんな表現じゃ納得できんかな? しいてあげれば、演技をしている感じがマヒルにはまるでなかってん。だから、こっちも構えなくてすむねん。
それにしても楽しかったけど、しんどかった。幸せと同時に辛いこともあったよ。幸せと辛いって字は似てるねんな。いろんなことをしゃべりたい恋心と、いろんなとこをしゃぶりたいエロ心がせめぎあったり、店で会えることを喜ぶときもあれば、他の客に触れられてることを想像し、嗚咽をもらすこともあったわ。よくわかったわ。俺は君を独占したいねん。独占は無理かもしれんけど、せめて君の中でナンバー1の存在になりたいねん。当然、マヒルはすでに俺の中で一番大事な存在や。そっか、これが愛してるってことなんやね。愛してるって言い方は気どっているよな。わかってくれ。信じてくれ。俺はマヒルのことが大好きなんや」
いきなりマヒルは爆笑した。
「え? なんでそこで笑うの?」
「今までこんなこと言われたの初めてだったからさ、聞いていて照れくさくなるよ」
「俺のほうが恥ずかしいよ。で、マヒルは俺のことをどう思ってるん?」
「ほんとアホだね〜、嫌いだったら裸でこうしているわけないでしょ〜」
「はっきり気持ちを聞かせてほしいよ」
「何回も指名しているわけだし、好意は感じているよ。で、大助の印象なんだけど、生まれついてのピエロ。見てて笑える。飽きない。でもピエロ特有の物悲しさはないの。どちらかといえばトランプのジョーカー。まあ、好きだよ。面白いよ」
マヒルは俺の顔を引き寄せキスをした。きちんと考えてしゃべれば、きちんと伝わることを実感した。
どうして恋愛をしたがる人間が多いのか、俺なりに考えたことがある。どんなに退屈な人生でも、平凡な人生でも、こと恋愛をすることによって物語の主人公に、誰しもがなれるのだ。
物語の基本、起承転結で言い表してみると、こうなる。
起。気になる女性、もしくは男性と出会う。
承。事件が起きたり、喧嘩したり、仲直りしたりして、関係を深めていく。
転。告白する。あるいは告白される。ここがもっとも盛り上がるところで一番の山場だ。
結。つきあうことになる。もしくはふられる。
人類が太古から繰り返している、もっとも力強い物語。
初対面でキスをしてしまう特殊な恋物語であったが、マヒルの好意が確認できたことで、一区切りがついたと俺は疑わなかった。
俺はマヒルから唇を離した。キスの次は乳首。俺は乳首を攻め始める。店で働いてるときとは違い、いまはプライベート。マヒルも感情が入っているのだろうか? 喘ぎ声は大きく、感度も良好だ。
ふと思い出す。そういや美原もこの乳首を吸っているんだよな。ある意味、間接キス。美原ムカつく。いや待て? 美原だけではない。顔の知らない他のたくさんの客たちにもこの乳首は吸われているのか。いやいや、だからどうした? そんな些細なことを気にするような小さな男じゃないぜ俺は。なにしろ俺はトランプのジョーカー。常識人の考えなど超越した存在だ。大事なのは未来でも過去でもない。今この瞬間だけが世界のすべてなのだ。今、彼女は俺の腕の中にいる。俺はマヒルを独占しているじゃないか。俺はマヒルと重なっていて、マヒルも俺と重なっている。二人しかいないマンションの一室で。つまり、愛しあっているということじゃないか。
だから?
それで?
一日前にマヒルはどんな男に乳首を吸われていた?
二日前にマヒルはどんな男の膝上に乗っていたんだ?
一つの考えがまとわりつき、追い払うことができなくなった。
美原に乳首を吸われたことはまだいい。ムカつきはするが映像が浮かぶので心の整理がつく。だが、不特定多数の客の姿がまるで思い浮かばない。年老いた客、若い客、筋肉質の客、太った客、イケメンの客、キモメンの客……そのどれもが正解であり、不正解でもあった。だが、臆するな。自信を持つんだ大助。不特定多数の男がオッパイを吸ったとはいえ、それはお金を払った客が店の中で行ったにすぎない。そこを俺は金も払わずプライベートで、上半身のタッチだけではなく、これからセックスをしようとしているんだぜ。ライバルが多いぶん、武将クラスのプレイボーイだと言えるのじゃないか?
おめでとう、大助ちゃん。マヒルとエッチできるなんて羨ましいぜ。
おめでとう、大助ちゃん。俺も告白するべきだったよ。
だまれ。お前ら、だまれ。
顔の判別ができない多数のシルエットが亡霊のように揺らめいている。
そのイメージをかき消すために、俺はマヒルの乳首を必死に舐め、女性器を愛撫する。
マヒルはじゅうぶんに濡れていて、受入態勢は万全だ。あとは差し込むだけで一つの愛が完成する。
が、俺のペニスはすっかり枯れていた。
ふにゃふにゃのまま、マヒルの入り口にこすりつけてもよくならない。手でしごいてみても依然としてうなだれたままだ。
「どうしたの? あ、じつは他に好きな人がいて、その人に悪いと思ってるんでしょ」
マヒルは小悪魔じみた表情で俺の頬をつねる。
「あ、いや、なんやろ……男として失格したような……軽く死にたい気分やで」
「やだ、冗談やめてよ。きっと疲れているだけなんだよ。誰にだってそういうときはあるよ。だから悪く考えるのやめよ。ね?」
なんだか頭がクラクラしてまぶたの裏がチカチカする。
俺はマヒルの顔を正面から見据えた。透明感があって美しい。同じクラスにいて、落とした消しゴムを拾ってくれたりしたら確実に惚れるだろう。バイト先にいたら、みんなでいっしょにバーベキューや居酒屋に出かけたりして、その時やはり彼女のことを好きになるんだろう。
「なぁ……前からずっと聞きたくても聞けなかったことなんだけど、マヒルはどうしてあんな店で働いているの? 両親は知ってるの?」
「……」
「ごめん、答えたくないんやったら、ええわ」
「違うの。ねえ、なんで『あんな店』とか言うの? 『あんな店』で働いていなけりゃ、そもそも大助は私と会えなかったんだよ。そこは否定しないでよ」
俺とマヒルはオッパイパブで出会った。それはなんて滑稽な恋の始まりだろうか。
「なぁ、マヒル」
「なに?」
「豆球とはいえ、暗さに目が慣れてきたわ。真正面から見ると照れるねん。俺、セックスに関してはペーパードライバーみたいなもんやからさ」
部屋の電気を完全に消してもらい、月明かりすら入ってこないようにカーテンをびっちりと閉めてもらった。
「ねぇ、私が店で働いてることを気にしているの? ちゃんとウガイして歯を磨いたよ。シャワーだって浴びたよ。新陳代謝だってしてるから、仕事してたときと今の細胞はたぶん別の細胞なんだよ、それに……」
「もういい、言葉なんて必要ない」
俺はマヒルにキスをして口をふさいだ。
暗闇であることをいいことに、俺はマヒルという個人をとりはらい、記号としての女を抱いている認識で挑んだ。さっきまでは『マヒルにキスをする客のシルエット』に苦しめられていたが、今度はマヒルを『一人の女のシルエット』としてイメージすることできちんと勃起した。オッパブ嬢のマヒルと指名客の小日向大助という固有名詞をとりはらったのだ。今の俺たちはただの動物のオスとメスにすぎない。だから滑稽さや悲しさなんてものは、なんにもないんだ。
俺は勃起を維持したまま、枕の下に手を伸ばす。用意していたはずのコンドームがなかなか見つからない。
「あれ、どこにやったっけ……」
「ん、なに?」
「枕元にコンドームを用意してたんだけど」
なにかの拍子に床に落ちてしまったのだろうか。電気をつければ、探しやすいだろうが、勃起が中断してしまうのは避けたい。
「別につけなくっていいよ。大助が相手だったら、生でしたっていいよ」
少し鼻にかかった子どもっぽい声。
マヒルの声だ。
自分自身にかけていた魔法はとけ、ただのオスメスは大助とマヒルにもどり、意味が生まれてしまった。
そのうえ、性病感染や妊娠の可能性が頭をよぎり、パンクしたタイヤのようにへろへろと萎えてしまった。
あんなに、下を触ることに執着していたというのに、俺という人間はこんなにもナイーヴで役立たずだったのか。
「ごめん。今日は体調が悪いみたいで……役立たずと罵ってほしい気分やわ」
俺はマヒルの手をとり、自分のペニスを握らせる。
「いいよ。もともとそんなにエッチは好きじゃないし、こうやって裸でくっついているだけで、なんか幸せな気分になれるし」
「……ちょっと、こう、俺の頭をぎゅっとしてくれないか?」
たいして大きくもないマヒルの胸に、俺は顔をうずめた。
後頭部を優しく撫でられた俺は、懐かしい気持ちになり、少し泣いた。
「あれ、泣いてんの? 初めて会ったときも泣いてたでしょ」とマヒル。
「え? そんなことまで覚えてるの?」
「やっぱり君だったんだね。君って自分で気づいてないけど、ある意味ナルシストだよね。知ってた?」
「初めて言われたわ。覚えとく」
自分では自分のことがちっともわからない。わかっている気になっていても、それは自分の想像や希望だったりするのだ。自分がどんな人間なのかを判断するのは友人や家族、それに恋人の視点なのだ。それらのすべてが正解だとは思えないが、マヒルの言うことは信じてみよう。
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