第10話 マグネタイト

       ★


 店を出てからも俺はしばらく多幸感に包まれていた。

 高瀬川沿いでジュースを飲みながら夕涼みをする。柳の葉が揺れている。夏休みの真ん中。女子大生や女子高生くらいの若い女の子がたくさん歩いている。暑いのにレギンスを履いている子も中にはいたが、大半が肩や足を露出していて、若さに満ちあふれていた。

 そして俺は手当り次第に、街の女の子たちを膝の上に乗せた。ついでにシャツをまくりあげ、乳首を吸った。もちろん想像の上でだ。かつて悩める若者に「風俗に行け!」と助言を与えた賢人がいた。以前はそれを妄言だと笑っていたが、今なら的確なアドバイスだったとわかる。快楽で澱みを散らすだけでなく、自信を獲得できるのだ。今の俺は万能感に満ちあふれている。昨日までとは違い、想像することにまるで遠慮がなかった。どころか、真摯に頼んでみたら簡単に吸わせてくれそうだ。

 とはいえ実際に声をかけるまでにはいたらず、まっすぐとパーキングにまで向かってしまったが……

 車を発進させる。なにか音楽をかけようとしたが、やめた。

「今日は楽しかった〜! 来てよかった〜!」美原と喜びをわかちあいたい。

「お前ならわかってくれると思っていたよ」

「普通さぁ、まず女の子と知り合って、メールアドレスを交換して、こまめにメールを送るようになって、それでデートして、何回めかのデートでキス。少なくとも三回目のデートとかやろな。だいたい短くても一ヶ月くらい? オッパイ触るにはもっと時間かかるやろな。それをやで、その一連の流れをやで! たった十分足らずの時間に凝縮されてるねんで! 無駄がない! 考えたやつは天才やわ!」

「そやねん。たった四十分のあいだに恋愛映画四本分以上の体験をしているもんな! オッパイパブは決してエロいところやないねん! なんかこう……そう、甘酸っぱいねん! それを、職場のやつはなんもわかってへんわ! 俗物らめが!」

「ソープランドは甘いだけ、キャバクラは酸っぱいだけって感じやもんな」

「うお〜! うまく例えるやんけ! 小日向の分際で! そう、それ! キャバクラやと交際するまでにいたらへん、女と知り合った段階どまり。ソープやといかにも奉仕されてる感じでいまいちノレへん! その点オッパイパブやとつきあい始めの一番楽しい時期のイチャイチャ感を再現しているよな! なんていうか、カジュアルさを売りにしているよな!」

 俺の知っている限り、まともに女性と交際した経験のない美原が『つきあい始めの一番楽しい時期』とか言っているので、軽く引いた。

「そ、そうなぁ……イチャイチャ感なぁ……。そや、俺は今日が初めてやったんやけど、美原が最初にオッパイパブに行ったときはどんな感じやったん?」

 美原の返事はない。赤信号で車を止め、美原を見やると、彼は口を半開きにして宙空をぽかんと見つめていた。

「美原?」

「あぁ、すまん。ちょっと思い返していたわ。まだ三ヶ月前のことやねんなぁ……だいぶ昔に思えるわ」

「ふ〜ん」

「あんときの俺はな。死のうと思ってたんや。いや、冗談やなくて生きててもしゃあないなって思ってたわ」

「重たいな〜。重たい話をさらりとすんなや〜」

「じゃあ話題変えよか」

「いや聞く。ええから話して」

「うん、そうやわ。そうなんやわ。ほんまに俺、死んでるみたいやったもんな……なぁ、生きることに意味なんてあると思うか? 三十年近く生きてきたけど断言するわ。ハッキリ言って、そんなもんはないわ。正解なんてない、投げっぱなしの問いかけや。

 なんていうかさ、息がつまっていてん。仕事は面白くないやろ。一週間も働けばすぐに覚えられるような単純作業ばかりや。それでチャイムの音が鳴ったら、次のチャイムが鳴るまで分刻みでみっちり働かされる。トイレもゆっくりとできひん。ウンコ行きたいのに我慢することも日常茶飯事や。タイムイズマネーとか言うたイギリス人をしばき倒したいで。

 またな、工場という職場は地味な人間ばっかりやねん。営業や販売なんてできない、対人スキルの低いやつが工場で働くねん。社交的じゃないから工場みたいなとこでしか働けへんのやろな。ユーモアセンスのかけらもないねん。話しててもくそつまらんやつばっか。俺もそうゆう目で見られてるんかも知らんけどな。それでも、みんながバラバラってどうよと思って、昼休み、いっしょにゲームして遊んでたけどさ。もし俺が職場やめたら誰とも連絡とらんやろな。街で見かけてもスルーしてしまう薄っぺらいつきあいやわ。でさぁ、思うねん。昼休みはともかく十分程度の休み時間はさ、みんな携帯電話をいじっててさ。人と人とのぶつかりあいもないねん。家に帰ってもさ、最近のテレビってちっともおもんないし、漫画読んだり、ゲームしたりするわけや。さらに朝飯の時、以前はニュース見てたけど、最近は暗いニュースばっかりやん、朝っぱらから暗い気分になるのが嫌で、夜中に録画したアニメ見てさぁ。休みの日は家で映画ばっか見てるねん。つまりな、仕事以外の時間は漫画や映画、ゲームにアニメとどっぷりフィクションにつかってるねん。思いっきり現実から目ぇそらしてると思わへん? 自分自身の人生を生きている感じがまるでせえへんわ。学生時代の友人にも会わへんようになったなぁ。みんな愚痴しか言わへん。それか家族自慢。お前の子供の写真なんか見てもおもろないっちゅーねんボケぇ! そんなに息子とキャッチボールすんのが楽しいんか!

 だからな、結局、他人とおるより一人でいるほうが楽やねん。ついでに言わせてもらえれば一番楽しいのは寝ているときやねん。活動してへんときが一番楽しいって、それってどうよ?

 ずっと寝ていたい……それはまるで死にたいと言うてるようなもんやなぁ? 現実に俺の人生で起こることにたいしての感動がないねん。なんつーの? そう、喜怒哀楽の振り幅が小さくなってるねん。たとえば工場の女の子と会話したりとか、そんな些細なことで気分がたかぶることもあった。恋の予感というやつやな。ただな……そんなものは長続きせーへんねん。二、三時間後にはまたいつもの「あ〜、だる。なんか死にたいわ〜」という無力感、倦怠感につつまれているねん。日々の暮らしの中で蓄積された鬱憤があまりに重たすぎて、ちょっとやそっとの幸せなんかじゃ余韻がちっとも持続せーへんねん!

 俺は人間らしい感情を失いつつある。そう思ったね。だけど初めてオッパイパブに行った後、一週間は楽しかったんだあ!」

 美原は車内で絶叫し、ぶるぶると震えていた。

「え、一週間も? 職場の女の声でも二、三時間やのに一週間も?」

「うん、仕事中も思い出しながらニマニマしてたわ。たとえ、まわりが愚痴を言っていてもニコニコと聞いてあげれる余裕もできた。数時間後にはオッパイを吸っている自分を想像すれば、どんなにきつい仕事も乗り切ることができるねん。しかも、座り仕事の時なんか、バレへんから堂々と勃起してたもん。立ち仕事でも時々うかつに勃起して、ポケットに手を入れて微調整してたわ」

 美原の口調はなぜか誇らしげだった。

「なんで得意げやねん。しかしお前、頻繁に店に通っていたら金もかかるやろ? 今までどれくらいの金をオッパイパブにつぎこんだか、ちゃんと計算しているん?」

 チッチッチッチ! と舌を鳴らし、人差し指をふる美原。

「そりゃな、他の金と同じように計算していたらバカにならん金やで。オッパイパブで二万円を使った……そんなふうに考えると自分でもバカやと思うもん。でもな、オッパイパブは別やと考えてみよう。俺が自殺しないために必要なもの。俺を生かしてくれるもの。水や酸素と同等に必要不可欠なものやねん。そこで俺は『マグネタイト』という概念を用意した。オッパイパブでおとす金はこづかいとは別種やねん。円ではなく別の単位やねん。オッパイパブで二万円を使った、と考えるのと、オッパイパブでマグネタイトを二万ポイント消費した、と考えるのではニュアンスがまるで違うやろ?」

「どんだけポジティブやねん。お前の財布から二万円消えたことには変わりないやんけ!」

「そんな心の貧しいことを言うなよ」

「で、一週間は楽しいんやんな。それで一週間経ったらどうなるねん?」

「また死にたい気分が襲ってくるよ!」

「聞くまでもなかったな、それでお前は……」

「だから、また店に行けばすむことやん」

「本当に、週に一回しか行ってへんの?」

「最初はそんなもんやったけど、多いときは週三くらい。あれ? だんだん感覚が短くなっているような……」

「それ、麻薬常用者と変わらんやん! もうオッパイパブなんてやめとけよ! そうや、ハイキングとかどうや! マイナスイオンで心身ともにリフレッシュせえよ!」

 それを聞いて美原は爆笑した。

「な、なにがおかしいねん、お前……」

 怒りよりも不気味さを感じる。

「たしかに今日のオッパイパブは麻薬と同じく、快楽だけに見えたやろな。だがな、実は俺には指名している子がおるねん。あいにく今日は休みやったけどな。聞いて驚けよ! 驚いて聞けよ! 俺は今、真剣に恋をしているんだ!」

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