第23話 そこらにおちてる恋
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二十三才のころ、俺は正社員だった。とはいえ自主的に面接を受けて働き始めたわけではない。職を得たキッカケは一人の酔っぱらいである。ある夜、美原の家に遊びに行ったら美原の父が顔を赤くして酒を飲んでいた。
美原父は俺と美原を呼びつけ「おう! お前らも飲んでいけ!」と、地方の銘酒を俺たちに振る舞った。自分の父親が友人にからむ姿を見て、美原はひどく嫌がっていた。酒が入ると上機嫌になるタイプなのか、美原父はやたらと俺のことを褒めてきた。
「お前という男には見所がある。お前一人にはずばぬけた資質はないかもしれない。だけど、その飾らぬ態度が他人を魅了してやまない。さしずめお前は三蔵法師か劉備玄徳タイプやな。わかる人にはわかる。そして慕われるタイプや」
俺は徹底的に褒められた。褒めちぎるとはまさにあのことだろう。そして美原父は用意していたであろう決めゼリフをはいた。
「どうや大助! 俺の会社で働いてみいひんか! お前ならいける!」
正直、友人の父親と同じ会社で働くことに、気乗りはしなかった。だが、断る理由も見つからない。流されるまま俺は働くことになってしまった。
仕事内容は呉服問屋の営業だった。営業といっても飛び込みで新規開拓する類いのものではなく、決められたルートを車でまわるだけの楽な仕事で、長年つきあいのあるお得意様に着物や扇子などを届けるだけだ。笑顔が苦手な俺には、客先から難癖をつけられないかと不安はあった。が、なにも心配することはなかった。ほんの少し年上の人間からは嫌われることの多い俺だが、四十代、五十代の人間からは無条件に好かれた。特にオバはんからはモテたといっても過言ではないだろう。高い玉露や和菓子を出され、世間話に興じることもしばしばで、そんなおりには腕時計をこまめにチェックしなければならなかった。
早く会社に戻った時には事務の手伝いをしていた。コピーした書類をホッチキスで留めたり、簡単なことを手伝っていた。
俺はその事務の女性に恋をしていた。
宮本くんが以前、愛の三要素という話をしていた。一つめは『情』相手の駄目なところを見て、直してあげようとか、自分がいなきゃこの人はなにもできないと思ったり、依存にまつわる感情だ。二つめは『性欲』これはもう、動物的な『やりたい』という本能に根ざしたもので、こと十代は『性欲』と『恋』を混同しがちだったりする。そして三つめは『恋』相手の容姿や性格、才能などに憧れたり、好ましく思えたりする、実にシンプルでわかりやすい、好きという感情。
そういう意味での恋を俺はしていた。
女性の名前は磯貝さん。下の名前は覚えていない。下の名前で呼んだことは一度たりともないからだ。
彼女は俺より三つ年上の綺麗な人だった。清楚という言葉があてはまるが、けして地味なわけではなく男ウケのする髪型や今風のメイクもきちんとおさえていた。
一言であらわすと『綺麗なおねーさん』華奢で涼しげな目元、かつ愛らしさもそなえていて、動物で例えると『鹿』といったところだろう。がさつな俺に幼少の頃から敵対心を燃やし続け、思春期に入る頃にはまるで汚物のように俺に接していた実姉とは大違い。コピー用紙で指を切ったとき、彼女は絆創膏を巻いてくれた。そのとき「痛いの痛いのとんでいけー」とおまじないをかけられた。それと同時に、恋のまじないまでもかけられてしまった。
ある日、磯貝さんは『大事な話がある』と持ちかけてきた。会社の人間は出払っていて、俺と彼女は二人きりだった。ホッチキスを鳴らすのをやめ、俺は彼女の話に耳をかたむけた。
彼女からの愛の告白を俺は期待していた。もしくは俺にしか話せないような悩みを打ち明けてくれることを。
恋物語の進展を期待している俺に磯貝さんは言った。
いま、わたし、不倫してるの。
相手は同じ会社の芦原さん。九州にある問屋の若旦那で、うちの会社には代を継ぐ前の修行として単身赴任をしていた。三十過ぎの色黒ですこし筋肉質な男だった。口数が多く、適度に遊び慣れている感じがした。人間的に薄っぺらな印象を抱いていたが、芦原さんの方は俺のことを妙に気にいっていたので、会社内では仲良くしていた。おごりでキャバクラに連れて行ってもらったこともある。
そんな芦原さんと磯貝さんは二年以上、肉体関係にあったという。肉体関係……なんとも下劣な四字熟語だろう。どこで知人に会うかわからないので目立つところでデートするのは避け、週末に人目を忍んでラブホテルでおちあう。そんな関係を二年にわたって続けていたのだ。
それがもうすぐ、三月いっぱいで芦原さんは九州に戻って跡を継ぐことが決定した。それからの彼は妙によそよそしくなり、そのことについてなにも触れないし、私は辛いのだけど、どうすればいいのだろう? とにかく会社に来るのがとても辛いと彼女はつぶやいた。
磯貝さんにほのかな恋心を抱いていた俺としては、そのカミングアウトはまさしくカウンターパンチだった。残酷ですらあった。完全にノックアウトされ、立ち上がる気力もなかった。どうすればいいもなにも、別れるしかないやん? 仕事ができて几帳面で笑顔も素敵で周りへの配慮もできる。そんな賢い大人の女性が、こんな簡単なことさえわかっていないのだ。
「ねぇ、私どうしたらいいの」
磯貝さんは俺の手を握ってきた。涙で瞳が潤んでいたせいか妙に色っぽかった。俺はわずかに勃起した。そのときに俺は好きだと告白すればよかったのだ。言った瞬間は困惑するかもしれないが、しばらくすれば快く交際の了承が得られていたかもしれない。彼女の依存の対象が芦原さんから大助くんに移行するだけなのだ。彼女は俺にすがってきている。傷ついた彼女は誰かにもたれかかりたいのだ。
だが、その時の俺は彼女の手を振りほどいてしまった。
「でもさ、妊娠させられへんかっただけマシやん、ラッキーやん」
傷心の彼女にたいして、俺は最低な言葉をぶつけた。
次の瞬間、俺は頬をひっぱたかれた。紙鉄砲のような気持ちのいい炸裂音だった。女は怒ると平手打ち、まるで安っぽいドラマのようなシーンが、我が身にふりかかるとは思わなかった。彼女は唇を噛み締め、まっすぐ俺を睨みつけていた。彼女からすれば完全に裏切られた展開だろう。ふだんの磯貝さんと比べると鬼女そのものの形相だったが、美人だけあって、そんな顔ですら絵になっていた。
「煙草吸ってくる」
そう言って俺は逃げた。顔を泣きはらしてもいないのに、洗面所で顔を洗ってみた。鏡を見つめると、いつもとまったく変わらない俺の姿があった。
うかつにも動揺してしまったが、こんなことはたいしたことではない。おそらく全国各地のあらゆるところで行われている陳腐なイベントなのだ。踊るアホウでも見るアホウでもない、踊っている自覚のないアホウ、踊らされている自覚のないアホウたちが本気で傷ついたりしているんだ。
俺は失望していた。
彼女のカミングアウトを受けとめきれなかった俺自身に。俺の小さな器からはいろんな感情があふれかえってしまった。そして俺の憧れを一気にくつがえしてしまった彼女にたいしても失望していた。伏線をはったり情報を小出しにしてくれてもよかったろうに、いきなり冷たいプールにつき落とされて俺は心臓麻痺だ。彼女を傷つけた芦原さんにたいしては、なんの感情も抱かなかった。『単身赴任中に浮気をする男』という記号的存在にしか見えず、人間味を見出すことは難しかった。もともと彼にたいして、死ぬほど興味がなかったのもあるだろうが。
三月末で芦原さんが辞め、六月に磯貝さんが辞めた。彼女の希望で送別会は催されなかった。代わりに入ってきた事務員さんは年齢も風貌もみごとにオバはんだった。パンチパーマをかけた、オッさんみたいなオバはんだったため、特別な感情はいだきようがなかった。
そして俺は十月で退職となった。
不景気による人員削減であり、俺の勤務態度には問題がなかった。車でまわる箇所も減り、平社員である俺から見ても経営が傾きつつあることは感じとれた。仕事を紹介した手前、美原父は涙まで流して俺に謝っていた。土下座までしかけたので阻止をした。俺は自分が解雇されることにかんして無関心だった。美原父の背中をさすり「これから、きっとええことあるから、泣いたらあかんて」と逆に慰めている始末であった。
磯貝さん以降は、コンパやバイト先で可愛い女性に出会うことはあっても、進展することはなかった。いや、進展させる意欲がそもそも薄かったのだ。もともとマメな性格ではなく面倒くさがりな俺。電話番号やメールアドレスを交換したところで、なにを話したものかわからないし、モーションを起こすことはなかった。
踊るアホウではなく、見るアホウですらなく、傷つけることも傷つけられることもない『部外者』というポジションに安心していたのだろう。だけどそれって生きていると言えるのか? 変化を好まないなんて、死んでいる状態と変わらないのじゃないか? そんなことはわかっている。だからといって俺は恋愛を賞賛する気にはとてもなれないのだ。
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