第16話 蟹工船
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恐ろしいことに一週間経っても環境には慣れなかった。
目以外のほとんどの部分をアサシンばりに覆い隠し、黙々と同じ動作を繰り返した。帰りの送迎バスでグッタリしている同僚たちの姿を見ていると、まだ囚人の暮らしのほうが生き生きしているのではと思えてくる。
ある日、バスで一緒になる加山さんという四十過ぎの男性が『蟹工船』という小説を薦めてくれた。
「小日向くんはいつもダルそうな顔してるよな。仕事の辛さを我慢するのに、いい方法があるねん。それはね、自分よりもっと苛酷な職場を見て、俺なんかまだマシと納得させたらええねん」
労働者にむけて書いているからだろうか、八十年前の小説にしては文章が簡潔で読みやすく、揺られるバスの中でもさくさくと読めた。
たしかに今の俺の職場では、反抗的な態度をとったところで土佐犬をけしかけられることもないし、拳銃を持った監督に威嚇されることもない。軟禁同然の環境で体中にシラミが発生することもないし、栄養失調で死ぬ者もいないだろう。むしろ、なぜかデブ率が高いくらいだ。だからといって「ほうら、小日向くんはまだまだ甘ったれてるねん」となだめられるのは違うと思う。退屈な仕事をしているという事実は決して揺るがない。
送迎バスから降りても、そこから電車で四十分。家に着くのはだいたい九時過ぎ。すぐに眠りたいほど疲れているが、それだと働いて眠るだけの生活になってしまう。それでは奴隷と大差がない。
テレビをつけると、いま人気のアイドルグループが歌っていた。十代の若い娘たちがスポットライトを浴び、キラキラの衣装を身にまとって、汗をはじかせながら歌い踊っている。一生懸命レッスンした成果が開花している。俺はそのことを純粋に美しいと思った。
おそらく彼女たちはなんの用途で使われるのかわからない精密機器の部品をいじったりすることもないだろう。なにをやっているのかすらよくわからない仕事……それは俺の人生のベクトルを暗示しているようでもあった。
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休憩時間は午前と午後に一回ずつ。十分だけもうけられていた。みんな誰とも会話をせずに携帯電話をいじっていた。実際は携帯電話をいじるのが好きというわけではなく、他人が近くによってこないように棘を突き出す山嵐的な行動なのだろう。
ウィキペディアで蟹工船について調べてみると、実際の蟹工船はきつい仕事ではあったが、十分な賃金をうけとっていたという証言もあるらしい。できれば知りたくなかった。時給九百円の事実が突き刺さる。加山さんには内緒にしておこう。
それにしても、今年の夏は楽しかった。美原の母に頼まれごとをして、ちょっとした使命感にかられていた俺はアホみたいだったな。夏の思い出をふりきれないでいる俺は『ぱふぱふ』というキーワードでグーグル検索にかけてみた。前にもチェックした店のホームページが検索一覧に出てきた。と、同時に2ちゃんねるにスレッドが立っているのを発見してしまった。
おそるおそる俺は掲示板をのぞいてみた。すぐに後悔をした。
あの嬢はマネージャーのTとつきあっているだとか、人気No.1のあの嬢は鼻を整形しているとか、彼氏と同棲しているだとか、嘘か真か確認しようのない噂ばかりが飛び交っているのだ。
嬢にふりむいてもらえなかった客の怨念か、ライバルを妨害しようとする嬢の画策なのか、火のないところに煙はたたずというし、れっきとした真実かもしれないが、俺に確認する術はない。
それでも見ずにはいられなかった。午前の休憩だけではすべて見ることができなかったので、昼休みを費やして712件のコメントをすべて見てしまった。携帯電話の充電が切れかけていた。なんとも言えない嫌な気分になった。
美原もこの掲示板をのぞいているだろうか?
俺はどうしてしまったのだろう。最後に一言『ユウナが心斎橋あたりをチャラい男と腕を組んで歩いていたな』と書き込んでしまった。
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