第17話 踊るアホウに

       ★


 ある日の夜、俺は部屋で音楽を聴いていた。翌日の仕事中に脳内プレーヤーで再生するための曲を記憶に焼き付けていた。

 基本的にはバラードはNGだ。作業の虚しさとの相乗効果で仕事中にマジ泣きしかけたことがある。声に出して泣かなかったものの、瞳は完全に潤い、三十秒間はフリーズしていたと思う。だからなるべく騒がしい音楽がいい。テンションをかきたてるにはパンクロックやヘビーメタルが望ましい。

 もし完全に脳内にダウンロードできるのならば、クラシックの交響曲などがふさわしかっただろう。ヤマ場での盛り上がりは常軌を逸しているし、曲の長さも一時間近くある。


 他の人たちは仕事中になにを考えているのだろう。どんな工夫をして、やりすごしているのだろう。それともなにか考えたりすることを一切合切放棄し、ただ工場を構成する一部となり、ひたすらに手を動かしているのだろうか? 俺もまわりからそう見られているのだろうか? 会話もせずに、たがいのことをロボットみたいなつまらないやつらと認識しているのだろうか?


 好きじゃない曲をスキップボタンで飛びこしてしまえるように、仕事している時間を飛ばせればいいのに。感情がポコポコと穴だらけになっていく。なにを食べても美味く感じないし、映画を見てもちっとも感動できない。

 それでもただひたすらに涙だけは流れてくる。他人には見せられない姿を俺はしていて、つまりそれは一人で泣くことしかできないわけで、一人で泣くことは淋しいことで、ああそうか、俺は淋しいというわけなんだ。


 淋しい。

 電話が鳴った。宮本くんからだ。鼻水をすすってから俺は電話をとった。

 彼と電話で話すのは一ヶ月ぶりだ。

「最近どう? なんか面白いことあった?」

 暇を持てあました高校生のような問いを彼は頻繁にぶつけてくる。

「面白いことなんてなにもないよ。毎日、イライラしてるわ」

 まるで八つ当たりするかのように俺はぶっきらぼうに答える

「ふーん。で、美原のやつはどうなってん? オッパブ通いはまだ続けてるんか?」と宮本くん。

「あいつ本人とはしゃべってへんけど、今もオッパブに通ってるんちゃう?」

「おいおい、他人事みたいに言うなよ。オッパブ通いを辞めさせるんちゃうんかよ? 他人の家のごたごたほど面白いことはないっていうのに……ちゃんと報告してくれよ!」

「そんなもん知らんがな。それに美原のことにかまってられるほど俺もヒマじゃないねん。俺は俺で大変やねん!」

「え、なになに? どう大変なん?」

 宮本くんの声が生き生きとしている。親身になっているわけではない。彼は単純に好奇心を満たそうとしているだけなのだ。

 嫌だな、こんな人に自分の話をするの。でも、他に俺の愚痴を聞いてくれる人なんて誰もいないし……。


 俺は働くことになった経緯や職場のつまらなさを一方的にまくしたてた。ロボットみたいな同僚の悪口や、正社員への憎悪など、話のネタはつきなかった。

「……あの……さっきから同じ話を何回も繰り返してるけど、まだ続くん?」

「え? 本当に? 繰り返してた?」

 時計を見ると電話がかかってきてから三十分以上過ぎていた。

 ショックだ。まるで酔っぱらった年寄りのように同じ愚痴をリピートさせていただなんて。繰り返される仕事によって脳が劣化していたのではないだろうか。

「なんか、おもろないな〜。仕事して、お前、おもろなくなったな〜」

 さらに衝撃的な一言が俺を貫いた。

「え? 面白くなくなったって俺が? 美原じゃなく俺が面白くなくなったの?」

 笑いの文化の根強い関西の人間にとって、面白くないと言われるのは効果的な人格攻撃だ。

「美原は面白いやん? あれだけ注意してもオッパイパブ通いをやめれへんなんて、なかなかの筋金入りだぜ。あいつはビッグになるかもよ。それにひきかえ、君はなに? 仕事が面白くない? なんのために生まれてきたんかわからん? そこらへんの凡人、俗物たちと同じようなことを言うてるよな〜。日和ったんじゃないの? なぁ、そんなにしんどいんやったら仕事なんてやめちまえよ。ギザギザ・ニートのお前は魅力的やったで」

「ギザギザ・ハートの子守唄みたいに言わんといてよ。あのな、働かへんかったら生きていかれへんねん。悲しいけど、これ現実。しゃあないやんか」

「そっか、そんな退屈なお前に用はない。電話切るぞ。このインポ野郎」

 そして電話は切れた。


 いつだって、そうだ。宮本くんは自分の思い描いた小日向大助像を、俺に当てはめようとする。確かに俺は時おり、エキセントリックな言動もしてはいるが、常日頃からそうではない。電話のたびに宮本くんが過度な期待をしているのが伝わり、それが俺には重かった。

 それにしても……。

 インポ野郎ってなに? 働き始めてからというもの、毎日していたはずのオナニーを忘れるほどにぐったり疲れ、朝立ちさえしなくなったこともあり、ピンポイントな悪口でもあった。じわじわと怒りが沸いてくる。たかだか一才年上というだけの人に、なぜあそこまで言われなければならない? いつまで中学時代の力関係を引きずる気だ?

 俺は電話をかけ直した。

「おお、どうした? 仕事やめる気になったん?」宮本くんは少し興奮していた。

「いや、なんなん? あんた、なんなんそれ? インポ野郎ってどういうことよ? 美原はよくってなんで俺があかんの? 納得いくように説明しろ! この野郎!」

 俺は語気を荒げた。

「ま、まぁ、落ち着けよ。人生におけるスタンスというのかな。踊るアホウに見るアホウ。同じアホなら踊らにゃ損損って言うやん。あれにあてはめるとオッパイパブにハマりこんでいた美原は踊るアホウや。じゃあお前はなんや?」

「美原を観察していた俺は見るアホウと言いたいの?」

「そう、じゃあ損をしているのはどっちのアホウや?」

「見るアホウ……な! 俺が損をしているの?」

「な! インポ野郎やろ? だからユーも踊っちゃいなよ! 同じアホなら踊らにゃあ損だぜ!」

「で、でもう! それってミイラ取りがミイラになるってやつでさ。引き返せなくなるの怖いもん」

「大丈夫やって。お釈迦様も言うてはるわ。人は愚かだと気づいた時点で、もう愚かではないと。つまり、自分のことを踊るアホウだと自覚した時点で、そんな自分を客観視しているわけ。ようするに踊るアホウであると同時に見るアホウでもあるわけ。自分自身の姿を見て、退屈に思わないためにも踊り続けるんや! だから俺は期待してるで、大助ちゃん! じゃあな!」


 期待って……なにをだ?

 ミツルおじさんや母や姉が、俺が真面目に働くことのみを期待しているのに比べ、期待のベクトルはまるで違うのだろう。だけどプロデューサーとして迎え入れてみたいのは宮本くんのほうだ。こんなことを考えている俺はアホだ。そしてそれに気づいているだけ、まるっきりのアホではない。

 最近の俺は『見るアホウ』ですらなかった。仕事しんどい→疲れた→死にたい→もう寝る。完全に負のスパイラルにはまりこんでいた。なるほどね、たしかにインポ野郎かもしれない。

 俺は美原に電話した。


       ★


「お、美原、元気け? あいかわらず店行ってるん?」

「いや、最近は行ってへんな。もうやめようかなと思って」

「なんで? 金が続かんようになった?」

 美原は言葉につまった。

「お前、もしかして2ちゃんねる見た?」と俺。

「お、お前も見たんか。そやねん。ユウナのやつ、どうやら男がいるみたいで……」

「お前、あんなもの信じてるの? 純粋な人やな! 嬢のことを好きな客はさ、自分以外の客が指名するのが面白くないわけやん。だからあえて人気が落ちるように書きこんでる可能性もあるやんけ。あんな無責任なコメント、なんの裏付けもないで」

「でも、火のないところに煙は立たずって言うし、あながち嘘とは言いきれへんのちゃうん?」

「いや、根も葉もない嘘やで。だってあれ書き込んだの俺やもん」

「え? なんでそんなことをする必要あるの?」

「その時は心が病んでたというか……どうかしてたんやろな」

「お前、優しいな。俺を傷つけんようにと優しい嘘をついてくれてるんやな……」

 なんだか美原は好意的に解釈してくれている。チャンスだ。

「そ、そや。たとえそれが事実であろうと、俺が書き込んだものであろうと、美原がユウナちゃんと過ごした時間は確かにそこに存在したはずやないか!」

「うん、俺は彼女に会えたことを神に感謝しているよ」

「だったらさ、ユウナちゃんに会いに行けよ! 彼女に直接聞いてみたらええやんけ! お前の思いのたけをぶつけてやるんだ。そうだ、明日行こうぜ! 明日の夜、いっしょに行こうぜ!」

 美原母、ごめん。せっかく息子をオッパイパブから遠ざけるチャンスだったというのに、元のレールに戻してしまった。だが、ヒロイズムに目覚めた俺としては美学に反する行動をとりたくはなかった。


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