第9話 食事orオッパイ?

       ★


「お食事ですか? それともオッパイ?」

 エレベーターホールの前、いきなり黒服の男にそう問われ、俺は戸惑った。

 お食事? オッパイ? なんだ、その二択は? 「お食事ですか? お風呂になさいますか?」みたいに聞くなよ……。

「あぁ、オッパイで」

 美原が平然と答えた。店の黒服は美原と目があうと

「お客様、おひさしぶりですね〜。今日はご友人と一緒で?」と笑顔をむけた。

「うん、ちょっと後輩を教育したろか思ってさ」

「教育! いいですね〜! なにごとも経験ですからね!」

 エレベーターがひらき、俺と美原は乗り込む。ボーイは5の数字を押すと会釈をした。エレベーターの扉は閉じる。

「お前、こなれてるなぁ……」

「なにが?」

「店員に顔を覚えられてたやん」

「あ〜、誰かと俺のことを勘違いしてたんやろね。まぁ、適当に話し合わせといたけど」

 俺相手になぜそんな嘘をつくのかわからない。

 店の前には別のボーイが出てきて、前金として六千円ずつ払う。女の子がスタンバイできるまでと、五分ほど待たされる。看板には黒地にピンクの蛍光色で『ぱふぱふ』と書かれている。

 店の中は照明が暗く、ミラーボールがまわっていて、以前入ったことのあるキャバクラに雰囲気は似ていた。

 開店して十分も経っていないというのに、すでに十人近く客が入っていた。

「お盆やというのに、他にやることないんかよ〜。御先祖さま泣いてるで〜」

 思わず一人ごちる。

 客の膝の上には女の子が正面からまたがり、はだけた胸を揉まれたり、吸われたりしている。

「美原くん。これがハッスルタイムというやつ?」

 オッパイパブに来る前に、いろいろと俺なりに調べていた。オッパイパブというのは基本、お酒を飲みながら色っぽい女の子と会話……ここまではキャバクラとほとんど同じなのだが、ハッスルタイムというのがやってくると、乳を吸ったり揉んだりが可能の非日常な空間に突入するらしい。普通に接していた女の子が急に胸を吸わせてくれるようになる落差を楽しむところという記憶があった。

「なぁ、これってハッスルタイム中なん?」

 それにしては店の音楽も照明も平常どおりだ。

「ん? ハッスルタイム? そんなんないで。この店の場合は」

「え?」

「初心者向きかなって思ってさ。ここはオールタイムお触り自由。最初っから最後までクライマックスだぜ!」

 俺は思った。最初っから最後までクライマックス。それはチャンバラシーンだけの時代劇、爆破シーンだけのハリウッド映画、サビだけが延々と流れる歌謡曲のようなもので、メリハリを欠いたものじゃないだろうかと。なんの感動もなく、だらだらと乳を吸ってしまうんじゃないだろうかと。

「うん、でもな、四十分ってほんまあっちゅう間やからな」

 俺と美原は一人分の空白をあけて、ソファに座っている。机にはほんの少しのおつまみと飲み物が置かれている。車を運転する俺はウーロン茶。美原はウィスキーの水割り。

「こんなもんな。ほとんど飲むヒマないよ。お代わりなんて絶対せーへんね。ノドを潤す程度やね」

 そんなもん、そもそもパブと言わへんやんけ……。

「いらっしゃいませ〜!」

 かん高い声を出しながら、美原と俺の右隣に女の子がついた。若い女の声は高くて綺麗。最近話した異性は母親と美原のオバハンだけだが、やつら熟年女とは声の質がまるで違う。いったいどうしてこんな悲しいことになってしまうのだろう。

「こういうところってよく来はるん?」

 膝が軽く接触し、いい匂いがする。女はガチャピンばりに大きな目をしていて、愛嬌があった。色は黒くてスラリと手足が長く、今風のスタイルをしていた。

「い、いやぁ……今日は友人に連れられて。初めてやねん。こういう店」

 ハニカミ笑いをし、ウブさを演出する。女としてはオッパイパブに通いまくってる男は嫌だろう。

「じゃあ、うちがお客さんにとっての初めての相手なんやぁ〜。よろしく〜」

 女は俺に名刺を渡してくれた。名刺といっても普通の名刺の半分くらいのサイズで、ラメ入り蛍光ペンで大きく名前が書いてあるだけだった。俺は財布に名刺をしまった。

「お客さんは名前、なんて言わはるん?」

「え、大助やけど」

「よろしくね〜、大ちゃん〜」

 女は俺の手を握ってくる。

「うわ〜、大ちゃん手ぇ冷たいね〜」

「え、そうかな。冷房きつすぎるせいとちゃう?」

 女は手のひらと手のひらを重ねてきたり、指と指をからませてきた。

 なんだ? このつきあいたての男女のような初々しさは? 恋に落ちてしまいそうだ。

「ねぇ〜、知ってるぅ? 手の冷たい人は心が温かいんやで〜」

 俺に寄りかかり、手をベタベタと触ってくる。その時、俺は思った。今、この瞬間、俺が恋に落ちかけているのではなく、女が俺に恋をしているのだと。

 これは完全に女が、好きな男にたいしてする行動だ。顔の位置が近い。少し、酸っぱめの口臭が気になるが、じゅうぶんに可愛い部類の顔だ。この女とつきあうことになるのだろうか? つきあえるのだろうか?

 俺は完全に忘れていた。ここがオッパイパブであるという現状を。すでに六千円を支払っていることを。女の恋人のような態度は等価なのだ。にもかかわらず……。

「ごめ〜ん。呼ばれちゃったから行くね〜」

 女は手をふると、席を立ち去っていった。あぁ、オッパイ吸い損ねた! 触り損ねた! 初心者だと思って甘く見られたのだ。

「どう? 楽しめたけ?」

「楽しめたもどうも……とんだ女狐やったわ。モジモジしてたらオッパイ吸い損ねたわ。あっというまやな、ほんま」

「ええっ! もったいないなあ! お金もったいないなあ! 時間もったいないなあ! あいつらの時間を金で買ってるねんぞ。最初っからクライマックスでいかんと! 羞恥心なんかドブに捨てちまえ!」

「おっしゃるとおりやわ。今回は全面的にお前が正しい」

「でもキスくらいはしたやろ?」

「ええっ! キスしてええの?」

「お前、店員の話をなんにも聞いてへんな〜。オッパイとキスは自由やぞ。漫画喫茶のドリンクくらいに気軽にかまえないとな」

「キスは普通、好きな人とするもんじゃないの?」

 つい、乙女みたいなことを言ってしまった。

「キスしてから好きになっても問題ないやん。ま、あと三、四人まわってくるから、次はがっつくんやで」

 美原は親指を立ててウィンクする。芝居がかってる美原の態度はご機嫌な証拠だ。しかし、欲望むきだしの自分を直視できるだろうか……葛藤が静まる前に二人目の女の子が隣についた。

「はじめまして〜」

 彼女はテーブルにおしぼりを置き、名刺をくれる。俺はそれを財布にしまう。肩幅のせまい細身の女の子だった。つぶらな瞳につけ睫毛をし、アイシャドウを入れて大きく見せていたが、そんなことしなくてもじゅうぶんに可愛いのにと俺は思う。

「お客さん、この店は何回目なんですか〜?」

「あ、いや、んと……まぁ、初めてやな」

 手しか握らせなかったさっきの女みたいに足元を見られないように、嘘をつこうとしたが、やっぱりアホくさいので素直に答えた。

「あの〜、ここってキスしてええってほんま?」

「え〜! 面と向かって言われるとテレるよ〜!」

 そう言いながら、彼女は俺に顔を近づけてきたので、俺は触れるだけのキスをしたが、我慢できなくなって唇を思いっきり吸った。

 お金を払ってキスをすることの背徳感はまるでなく、生きていることを神に感謝するくらいの感動だった。エロいことをしている感じではなく、優しい気分になれた。癒された。

「ね、上に乗ってい〜い?」

 彼女はそう言い、俺の膝の上にちょこんとまたがった。ぶ厚いジーンズ越しではあるが、女の股間の感触が伝わってくる。次行く機会があれば、短パン、もしくは生地が薄めのズボンを履いていこう。

「なんだか甘えん坊だね。よく言われるでしょ?」

 彼女は俺の顔を両手ではさんで、くにくにと弄ぶ。

 ふと、彼女が関西弁でなく、標準語で話していることに俺は気がついた。

「もしかして、東京出身?」

「東京じゃないけど、遠いとこだよ。ずっと東のほう」

「へ〜、関西の人と違うんや〜。実家にはちゃんと帰ってるん?」

「ううん、帰ってないよ。なんにもなくて淋しいとこだし」

「キスしよ」

 彼女の背中に手を伸ばし、舌をからめあう。

「なんで京都に住もうと思ったん?」

「なんとなく思いつき。だけどやりたいこともなくってズルズルと暮らしているうちに、気づいたらこんなことになっちゃってた〜」

 彼女は笑った。笑うと目がなくなった。

「こんなこと、なんて言い方やめようや。悲しいやんけ」

「だって、やりたいこともなにもないし、もう心が折れちゃいそうだよ〜」

 俺は彼女をぎゅっと強く抱きしめる。身の上話を聞いてしまうと、好きになってしまいそうだ。いや、すでに好きになっている。

「すまん、なんかこう、このままの姿勢でおってええかな」

 彼女の胸に顔をおし当てる。俺は激しく勃起している。だが、性欲よりも安らぎの気持ちが、さらに一歩リードしていた。

「本当に甘えん坊なんだね。可愛い人だね〜」

 彼女は俺の頭をぎゅっと抱きかかえ、なでなでしてくれた。

 美原がオッパイパブにハマっていると知って、なんて俗悪な人間なんだと軽蔑したが、今はそんなことはない。俺はオッパイパブを肯定する。こうして女の胸に顔をうずめて甘えていると、男はいくつになっても子供なんだと思う。たとえ自分より年下であっても若い女のことを『ねえちゃん』と言いたくなるのが、なぜだかわかった。

 女の人のぬくもり、優しさが皮膚を通して伝わってくる。気がつくと俺は、体を震わせショーン・ペンばりにすすり泣いていた。

「どうしたの? 泣いてるの?」

 さっきまで慈愛に満ちていた女の声が、緊張を帯びたものに変わっていた。やば! 計算外! 引かれた! と思い、

「ん、涙じゃなくて鼻水かな。ごめんな、なんか冷房きつくない?」

 あっけらかんと言い放ち、難を逃れた。

 重かったのだろうか。失敗したのだろうか。オッパイパブですすり泣きはまずかった。ストーカーに変貌する危険な客だと思われたかもしれない。

 美原はどうだ? 美原はオッパイパブをどのように楽しんでいるんだ?

 ふと隣を見やった。

 そして愕然とした。

 美原はチュパチュパと吸っていた。まるで怨みをはらすかのように、親の仇でもとるかのように、ものすごい勢いで轟音を立てて、チュパチュパチュパチュパと吸っていた。

 美原はすっかり変わってしまった。昔のあいつは女の前でろくに口も利けないほどの照れ屋さんだった。美原には一才下と十才下の妹がいるにも関わらずに、女と話すのが苦手だったのだ。そのシャイ・ボーイぶりをあらわす印象的なエピソードがある。上京前に宮本くんがセッティングしてくれたコンパの時のことだ。男四人に女四人の合コンで、女たちは宮本くんの二つ年下で同じ中学校の後輩だった。つまり俺や美原にとっても一つ下の後輩にあたる。男性陣のもう一人は、宮本くんの友人の谷崎という人でタイ旅行から帰ってきたばかりだった。

 居酒屋での美原は女の子とほとんど会話もせず、谷崎くんがタイの土産に買ってきた置物を手持ち無沙汰にいじっていた。カバの男女が正常位で愛しあってる愚劣極まりない置物だった。そんな美原を放置し、宮本くんも谷崎くんも女の子たちと和気あいあいと楽しんでいた。少し気の毒に感じたので、俺は彼女たちと同学年である美原の妹の話を振ってみたのだが、これが逆効果。ヤンキー属性である美原の妹に彼女たちはろくな思い出がないらしく、女の子の一人は『小学校の時、髪を引っ張られたり、石をぶつけられた』と告白。美原の肩身はよりせまくなってしまった。居酒屋での会計を終え、帰るのかと思ったが、二次会のカラオケにまで美原は参加していた。が、曲目を選んでいるフリをしつつ、なにも入力しない美原にもどかしさを感じ、無理矢理に歌わせてみたところ、美原の福山雅治は女の子たちにバカウケであった。歌の上手さもさることながら、物真似的なユーモアも兼ね備えていて、上手さが鼻につかなかった。だが、女の子たちが「似てる似てるぅ!」「他にどんなん歌えんのぅ?」ともてはやし始めた途端、美原の中の『照れ』のメーターが振り切れてしまったのか、彼は突如、演奏解除ボタンを押し、なにごともなかったかのようにオニオンフライをつまみ始めたのだ。

 それほどまでに、昔の美原は女に対して奥ゆかしいキャラクターだった。

 それが今ではどうだ? 店の子にたいし遠慮のかけらもない。テーブルマナーが悪すぎる。高い金払っとんやぁ、値段ぶん吸っておかんと損じゃあ! そんながめつさを全身からかもしだしている。

 だが、そんな欲望に忠実な彼が強い男に思えてきた。ひきかえ俺は高い金を払っておきながら、優しく触れられただけで涙まで流してしまう精神的に惰弱な生き物に思えてきた。

 生き残れない。こんなことじゃ生き残れない。お前に足りないものは執念、それに欲望だ。美原は実社会にもまれて強くなった。部屋でゲームばかりして虚構にまみれている俺と違い、正社員になるほどに強くなったのだ。

 俺も強く生きよう。男は恥をかいても実をとらねばならない。今が変わるチャンスだ。

「お、お、お……おっぱちょうだうまい?」

 緊張しすぎて日本語がめちゃくちゃになってしまった。女は「かわいーな」と笑った。それは好意的な笑顔だった。そのとき、俺の肩越しに男の手が伸びるのがかすかに見えた。

「ごめ〜ん、呼ばれたから行くね〜」

 女は身だしなみを整え、俺に背中を向けたかと思うと、くるりと振り返り

「またね、また会おうね」

 と俺の頬に触れた。

 恋に落ちるにはそれでじゅうぶんだった。次に店にくることがあれば、俺は彼女を指名してしまうかもしれない。指名するしかない。

 俺は財布をあけ、彼女の名前を確認しようとした。が、そこで大きなミスをしたことに気がついた。名刺が、財布の中で名刺が、手しか触らせてくれなかったビッチの名刺と混ざっているのである。

 くっそう、わけておくんやったわ。

 ほんの数分前に見た名刺の文字をすっかり忘れている。手書きで大きく『みかん』もう一つは『マヒル』どっちがどっちかわからない。普段から脳トレなどのゲームで鍛えていれば、きちんと覚えていれたのだろうか……。

 三人目の女の子がやってきた。少し丸顔なのが気になるが、18くらいに見える。さっきと同じミスは犯さない。今度は名刺をジーンズの右ポケットに入れる。『なお』『なお』『なお』と源氏名を頭の中で三回反芻した。

 そして、今度の俺はもう遠慮しない。最初っからクライマックス。いきなり膝の上に乗せ、ドレス越しに乳を揉む。

「直接、さわって」

 なおが首の後ろを指差す。ドレスは首の後ろでチョウチョ結びになって引っかかっている。それをほどくと胸があらわになった。

 目測Cカップのやや満足オッパイだった。目の前にあるので遠慮なく吸う。聖人であっても多分そうする。吸わないほうが不自然だ。当然、味はない。味はなくても吸わずにいられない。これって、前の客が吸った後にそのまま吸ってるんだろうか? それともちゃんとアルコールなどで拭いたりしてるんだろうか? と少し気にはなったが、ためらい以上に興奮が勝っていた。

 この手の店で働いている人は、あまりに乳首を吸われているがために、神経が麻痺しているとばかり思っていたが、かすかに体が反応していることに気がついた。

 唇を乳首から離し、親指と人差し指を唾液でしめらせ、乳首をつまむ。顔を見る。目と目があう。なんだか幸せな気分になり、俺はほほえんだ。「えへへ」と、なおもテレ笑う。親指と人差し指で乳首をこねるたびに女の背筋がピンとのびる。

「や〜、それくすぐったいわ〜」

 そして二人は見つめあい、笑う。まるで恋人同士のように。

 これを演技でやっているとしたら、なおは天才だ。もしくは店に入って日が浅く、初々しさから来る反応だろう。どっちにしろ、美原の母ごめん。あんたの息子を足抜けさせるどころか、俺がハマってしまいそうやわ。

 四人目の女の子、まいこもまた素晴らしかった。膝の上に乗っているとき、まいこは自分の股間を俺の股間にぐいぐいと押しつけてきてくれたのだ。なんというサービス精神。

「めっちゃ勃起してんのバレてる?」

「うん、伝わってくる。温かいのわかる」

 まいこは笑った。オッパイはAカップ程度、あきらかに貧乳の部類だ。おまけに陥没乳首。野菜なら出荷されないレベルだろう。だが、俺は吸うよ。なぜだかわかるだろ? 愛だよ。愛。大きいオッパイも小さいオッパイも俺は平等に、分け隔てることなく吸っている。この精神をみんなが持てば、世の中から差別はなくなるのではないか? そんなことを真剣に思ってしまった。


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