第19話 仕事中の妄想

       ★


 店を出ると美原は1Fのロビーで煙草を吸っていた。

「どしてん? あれだけきっぱりと延長断るなんて珍しいやん? お前、具合でも悪いん?」と俺。

「いや、なんつーかな……ちょっと目が覚めたとでも言うのかねえ……これからは行く回数を減らそうと思ってね」

 風が強くて肌寒い。俺たちは近くの喫茶店に入ることにした。

「いったい店の中でなにがあったん?」

「たいしたことがあったような気もするし、何もなかったような気もするし、まあ、なんていうんかな……」

 美原はポテトをつまむ手をいったんとめると、語りだした。

「席についた瞬間にね。気づいたんや。ふだんとは髪型がおおいに変わってたんや。頭の上部から後頭部にかけてさ、わっさりと髪のボリュームが増してるのよ。盛り髪っていうのかね。普段よりも髪の量が倍近いのよ。ちょっと不自然やねん。だから聞いてみたんや。前よりゴージャスやけど、どしたん、それって。

 そしたら運がよかったというべきか、ユウナはその日たまたま撮影をしていたらしい。撮影、なんていうとタレントみたいやろ? なんの撮影か聞いてみたら、当然、テレビに出るわけではなくてさ……お前、店の入り口の壁、見たことある?

 店の女の子の写真が十人ほど埋め込まれてるやろ。ホームページを見たことある? 働いている女の子のグラビアがあるやろ。つまり、そういうことや。これからユウナはおおっぴらに顔を出すことが決定したということや。

 これがいったいどういうことなのか、意味わかる?

 今まで俺は、彼女が店を辞めて、俺と一緒になることを夢想したりもした。いや、ほんま、イタイやつやなって笑ってくれてもかまへんわ。彼女は店を辞めるどころか、やる気満々や。野心に溢れているよな。これはもう『海賊王に俺はなる!』と豪語しているのと変わらないよな。

 それを知ったとき、俺はどう思ったか。俺はどう感じたか……すごく恥ずかしいことやけど、単純にビビってしもてん。ユウナから背を向けてダッシュで逃げ去りたいと思ったわ。だって、そんなん……顔写真を載せるような子、口説ける気がせーへんやん! これから指名する客も当然増えていくやろしさぁ、ライバルが増えていくだけやん! 不利になっていくだけやん! なんていうか、店にあんまり出勤してなくて、片手間にバイトしてますって子のほうがよかったわぁ!」

 プロ意識が高いと口説きづらい、それは俺にも共感できる。バイト感覚で適当に働いている女の子の方がなんとなく口説けそうな気がする。

「これさ、綺麗に撮れてるやろ? ユウナからもらってん。思いっきり現実感ないやろ?」

 美原が見せてくれたユウナの画像は、光をめいっぱいあてられてキラキラとしていた。

「こうやって見ると、プロフェッショナルって感じやな」と俺。

「そうやねん。今までの彼女の言動も、計算しつくされたエンタメという感じがして、今まで俺が褒められた部分もすべて嘘にしか思えてこないもん!」

「いや、彼女もプロである前に人間やから、すべてがお世辞ということはないやろ。あきらかな醜男にかっこいいなんて言うたら誰でも心が痛むやろ?」

「問題は俺の受けとめ方が変わってしまったことや。もう彼女としゃべっていても疑惑がいっぱいで楽しめない気がする。幸い、画像をもらったことやし、彼女のことは思い出にしようかな……なんて。なあ、遠くから応援しているのも、それも愛やんな?」

 もっと近づいて、ぶざまに傷ついてこその愛だ。そう言ってやりたい気持ちに駆られたが、美原母への義理もあるので、そこは肯定しておいた。


 翌日も仕事するのが苦ではなくなっていた。

 失恋と呼べるものかわからないが、美原の傷心も俺にとっては完全に他人事。美原と同じ道をたどることなど想像すらしていない。

 前の日はオッパイのビジョンを脳に思い浮かべ、ゆるく勃起しながら作業していたが、この日は違っていた。ほんの少ししか会話できない時間を最大限に有効活用しなくてはならない。嬢との会話の受け答えを脳の中でイメージトレーニングしていたのだ。

 まさにシャドウ・ボクシングならぬ、シャドウ・セクキャバである。

 嬢のことを深く知るために趣味を聞く。むこうも聞き返す。その時にお前はどう答えるのか? それにたいする嬢のリアクションも想像し、好印象をあたえる一番のパターンを選び出していた。

 脳内のイメージだけにおさまらず、マスクの下で口をモゴモゴ動かしていた俺は、はたから見たら危ないやつだったかもしれない。

 そんなこんなで四日間はシャドウ・セクキャバで満足していたのだが、五日も経つとさすがにこらえきれなくなり、店に足を運んでしまった。一週間は我慢するつもりだったのに……。


       ★


 その日の仕事終わり、初めてマヒルにメールをした。文面はシンプルに『大助です。今夜、ひさしぶりに店に行こうと思うんやけど出勤?』一分以内に返信が来た。『今日は七時出勤だぉ! 水着デーだから楽しみにしててね♥』とシンプルな内容。もう少し文面に色をつけてほしかったが、即レスしてもらった喜びのほうが大きかった。


 送迎バスに乗り込み、俺は一人考えていた。

 水着デーというフレーズが気にかかったが、はたしてそれは歓迎すべきデーなのだろうか?

 下着デーならば迷わず喜ぶところだが、水着にはいろいろな種類がある。ビキニタイプなら露出度的には下着と変わらないが、マニアしか喜ばないスクール水着もあるし、腰布つきなど論外だ。

 かりにビキニだったとしても水着と下着では生地の厚さはどうだ? ふつうのパンツと比べると、股間の上に股間が重なったときのフィット感が減るのではないのか?

 送迎バスの中ではそんなことをずっと考えて悶々としていた。


 この不景気だというのに店は大盛況らしく、三十分待ちを申し渡された。これも水着デーのなせるわざだろうか。美原が隣にいるのならともかく、一人で三十分は長く感じてしまうだろう。一瞬、帰ろうかと思ったが、マヒルにメールしてしまったこともあり、もはや引き返せなかった。

 ひとまず入り口付近のソファに案内された。すでに先客が四人ほど座っていた。壁には写真がかかっている。その中には美原が指名していたユウナの姿も増えていた。

 客の顔をチラ見する。見た感じ四十代が多い。俺はまだ若い部類なのかもしれない。それにしても待っているあいだは退屈だ。音楽再生プレーヤーを使おうにも、店の中にはすでに大音量の音楽がガンガンにかかっている。テンポの速いトランス系の曲が多くて落ち着かない。鞄に入れていた小説を読もうとするも、天井にはミラーボールが回転しているため、本のページの上を光の玉がギュンギュンと移動していて非常に読みづらい。

 しかたがないので携帯をいじってみる。が、実際には見たいサイトも思い当たらないので、いじっているフリをしているだけだ。


 十分ほどすると、お客様こちらにどうぞと店の真ん中のソファに案内された。

 思ったより早い。三十分も待たずにすんだのかも。

 俺の右隣には四十代くらいの神経質そうなサラリーマンがソファの背に背広をかけて足を組んでいた。と、長身のスレンダーな嬢が白いビキニ姿でやってきた。嬢は右隣の客に手をふっている。嬢が席に着く。男は嬢の肩に背広をかけてやる。嬢は客の肩に頭をもたせかける。

 そしてそのままの体勢で、キスをすることも乳を揉むこともなく、三分以上経過してしまった。

 腕時計のストップウォッチ機能で計ったから間違いない。驚くべきことに会話すらしていないのだ。

 白ビキニ姿の嬢が、まるで下着同然のように見えることもあり、その光景はさながら『レイプされかけていたところを助けてもらった後』みたいになっているのである。

 これぞ、まさしく真実の愛だ。

 一瞬、俺はそう思ってしまった。が、よくよく考えてみればそれは初心者の見解。内心では嬢も『なにもしなくていいカモ客』程度に思っている可能性もあるし、客の左手にはよく見ると結婚指輪があった。

 結局、二人は十分間そのままだった。見ている俺もどうかと思うが、客の愛は本物なのかもしれない。しかし真実の愛というものは、当事者以外から見ると、たいてい間違っているような気がする。


 二十分も待たされているにもかかわらず、誰も来ない。あと十分は待たされることを俺は覚悟した。しばらくは女の子とイチャイチャしている他の客を見て羨ましがったり、近い未来に期待をよせたりしていた。が、ずっと一人でいるうちに哲学的な深みに落ちてしまっていた。

 俺はいま、どうしてこんな場所にいるのだろう? 他になにかなすべきことがあるんじゃないのか? なすべきことってなんだ? うぬぼれるな。そんなものはなにもない。じゃあ俺はなんのために生まれてきたんだ? もしかして俺は、死んでしまっても差し支えのない存在なんじゃないか? いや、気づかぬうちにすでに死んでしまっていて、永遠にオッパブ嬢を待つ地獄に堕ちていたらどうしよう?

 ……このように、たった数分間にぎやかな場所に放置されるだけで、ネガティブになってしまうのが俺の悪癖だ。

 だから、マヒルが来た時には少し涙目になっていた。

「あ〜、大助くんでしょ〜。ちゃんと覚えてるよ〜」

「ありがとう、覚えていてくれて。軽く死にたくなっていたよ。それにしても、水着デーってだけでこんなに混むのやな。みんなそんなに水着が好きなのかね」

 マヒルはビキニ姿だった。とはいえ下にはスウェット地の短パンを履いていて、上にはアロハシャツを羽織っていた。まわりを見渡しても、完全にビキニオンリーの女の子はむしろ少ない。

「これ、水着デーかぁ、水着っていうか、海の家って感じがするな」

 少し不満げに俺はアロハをつまむ。それでも胸元からヘソまわりにかけて素肌が見えているのは魅惑的ではあった。

「ごめんね。暖房効かせていても、ずっと肩出してたら冷えちゃうんだよ。風邪ひいたりしたら大変だからさ」

「しかし混んでるね。今日は盛況やね。やっぱ女の子もたくさん働いてるの?」

「うん、普段よりはたくさん出ているけど、女の子はみんな出勤するの嫌がってるんだよ、内心では」

「え、なんで? 普段よりもうかるんじゃないの?」

「もうかるのは店だよ。会社だよ。私たちにはあんまり関係ないんだよね。水着も自分で用意しなきゃならないし、それにせっかく指名してくれても、お客さんも待つのに疲れて延長しないで帰っちゃうのね。指名してもらっても延長してもらわないと成績にはならないのよ」

「あ、そ〜なん。じゃあ指名料の二千円はいったいどこに消えているんや? ってかそんなことを客に教えてもいいの?」

「あたしから聞いたって他の子に言わなきゃいいよ。ずっと働き続ける職場でもないしね」

「そっか、指名だけじゃ駄目なんや。じゃあ今日は延長してかんとね」

「いいよ、そんなの。気にしなくていいよ。延長してからもしばらく待たされるよ。それよりさ、そのぶん別の日に来てくれたほうが嬉しいよ」

 その言葉だけでじゅうぶんすぎた。少なくとも彼女は成績に執着してはいない。そして、ありのままをぶっちゃけている。店の同僚にとっては迷惑な言動をしたのかもしれないが、客の立場からすると、騙されている気分がまるでしない。

 見栄をはって延長をするという選択もあったが、あえて俺は1セットで帰った。店もさらに混んできていたし、それにここはマヒルの指示に素直にしたがっておくのが誠意だと感じたからだ。


 幸せな気分で電車に揺られながら、ふと俺は二年前のことを思い出した。

 そのころ俺はパン工場で働いていた。パン工場でも今の職場と同じように、ヘアネットとマスクを着用していた。

 宇治市よりもさらに田舎に工場はあった。田んぼの真ん中にぽつりと建てられた大きな工場で、周囲にはコンビニも飲食店もなく、淋しいところだった。

 辺鄙な場所のせいか、奈良や滋賀など隣の県から時間をかけて車で通勤してくる人も、少なくはなかった。

 ある朝、工場の駐車場にパトカーがたくさんとまっていた。どうやら工場の駐車場で死体が見つかったらしい。車の中で手首や首の太い血管を自分で斬りつけて自殺したらしい。

 上の人間の判断でその日の仕事は休みになった。一日働いた計算にしてくれるのか気にしながら俺は帰った。

 死んだのは勝浦くんという二十三才の若者で、俺も知っている人間だった。

 喫煙所でよく見る顔で、タバコの火を貸してと頼まれたのがきっかけで、彼とときどき話をするようになった。話といっても天気の話やスポーツの話、残業が続いて辛いだとか、その程度の話で、たがいのプライベートに関する話はしなかった。

 だから彼がどうして死んだのかはわからないし、悲しくはなかった。仕事を辞めた人間と二度と顔をあわせなくなる感覚に近い。なんというか、彼の死をうまく実感できていないのだ。

 午前中に家に帰った俺は、工場で自殺者が出たかニュースで見なかったか母に聞いた。俺以上のオーバーリアクションで母は驚いていた。そんなニュースは見なかったという。

 年間に三万人も自殺する日本のこと、つまり一日あたり八、九人が自殺している計算になる。

 俺は彼がどうして自殺したのかわからないし、なぜ誰にも相談しなかったんだと嘆く気もない。

 ただ……一度くらいは晩飯に誘っても、よかったのかなとは思う。


       ★


 マヒルの指名を繰り返していくことで、彼女のことをオッパイパブ嬢としてではなく、一人の女性として恋い焦がれてしまった。

 朝、目が覚めると、俺はすぐにパソコンを起動して店のホームページを開くようになった。以前の俺はそんなにマメではなかった。仕事帰り、突如、店に駆け込みたくなったときのために、事前にマヒルの出勤状況を把握しておくのだ。出勤表にマヒルの名前があるのを見るだけで、たとえいくら仕事が辛くても耐えることができた。

 仕事中の俺はマヒルのことを思っていた。想像の中の俺とマヒルはいつも出会う暗い店内ではなくて、土産屋やブティックのならぶ新京極通りでデートしているのだ。

 彼女、私服姿はどんなだろう。やはり可愛いのだろうか。

 仕事中だけでなく、駅の階段を上っているときも、部屋でゲームをしているときも、ベッドに横になるときも、トイレの中以外では四六時中、隣にマヒルの姿を想像した。一人、服屋で上着を選んでいるときは「も〜! その色は俺には派手やってー!」と大声を出してしまい、店員を驚かせたことがあった。

 一人ごとが多い人間はおそらく淋しいのだと思う。

 そして彼女の面影が薄まってしまう前に、また店に行く。


 喜びと苦しみは表裏一体のコインであった。出勤表にマヒルの名前がないときは、会えない悲しみと同時に他の客に乳を吸われていないという安心感があった。彼氏がいてセックスをしている可能性など俺は微塵も想像していなかった。都合の悪い可能性はスルーしてしまえるのが恋の偉大で愚かなところなのだ。

 マヒルの出勤日は、仕事が終わってからキスができる希望を与えてくれたが、毎日毎日、店に行ける金などない。ゆえに店に行けない日、店に行かない日は送迎バスの中で俺は悶々としていた。これから彼女は知らんオッさんどもにキスをされてオッパイを吸われてしまう。白雪姫は王子様にたった一回キスされただけで玉の輿にのり、安泰な生活を手に入れた。それにひきかえオッパブ嬢たちのなんという要領の悪さ! だけど俺は断言する。ビッチなのは白雪姫のほうだ。高尚なのは数多いキモ客たちの相手をしつつ、身も心も傷つけながら夢を与えてくれるオッパブ嬢なのだ。そしてなにより皮肉なことに、俺もまた彼女のことを苦しめている大勢のキモ客の一人かもしれないという可能性なのだ。


 世間ではチャラチャラとした大学生活を謳歌し、サークル内でイケメン彼氏をゲットしたり、バイト先のファミレスでこれまたイケメンと恋愛模様を繰り広げている女子が星の数ほどいる。マヒルくらいの器量があれば意中の男性をふりむかせることなんて、わけはないだろう。

 なのに彼女はオッさんどもとキスをしている!

 神よ、もしお前が存在するのなら地面に引きずりおろしてボコボコに殴ってやる! ふだん暴力に訴えることのない俺ですら、激しく気持ちが昂った。

 恋は楽しいだけではない。楽しいだけではなく、切なさや悲しさといったスパイスが必要なんだ。こんな気持ちは自室に引きこもっていた時にはけして味わえなかった。そのことだけでも、マヒルに感謝しなければならない。そう、当たり前のことだが、俺はいま、生きている。

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