4章 自由じゃないのよフリーター

第15話 ひさしぶりの労働

 秋が深まってきた。

 刈り取られた田んぼの中を、一台の送迎バスが走っていた。バスの中には十人以上の労働者がつめこまれていた。和気あいあいとした会話はなく、おのおのが本を読んだり、携帯をいじったりして自分の世界に浸っている。その中に俺の姿もあった。

 俺は文庫本を閉じ、窓の外を見た。外はとっくに日が落ちて真っ暗。ガラスには俺の顔が映っている。単純労働が人間性を奪う。ひいき目に見ても俺はやつれた顔をしていた。


 ここしばらくはニートの看板をかかげるつもりが……働かざるをえない状況に追い込まれてしまった。

 原因の一つは父。定年を迎えて大人しくしていたと思っていたのだが、急に「大人の隠れ家的なスナック、または小料理屋をやってみたい。いいや、やる! 決めた!」と言い出したのだ。

 今まで一度も自己主張をしなかった父が、初めて駄々をこねたのだ。仕事というより、半分は道楽みたいなもの。父は母や姉たちの反対を押切って、貯蓄の一部を崩し、本当に開店させてしまった。父が作った小料理屋こまちは開店当初、知人がチラホラと来ていたそうだが、立地もよくなく、すぐに客足は遠のいてしまった。テナント料が高くないのが救いといえば救いだ。

 のめりこめる趣味を持たなかった熟年が、引退後にやってしまうベタな失敗の一つではあるが、元はといえば父が自分で稼いだ金でやりたいことをやったのだから、まだ納得はできる。


 納得いかないのは二つめの出費。それは姉の旦那が知らずのあいだに大量の借金をこさえていたことだ。

 旦那は不動産会社に勤務していた。無口な人だったので、あまり話したことはないけれど真面目な人というイメージがあった。そして真面目な人間ほど周囲を警戒させないから予防線の張りようがない。会社の同僚や家族、誰にも気づかれないままに彼はドップリとパチスロにハマっていたのである。

「貯金ってなに? せなあかんもんなん?」けろりと言い放ち、給料の大半をオッパイパブにつぎこんでいた美原が可愛く思える。美原はけっして借金してまでは店に通っていない。ちなみに美原の母にメールで聞いたところによると、美原は一時期パブ通いをひかえていたらしいが、十月に入るとまた再開したらしい。

 義兄の借金が具体的にどれくらいあったかは教えてもらえなかったが、ためしに姉に「50万? 60万?」とかまをかけたところ、鼻で笑われた。おそらく百万単位の借金であることは間違いない。カードを複数作っての多重責務。まったくもってベタな展開。

 しかも義兄の身内は両親ともすでに先立っている。おまけに一人っ子でもあったので、その尻拭いは全面的に配偶者である姉。しいては小日向家にふりかぶってきたのである。

 うちの家としてもポンと出せる金額……とまではいかなくても、なんとか工面できる金ではあったので、借金を一括返済。姉と大地くんはうちの家に住み、旦那とは別居するかたちとなった。これからは離婚や慰謝料、親権をめぐってドロドロの裁判が繰り広げられることとなる。


 そしてパートをしている母や姉は、働こうとしない俺にたいして怒りの矛先を向け、ネチネチと厭味をぶつけてくるようになった。その厭味はミツルおじさんよりも粘着性があった。一族の中で最も人畜無害な俺ばかり責められている。

 言葉の暴力だけなら俺も『働くもんか』と籠城することもできるのだが、母の攻撃はそれだけにとどまらない。一食ごとに五百円を要求するという兵糧攻めにあい、俺は兜を脱がざるをえなかった。

 こうして長かった休みは終わり、俺は働かざるをえなくなったのだ。


 仕事場として、最初は安易に美原の工場で働こうとしたが、面接で落とされてしまった。志望動機を聞かれ「友人が働いているから」と答えると、面接官は興味をもったが、名前を聞かれ「美原ヨシフミ」と返した途端、面接官はあきらかに苦笑いしていた。美原、役立たずな子。しかたがないので無料求人誌を調べてみた。飲食店の類いが多く載っていたが、大学生たちが多そうなのでパス。京都市内の製本工場が臨時職員を募集しているというので、そこに行くことにした。臨時職員といえば聞こえはいいが、ようするに期間限定のアルバイトだ。用済みになればすぐにクビを切られてしまう。だけど重要なことは働いている姿をポーズでもいいから母や姉に見せるということだった。


 職歴などを偽装した履歴書を持っていったが、ほとんどそれをチェックすることも質問もなかった。「それで、いつから働けます?」即決だった。本当は次の日から働くこともできたのが、少しでも自由の猶予を延ばしたくて「じゃあ、来週の月曜から」と答えた。その場では担当者の名刺と送迎バスの場所を書いた地図を受け取り、家に帰った。木曜からの猶予期間は有意義に過ごせなかった。そして日曜日の夕方に電話があった。製本工場のほうから人が足りてるというので、俺は一日も働くことなしにお払い箱になったのだ。一瞬、俺は安堵した。が、すぐに別の仕事を担当者は紹介してきたのだ。「ちょっと遠いけど、精密機器の部品を作る工場で働いてみない?」「ちょっと遠いってどこ?」

 その、ちょっとが滋賀県。おまけに車で片道一時間はかかる場所にあった。


 仕事の内容はいたってシンプルなものだった。いや……シンプルというよりは単純、単調といったほうが的確だろう。それこそ小学校低学年にすらできそうな仕事だ。ちょっと仕込めば猿にだってこなせるかもしれない。

 上下ともに白の作業着に身をつつみ、帽子の下にはヘアネット、マスクまで着用させられた俺は、とある部屋に移された。

「これから君には検品をやってもらおうと思う。では、刈谷さん、説明してあげて」

 そういうと、工場の人事課の人はすぐに出ていった。その部屋にはすでに七人ほどが作業していたが、ほんのチラリと一瞥したかと思うと、すぐに背をむけ作業にもどっていた。

 ここでは自己紹介などなんの意味もないのだ。

 俺の仕事は、まずP−7と書かれているダンボール箱に入っている麻雀牌サイズの黒い部品をチェックし、別のダンボール箱にうつすことだった。それが満杯になったらダンボール箱を封印し、P−8とマジックで大きく書き込む。それを台車に積んで別の部屋に持っていった。もっとも一つの箱が満杯になるのに一時間以上かかるから、ほとんどの時間を謎の精密機器を見て過ごすハメになる。

 ハンダ付けの荒いものや、ツメと呼ばれる尖った箇所のあるものは、廃棄用のダンボール箱にまとめるのだが、そんなものは百個に一つも出てきやしない。たまに不良品が出てくると、かろうじてテンションが上がる。年賀ハガキの五等よりも嬉しいんじゃないだろうか。

 ろくに光の差し込まない殺風景な部屋で、死ぬほど退屈な仕事をさせられている。

 昔の農民や漁師は単調な仕事を、歌を歌いながらこなしていたみたいだが、そんな工夫はなし。有線なんてかかっているわけはないし、ラジオももちろんなし。部品を箱から箱にうつすときに、壁から出ているエアーガンでほこりを落とすのだが、そのトリガーを引いたときのプシュッ、プシュッという間抜けた音だけが聞こえる。BGMはなし。もちろん会話もなし。

 前言を撤回する。小学生や猿には無理な仕事だ。あいつらには根気がない。すぐに飽きてしまう。この仕事、一番大事なのは集中力よりも持続力なのだ。


 初日、クタクタになって家に帰った俺はすぐに布団に寝転んだ。晩飯もろくに食わずにメロンパン一個ですませた。大地くんが俺の部屋に遊びにきたが「ごめん、一人にして」と追い払った。七才児の甥っ子は、ただ戸惑っていた。慕ってくれているのは嬉しいが、誰にも優しくできる余裕はなかった。犬や猫にだって優しくなれなかったかもしれない。

 労働の充実感はなく、自己嫌悪と罪悪感だけがつのった。


 二日目。初日より楽になると思った。マシになると思った。慣れると思った。だが、それは甘い考えだった。

 初日は職場への物珍しさや、働いちゃってる自分にたいしてのおかしさがこみ上げてきて、マスクの下ではほくそ笑んでいたりしていたが、二日目になると状況は変わってきた。

 仕事にはたしかに慣れた。初日に比べて格段の早さと正確さで検品をこなすことができるようになった。が、そのことによって時間の経過が遅くなってしまったのだ。たとえば一時間に四百個検品するのと六百個検品するのでは、後者のほうが時間の密度が濃い。仕事に慣れることはあっても、環境に慣れることはないのだ。


 手と目はつねに動きながらも、頭の中は自由だ。なにを考えてもかまわない。なんとなく俺は近鉄電車の京都駅から奈良駅までの風景を、各駅停車で思い返してみたりした。それに飽きると今度は頭の中で音楽を再生する。イントロから思い出しながら、頭の中で流してやるのだが、完全に歌詞を覚えている曲はそうそうないので、一分ちょっとで終わってしまう。今度はアルバムをまるまる再生することを試みる。五分足らずのシングル曲とは違い、アルバムをかけてやれば最初から最後まで五十分近くは経過するはずだ。だが、いかんせん俺の脳内音楽プレーヤーは面倒くさい部分をスキップするようにできているらしく、十分しか経過しなかった。時計を見るとショックを受けてしまうから、なるべくは見ないでおこう。

 だが、途中で実際にメロディを口ずさんでいてもバレないことに気がついたのはよかった。邪魔に感じていたマスクや鬱陶しいエアーガンの音が幸いした。ほんの小声で口ずさむくらいなら、まわりにバレないのだ。

 歌謡曲やJーPOPのレパートリーはすぐになくなってしまったので、途中から洋楽に切りかえた。中でもクラシックの要素を取り入れた様式美系のハードロックは相性が良かった。歌というよりギターがメインで八分以上もの長さのインストゥルメンタルは長持ちした。歌詞は覚えられなくても、複雑なメロディラインはちゃんと覚えているものだ。

 テテレテーレードゥイッ! テテレナーナ! ドゥルリドゥナドゥナデレテロリラルラ〜! ニャー! ドゥトゥレナナルラテリルラ〜!

 時おり、興奮のあまり音がマスクから漏れていて、まわりに見つめられたりした。マスクをしているから表情はわからないが、きっと恐い顔で睨んでいるのだろう。

 それ以外には自分でも気づかないうちに、手がエアギターばりに動いていて仕事がおろそかになっていた。

 それでも時計を見ると、まだ十時だったりする。開始からたった一時間しか経過していなく、休憩まではあと三十分も待たねばならない。

 地獄に堕ちた子供が賽の河原で延々と石を積み重ねる苦行のほうがマシに思えてくる。少なくとも河原の石は一つ一つ形が違う。工業製品をあつかうよりは飽きないかもしれない。


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