5章 ヘビードリンカー
第18話 マヒル
翌日の仕事中は珍しくウキウキとした。エサを目当てに芸を披露するイルカみたいなもので、直後に楽しいことがひかえていると、退屈な仕事にも身が入る。シンプルで力強い意思がみなぎってくる。
夜の八時に四条大橋で美原と待ち合わせた。『ぱふぱふ』に行くのは約二ヶ月半ぶりだ。
「腹減ってるけど、先にラーメンでも食ってかへん?」俺が提案すると
「ラーメンはやめとこうぜ。口がくさくなるから女の子に失礼や。うどんぐらいにしようぜ」と熟練者らしい美原の返事。さすが通い慣れていやがる。
最初に目についた立ち食いうどんに俺たちは入った。
うどんをすすりながらも会話は弾む。
「今日の俺は本気や、なぜなら俺は今、パンツを履いていないからな!」
美原は得意げな顔をした。
「なんでやねん。履けよ、パンツ」
「女の子とくっつくんだぜ。一枚でも生地を減らしたいのが人情ってもんやろ?」
「恥ずかしいやつやな……で、美原は今日は誰を指名するの?」わかっていて、俺はわざと聞く。
「そらお前、もちろんユウナちゃんやんけ!」
「ユウナって……あぁ、俺も乳を吸うたことのある女か」
当然、俺はこのセリフが言いたかっただけ。
「しばくぞ。そういうお前はどうするん?」
「どうするっても……二回しか行ってへんから女の子も知らんしな。今回もフリーでええわ」
入店時に女の子を指名すると二千円も高くなるのだ。
「そやから、お前はフリーターやねん」
「なんやねん。フリーターって」
「俺はな。指名をしないでいつまでもフリーで入店するやつのことをフリーターと呼んで軽蔑しているんや。たしかに指名料がかからんぶん、安くで遊べるし、多くの女の子とパーッと楽しめるのかもしれない。けどな、どうせ遊ぶのならフトコロに飛び込んでみろよ。実際に恋をしてみろよ。恋をすることにお前はビビってるんやろ? 今までに気になる女の子の一人や二人、おらんわけやないやろ?」
なぜに指名をしないと答えただけで、こうも美原に挑発されねばならないのだろうか。指名をするという行為は、パブではなく一人の嬢にハマるということだ。それは、よりせまく、より深く、のめりこんでいるわけで、美原の母の言葉を借りるならば「ミイラとりがミイラになりかねない」だが、それこそがまさに踊るアホウの理念にかなっているのかもしれない。
★
最初に店に行ったとき「心が折れちゃいそうだよ」と淋しく笑った女のことが俺は忘れられなかった。他の嬢たちとちがい、体だけでなく、ほんの少し心を触れ合えた気がするのだ。
名刺を捨てなかった俺は手のひらにある二枚の名刺を見て迷っていた。
一枚は『みかん』もう一枚は『マヒル』という名前。この二人のうち、どちらかが彼女なのだが、ここで判断を誤ると、手しか握らせてくれなかった狡猾な女とあたってしまう。
常連の美原に聞いてみても、指名以外の女とは基本的に会話はせず、オッパイを舐めているだけだからわからない、と、彼らしい返答だった。
もはや頼れるのは己の脳だけ。みかんという名からは愛媛や熊本など南国を彷彿とさせる。マヒルはどうだ? 思いっきり夜に働いているくせに真昼だなんてユーモラスなセンスに好感がもてる。
「マヒルさん、ご指名で」ボーイに告げ、俺は店の中に入った。
店内はそこそこに混んでいた。ボーイには十分ほど待つことを告げられたので、美原とだらだら世間話をする。友人がいると女の子が来るまでに緊張しなくてすむ。
先に美原のほうに女の子がやってきた。ユウナちゃんだ。なんとなくバツが悪いので、おしぼりで顔を拭くフリをして隠れる。少し遅れて俺のもとに女の子が来る。華奢な体につぶらな瞳、俺が会いたかった女だった。
彼女は俺の顔を見て、困ったように笑った。
「ごめんね、あたし、お客さんの顔ってあまり覚えてないの。前にも来てくれたっけ?」
なけなしの金をはたいて遊びにきている客は、嬢の顔を一人一人、ヘルプにいたるまで明確に覚えていて、あげくにその記憶でオナニーしたりもするが、出勤のたびに何人もの客を相手にしている嬢のほうは、一回相手した程度の客の顔などいちいち覚えていないんだろう。まして俺がマヒルと相まみえたのは二ヶ月以上も前のことだ。
「そら、しゃあないよ〜。前に来たのは八月やもん」
「そーなんだ。あたしなんかに興味をもってくれて申し訳ないよ〜」
「近いうちにまた指名するからさ。そのときに覚えていてくれてたらかまへんよ」
「うん、顔はもう覚えた。覚えとく。名前はなんていうの?」
「小日向、大助」
「コヒナタコヒナタコヒナタコヒナタコヒナタ、ダイスケダイスケダイスケダイスケダイスケ」
マヒルは指を折って数えながら、俺の名前を連呼した。
「よし、もう覚えたからね!」彼女は口をいーっと横に広げて笑った。目がなくなった。
「あはは。君、あんまり賢くないやろ?」
「え〜、なんでそんなことを言うかな〜」
マヒルは俺の肩をペチペチとたたいた。
俺は思った。彼女は俺の顔を覚えていないと、わざわざ正直に言った。適当に覚えているフリをしたり、誤魔化せばいいものを、嬢としては明らかにマイナスポイントにしかならない言動だ。そして彼女自身、失言をはいた自覚がまったくない。
そのことに俺は好感を持った。
キャバクラ的な場で、やたらと女の子から褒められたりすると、この子は指名が欲しいだけで、本当の言葉を何一つ言ってないのじゃないかと懐疑的になる。が、マヒルにはそういった要素をまるで感じなかった。
「じゃあさ、あたしが大助さんに質問するから、それに答えて。次回に来たとき、ちゃんとあたしが覚えていたら、あたしバカじゃないから、ね」
次回来たときも、お金を払うのは俺なんだよな。と思いつつも、彼女の質問のまま俺は自分の趣味や血液型、好きなタイプなどを答えていた。
「うん、大助さんのことは一通り覚えたよ」
「じゃあ、次回来た時に確認な」
「だいじょうぶ、あたし、本当に興味のある人のことはちゃんと覚えているから」
そう言うとマヒルは名刺の裏にメールアドレスを書き入れ、俺に渡した。
「あたし、毎日出ているわけじゃないから、店に来るときは連絡ちょうだい」
マヒルは週に四回ほどしか出勤していないらしい。今日、彼女と店で会えたのはちょっとしたラッキーだったというわけだ。
会話だけで、キスもしそびれたまま、交代の時間が来てしまったが、まあいい、今日は指名しているんだ。また後でもどってくる。
ヘルプの女がやってきた。
さっき、キスもオッパイも見逃してしまったぶん、思う存分に揉みしだいてやろうと思ったが、女は席に着くなり、名刺も渡さずに「マヒルちゃん指名したんでしょー。あの子可愛いよね〜。天然やし性格もいいよ〜」などと、指名嬢を褒めたたえる発言を始めたのである。
そんなことを言われたら……オッパイ吸いにくい! もしここで手を出したら『あの客はガッつく人』とマヒルに情報が渡ってしまいそうだ。結局、ここも会話だけでお茶をにごしてしまった。
次に来たヘルプの女は手足が長くスレンダーで、アンニュイなエロさを持った娘だった。名刺を渡され、自己紹介もほどほどにキスをする。あまり積極的じゃないので、じゃあオッパイを攻めてやろうと、さっそく膝に乗ってとお願いする。小柄なマヒルと違って顔の位置が高い。首の後ろの紐をほどいてドレスをはだけさせる。推定Aカップのまるで少年のような胸が現れた。
乳首を口に含み、舌をチロチロと動かしてみるが、女は微動だにしない。これではまるで人形を相手にしているようだ。
乳首から口を離し、女を観察してみる。女はやけに姿勢が正しく、背筋がピンと伸びていた。腕をまっすぐに伸ばし、ソファの背もたれをがっちりとつかんでいる。彼女の表情をうかがってみた。すぐに後悔をした。女はまるで父の仇討ちを決意した武士の娘のように、覚悟と決意に満ちた面持ちだった。
この子は……しかたなく働いていることを隠そうともしてくれないな。かといって、今さら普通に会話をする気にもならないので、ふたたび乳首を口に含むことになるのだが、それからの数分間の長いこと長いこと……。
しゃべっていると時間はあっというまだが、しゃぶっているだけだと時間はなかなか過ぎてくれない。俺、今さら赤ちゃんに戻るの絶対に無理。外見だけではマヒルよりも好みのタイプだったのに、早く交代してほしくてたまらなかった。
マヒルが戻ってきたときは、ちょっと泣きそうになった。
俺、欲望のままにがっつくよ、と宣言をすると「男の子だからしょうがないよね〜」と笑いながらマヒルは膝上に乗った。キスの嵐を浴びせ、乳首にむしゃぶりつつも、時おり目と目をあわせ、恥ずかしそうに笑う。会話だけでもペッティングだけでも満足はできない。オッパイパブで大事なのは心と体を両立させることだ。その両方がそろった時、初めて恋人同士のようなコミュニケーションを楽しむことができるのだ。
指名をするということは『好き』を明言しているようなもの。それによって嬢の態度も愛情に満ちあふれたものに変わっていた気がする。たとえ最初は演技であっても、店に通いつめていくうちに嬢の気持ちも本気になっていくのではないだろうか。そんなことを俺は期待した。
「お客様! お時間のほうが来てしまいました。延長どうなさいますか!」
ボーイが卑屈な笑顔を浮かべて登場した。俺は延長してもかまわなかったので、そばにいる美原に聞いてみた。
「どうする? 俺はどっちでもかまへんぞ。お前にまかすわ」
美原は迷うことなく、バッグを手にとり立ち上がると
「俺は……今日はもう帰るわ」と出口にむかって歩いていった。その背を追いかけるユウナ嬢。俺はしばし唖然とした。
「ツレの様子が少し変やし、今日はもう帰るわ」と、マヒルの頭にそっと手を置く。
「お客さんが、みんな大助さんみたいな人だったら仕事も楽しいのに……また、会いにきてくれるよね?」
マヒルはそう言って目を潤ませた。
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