第98話 エンディミオンの方舟

「悲しい、悲しいね」


 ドロテアの想区にて、プロメテウスの本体である『お月様』に体を乗っ取られた時、エンディミオンになる前のレヴォルはこの世界の「ほんとうの悲しさ」を垣間見て、そして、一つの可能性に思い当たった。


 もしも、この世界が、災厄が見た景色が現実だったのならば、それは、あまりにも惨い結末を生むと思ったからだ。


 だからその後、エレナの『創造』で直ぐにお月様と引き離された後も、災厄の持つ記憶の事がずっと引っかかっていた。


 そして、終局の世界、アルケテラーと接続した時に、アルケテラーの観測した世界の景色を見て、それは確信に変わった。


 だからレヴォルは選んだ。


 災厄を倒す道では無く、飲み込む道を。


 万象の栞で『お月様』を取り込んだレヴォルは、そのまま、『再編の魔女』一行を取り込んで、皆を災厄の中に存在する『方舟はこぶねの王国』の中の住人とした。


 方舟の王国は夢の中の世界。


 何の痛みも苦しみもない、都合のいい夢だけを見せる、そんな桃源郷のような世界を、自身の内に作った。


 それはロミオとジュリエットのような悲劇の主役達や、白雪姫と王妃のような呪われた者達にとっては確かな救いとなった。


 『渡り鳥』であるレヴォルが災厄という悪役となった事で、本来レヴォルが救う筈だった多くの希望を代償として、絶望した人々を救う創造主となったのである。


 だがエンディミオンが当初救いたかったのは、そんな見知らぬ他人では無い。


 世界に流れる筈だった涙を全て取り除いた後に、エンディミオンはようやく自分の救いたかった人に出会った。





「……お姉ちゃん、この世界の悲しみは全部取り除いたよ、だからもう、泣かないで」


「―――っ、レヴォル…」




 レヴォルの「お姉ちゃん」である人魚姫。

 彼女は結末として海の泡として消滅したのちに、風の精霊として生まれ変わった。

 風の精霊は地上に降りて人々を導く天使のような存在であり、徳を積んで神に認められる事を目的とする。

 だが天使と違い精霊はだけ、自ら介入する事は許されず、人々の恣意的で身勝手な行いを傍観するだけの存在だ。

 そんな彼女が自分の任期を全うする為に与えられた条件は「一人の良い行いをした子供を見つけて親と共に笑えば一年短縮され、一人の悪い行いをした子供を見つけて涙を流せば一日延長される」というもの。

 条件を見れば比較的簡単で、不可能な事には見えないかもしれない。


 でも風の精霊として、世界を巡回した人魚姫にとってそれは、とても理不尽な条件だった。


 初めのうちは、多くの良い子供を見て笑い、多くの幸せを感じて、やりがいを感じる事が出来た。


 でもそんなのは所詮、確率の偏りに過ぎない。


 喜劇の数だけ悲劇が存在するこの世界において、良い子供と悪い子供の数は均等だからだ。


 だからその後人魚姫は笑った分だけ涙した。




 本当は誰よりも勉強が出来たのに、家族を養う為にわざと赤点をとって、十二で丁稚奉公に出た子供に涙した親と共に。


 病の両親を救う為に盗みを働いたが為に真っ当な道を歩めなくなった子供に涙した親と共に。


 虐めの仕返しに罠を仕掛けたら、その相手を思いがけず殺してしまった子供に涙した親と共に。


 本当はつらくてくるしくて、たすけてほしかった筈なのに、遺書にはしあわせだったと書いた子供に

涙を流さなかった親の代わりに。




 この世界の悲しみの、そのほんのひと雫を掬っただけでも、人魚姫の涙は止まらなかった。




 喜劇より悲劇の方に感情移入し、同情するのは仕方ない事だろう。

 悲劇の方が人情的で、感傷的で、より身近なものなのだから。

 だから人魚姫は悲劇を知れば知るほどに笑えなくなっていった。

 今笑っている子供の笑顔の裏に、どれだけの業が重なっているかを知ったから。

 

 テストで一番をとった子供の裏にはわざと赤点をとって働きに出た子供がいた。


 盗人を捕まえて褒められた子供の裏には、生活苦に苦しみながら罰を受ける子供がいた。


 いじめていた相手が死んだ事を喜ぶ子供の裏には、別の子供からいじめの標的にされた子供がいた。


 不幸だといいながら親から愛される子供の裏には、幸せだといいながら親から愛されない子供がいた。




 それらの現実を目の当たりにした時、人魚姫は笑えなくなった。

 人間の善性を、正しさを、その営みを信じられなくなった。

 だから次第に笑顔を忘れて、ただ世界の理不尽と不条理に涙するだけの存在になってしまった。


 単純な繰り返しの日々は、自分の涙すらも無価値な安い同情だと虚しさを感じる様にした。


 それでも終わりは来ない。


 ただ無情な現実の繰り返し。


 死にたくても死ねない。




 ただ一つのの役割「自分が救われない事で救われる人間を救う」ためだけに不条理の牢獄に囚われた存在。




 でも人魚姫は風の精霊。


 だれも人魚姫の姿を見る事は出来ないし、その涙を知る事は出来ない。


 だれも自分を救ってくれない、助けなんて来ないと、分かっていたからこそ、人魚姫はその運命を受け入れる事が出来た。


 理不尽で不条理で残酷な現実を目の当たりにしても、一つの希望を信じて、絶望なんてしなかった。





 ―――でも、レヴォルは気付けた。


 気付いて欲しくない真実に気付いてしまった。


 その苦悩、涙を予測して、救う為に行動してしまった。


 永遠に囚われる者を救う代償がどうなるか、その時のレヴォルは知らなかっただろう、でも、知ってもきっと救う手を伸ばすに違いない。


 もし仮に、レヴォルがお月様と和解して外世界に旅立つという結末を迎えたとしても、人魚姫は救われない。


 人魚姫は「救われない英雄」である事、それはアンデルセンが創造し、世界から観測された人魚姫がそういう存在である為にその原則は覆らない。


 だからレヴォルは「救われない英雄」を救う英雄となる為に、災厄エンディミオンとなる事で、その理を覆したのだ。


 結果から言えばエンディミオンは成し遂げた。


 自分の救いたかった人を、救えなかった人を、今度は自分の手で掬いとったのだから。


 人魚姫お姉ちゃんを救った時に、エンディミオンは全ての役目を終えた。






 そしてその代償に、世界を滅ぼした。





 世界に流れる全ての涙を取り除くために、全ての創造主の存在を抹消し、想区の人間を全て『方舟の王国』に取り込む事で、誰もが幸せな夢の中で安らぎを得られるようにした。


 それしか精霊となった人魚姫を救う方法が無かったから、エンディミオンは『調律の巫女』や『グリムノーツ』の仲間達と終末戦争をして、そして勝利し、全てが方舟の王国に取り込まれた世界で一人、取り残されたのであった。


 広大な世界でただ一人だけ生きる存在。


 その内には億千万の魂が渦巻いていたが、エンディミオンはその全てに幸せな夢を見せ続けた。


 それが出来たのはレヴォルが並外れた器の持ち主だったからに他ならない。


 だけど住人やくしゃのいなくなった世界に価値が無い事など、誰にでも分かるだろう。


 エンディミオン一人となった世界は当然、ミュトスの消滅、『意味消失現象』という形で幕を閉じる。


 筈だった。


 しかし世界が消失しても、エンディミオンは消えなかった。


 それもまた、当然の事だ。


 多くの『創造主』や『主役』といった、世界を構成する重要な要素を取り込んだエンディミオンは、「一人で全てを兼ね備えた存在」となったからだ。


 だからこの世界が観劇である以上は、舞台が無くなっても、エンディミオンの退場は許されない。


 主役も脇役も端役も自己完結した、一にして全の語り手として、世界の狭間に落とされたのである。


 そこからはエンディミオンの地獄だ。


 本来は世界と共に滅びるさだめの筈だった。


 だけど生き延びた事で、その責任が生まれた。


 自分の願いの為に取り込んだ者達に、幸せな夢を見せ続ける事。


 狭間という何も無い地獄で贖罪をするのは自分だけでいい、その為にはずっと人々に夢を見せ続け無ければならない。

 

 しかし魂が不滅でも、肉体が滅びる日はいずれ来る。


 そうなれば、『方舟の王国』の住民は、夢から覚めて、狭間という地獄に落とされる。


 エンディミオンが滅びれば、人々は幸せな夢から覚めてしまうのだ。


 そうならない為にエンディミオンは、狭間の抜け道を探してさ迷った。


 だけどそんなもの、あるはずが無い。


 何故なら狭間とは、観測されなくなった『無』の状態であり、何も生まれず、何も起こらない場所なのだから。


 エンディミオンが一人で自己完結しているが故に、エンディミオンの他には何も無い世界なのだから。


 だからエンディミオンは自分の責任として、自分が取り込んだ者達に永く夢を見せる為に、眠り続ける事にした。


 眠り続ける事で、時間の概念を超越して、より多くを生きる事にしたのだった。


 いつかは終わる永遠を極限まで引き伸ばす為だけにエンディミオンは眠り続けて、そして夢物語を語る。


 夢の語り手は虚無の奈落に一人、罪滅ぼしの為に、永遠にならない悠久を刻む。


 世界が滅びるより一秒でも長く自分が生き続ける事。


 ただそれだけを目指して。


 そんな一人で空回りを続ける壊れた歯車が、エンディミオンの物語なのである。


 そこには確かに救いがあって、永遠に救われない男がいた。

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