実験三日目 その4
時計喫茶の中に溢れかえっていた無数の人々の深層心理がフッと消えた。
大勢の人影が魔法のように消え去り、仮面だけが床に転がる。
そしてそのまま、仮面までもが空気に溶け込んで姿を失くしてしまった。
「やだ」
真っ青な顔でシェリがぽつりと呟く。
パソコン画面は真っ暗になっており、起動ボタンを押しても反応が無い。
「やだやだやだやだ!! 壊れないでよ! ちょっと、いうこときけ!」
「もういいよ、止めるんだ」
無機質なノートパソコンにかじりつくシェリに、店主が声をかける。
しかしシェリは食い下がらない。爪が手のひらに食い込むほどに拳を握りしめ、引き攣る顔の筋肉で無理に余裕のある表情を演出しようとする。
「く、組み合わせが悪かったのよ。相性が悪すぎただけ。また別の人間で試せば成功するんだから。もう一度チャンスを頂戴」
普段の
「もういいって。何度やっても同じだ」
「この実験は成功させなきゃならないのよ!!」
止めようと伸ばされた店主の手を振り払いシェリはまたヒステリックに叫んだ。
長い付き合いだが、彼女がここまで取り乱した姿を見るのは初めてだ。まるで子供が思い通りにゆかず駄々をこねるような滑稽さ。
シェリが自分の言葉を聞かないと分かり、店主はいつもより厳しさを含む大きな声を向けた。
「成功させられるかどうかは、君の手にかかっているわけじゃない!」
いつもは穏やかな表情ばかりの男が、無慈悲を感じさせる冷酷な顔をしている。
突き放すような言葉に、シェリが絶句した。
「世の中は不条理だ。君が成功だと思ったとしても、周りが失敗と思えばそれは成功でなくなってしまう。特別とおんなじだ」
こんな事態だというのに、店主はシェリの滑稽なさまを見て「彼女は魔法使いでも天才プログラマーでもなく、どこにでもいる女の子なんだな」と妙な納得と感心を心の内で覚えていた。シェリだって、誰にでもある当たり前の失敗や逆上をするのだ。
カウンター席に座って近い距離にありながら、そしていつか言葉を交わすようになっても尚それでもどこか感じていた遠さが消え、今やっと彼女は自分の近くにいるような気さえした。
そんな彼の気など知らないシェリは、もう自分の味方がどこにもいないように思えた。
なんだかんだと言いながら、実験に付き合っていた店主からも決定的な言葉を向けられ、懸命に作りあげたプログラムすらバグを起こして落ちてしまった。
「なんなのよ、もう……!」
いつもならばマシンガンのように炸裂する皮肉や哲学も思い浮かばず、やり場のない苛立ちとやるせなさを意味の無い言葉で吐き捨てる。
途端に全てが馬鹿らしくなり、シェリはノートパソコンを勢いよく閉じて椅子から降りた。
「帰る」
「駄目」
すかさず止められ、シェリは思わず「え」と声を漏らした。
振り返ると厳しい表情のまま、店主が腰に手を当て立っている。
「帰宅は許可しません。今日こそ最後まで見守っていきなさい。この実験の成功と失敗を決めるのは君ではないけれど、実験を始めたのは君なんだから」
教師が生徒に言い聞かせるような口ぶりだった。
――シェリは数秒立ち尽くしたが、結局元の席に引き返した。
酷く緩慢な動作で着席する。
南側の席から視線を背けるようにカウンターからも背を向け、目のやり場に困り、トイレ前に飾られた観葉植物を見つめた。
大人しく席についたシェリを見て、店主はよろしいとばかりに頷く。
そして、南側の席に座ったまま沈黙する男女を見ると、気合をいれるために「さてと」さらに袖をもう一捲りした。
「お客様、自他共に認めるお節介焼きな僕も、間に介入しても宜しいですか?」
カウンターからフロアへと出てきた店主は、いつもの人の良い笑みを浮かべて恭しく客に尋ねた。
突然声をかけられた内村と松崎は、その声に意識を現実へと引き戻す。
大きく息を吸い、僅かに残る身体への違和感を覚えながらも、何が起こったかなど知る由もなく互いに顔を見合わせる。
テーブルの横には笑顔の店主。
彼に引き下がる気がないのを察すると、二人はそれぞれ了承の意を示した。
「私は構わないわよ。どうあっても結果は変わらないと思うし」
「僕もいいですよ。けど、介入するからには力になって下さいね」
高慢な女と傲慢な男に「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。
そして店主は、まるで吟遊詩人のように言葉を紡ぎだした。
「さて、この時計塔喫茶≪
偽りの情報をさも本物のように話し出す店主に、シェリは驚いた。
あれ程、人を騙すことに気を揉んでいた男が率先して嘘を口にしている。
「そうなるといいけど、あんまり希望が見えないのが現実ですね」
「本当にそんなもので結ばれるなら、世の中の人はもっと幸せじゃない?」
自分達の座る席を見回した内村と松崎は、何の変哲もないその場所での何の変化もない現実に苦笑いを浮かべたり、鼻を鳴らしたりした。
若い二人の感想に、店主はにっこりとさらに笑みを深める。
「目に見えないものは、信じないと実現しませんよ」
「信じたら実現するとでも」
「もちろん。そうやって、目に見えない多くのものがこの世界には生まれてきたんです。例えば、国境。そんなもの本当は無いでしょう。ここから先が我が国で、あちらが他国って言われたって何も無い。でも多くの人がここに国境があると信じたから、本当に国境ができたんです。友情もそう。目に見えないものでしょ。でも、友情があるってお互いに信じるから、友情が生まれる。愛情もそう。それと同じで、運命も信じるからあるんだ。信じないと無いも同然」
「無いも同然じゃなくて、無いの」
黙り込んでいたシェリがそっぽを向いて口を挟んだ。
さもありなんとする流れからのシェリの否定に、松崎が「無いんじゃない」と不服そうにシェリを睨む。
「無いよ、無いともさ。……でも、やっぱりあるの」
「意味が分からないんですけど」
理解しかねる内村が眉尻を下げる。
こんなことも分からないのかと自棄っぱちになったのか勢いよくシェリは説明した。
「ようはね、目に見えないものなんだから、あるって言ったってないって言ったって見えないものは見えないんだよ! 過程があろうが結果があろうが全部見えないの。見えないなら無いも同然。でも見えないからあるってことにもできる。思い込みで、気の持ちようで。……私はそれを証明したいの」
近未来のプログラムを持ち込んだところで、小難しい理論を並べ立てたところで、シェリの目的はそんな些細なことだった。
己で口にしていても自覚したのだろう。上がった肩がしおしおと落ちてゆく。
店主が微笑ましそうに自分を見ているのに気づき、シェリは苦虫を噛み潰し、再び顔を南側の席から背けた。
「彼女の言葉選びが僕は好きじゃないんですが、まあそういうことです。僕なりの言いかたをさせてもらえるなら、信じれば全部実現するってことです。無いよりあるほうがいいじゃないですか。ならあるってことにしちゃいましょう。そのほうが楽しいでしょ?」
気の抜ける笑顔で楽観的に言う店主だが、彼の主張の真意を理解するのは難関だった。
内村は「ちょっと哲学めいていて理解が難しいな」とまともに相手にせず、松崎も「概念的過ぎやしない?」と随分なげやりな様子だ。
だが、店主はそんな二人の反応を予想していたように喰い気味でそれを肯定した。
「そう! これってとっても哲学的で、スピリチュアルで、概念的で、曖昧だ。どんなに考えたって正解は出ないもの。そんなものに君たちは振り回されているんですよ!」
探偵作品の主役さながら、びしっと男女を指さす。
自信満々の迫力に押され、二人は僅かに身を引いて「振り回されている?」と訝しげに顔を顰めた。
「運命があって欲しい。運命なんて無いほうがいい。あることにも無いことにもできるものに執着して、君達は本当に大事なものを見失っている! それは――……」
――目に見えないもの。例えば国境。
国境を広げよう! この土地は我々のものだ!
国境に振り回されて、本当に大事なものを見失う。
何のために国境を作ったのか。
――目に見えないもの。例えば友情。
私たち友達だよね? 友達なんだから、ああしなくちゃ、こうしなくちゃ。
勝手に作って勝手に縛られて、本当に大切なことを見失う。
――振り回されるくらいならばいっそ零に戻せばいいのだ。
どうせ目に見えないもの、そうすれば厄介ごとは全て無くなってしまうだろう。
それを分かっているのに、辛くとも悲しくとも零に戻せない理由はなんなのか。
――運命なんて無いほうが良い。そう思うのに、それでも人間が運命に縋る理由は。
『何故?』
『どうして?』
『なんで?』
聞こえた声にシェリは顔を上げた。
店主と男女の周りに、仮面たちが立っている。
彼らには仮面の姿は見えていないようで、この光景を目にしているのは自分だけなのだと気づく。
店主の背後に立っていた仮面男が不意にシェリを見つめる。
そして、人工プログラムとは思えぬ自然な微笑みを浮かべた。
『考えれば、答えは見つかるはず』
先程の停止とは違い、まるでシャボン玉が弾け飛ぶように彼らは姿を消してしまった。
今のは果たしてウンメイカーの誤作動か、それとも彼女自身が見た幻影か。
唖然とするシェリをよそに、運命論を説いていた店主はいまだ探偵ごっこでもするように、男女の心理を暴いていた。
「今まで散々運命なんてものに振り回されてきた君達が、何故今日を最後の賭けにしようと決心してここに座ったのか! これから先も曖昧なまま生きてゆくこともできたのに、相手を見て早々に諦めて帰ることもできたのに、どうしてまだここに座ってお節介なマスターの話に耳を傾けてしまうのか!!」
「それは……」
店主の言葉に、内村と松崎は言いよどむ。
再び黙り込んでしまいそうになる二人を見て、店主は近くにあった椅子に座って、にっこりと笑った。
「考え出すと難しくて曖昧だけど、答えはきっと単純じゃないかな」
「その答えは……」
――運命を信じたかったから。
仮面が剥がれ落ちた二人の顔には、様々な理屈など抜きにした素直な輝きがあった。
そうだ、自分たちは運命があるのを信じたかったから、この南側の席に辿り着き、相手がどんな人間なのか知ろうとしたのだ。
運命を信じたかったという答えが見えた男女の瞳は、朝陽のように眩しく光る。
しかし、あまりに単純すぎる答えにシェリは釈然としないらしく「子供みたいな答え」と呟いた。
「それでいいんだよ」と店主はシェリに言い、見つめ合う二人に尋ねる。
「君たち、運命信じたい?」
内村と松崎は、それぞれ曖昧ながらも頷いた。
素直に心の内を認め始めた二人に笑みを深め、店主は手を鳴らす。
「じゃあ、あるってことにしよう! 君たちは運命の相手だ! ……ね、どう?」
運命の出逢いを促す男の優しく温かい言葉が、店内に広がってゆく。
男は女を、女は男を真正面から見つめた。
仮面の剥がれた本当の自分同士で向かい合うその姿に、つい先ほどまでは張りつめていた雰囲気も甘く溶けていくようだ。
シェリはその様子を眺めながら、今までの流れを思い出していた。
夢と希望を持って運命論を語る店主。彼の話はするりと内部へ入り込みそうな優しさに満ちていた。
……けれど一つ大きな疑問が残される。
「…………なんか、いいこと言ってた気はするけど、結果的に何の解決もしてなくない?」
「やっぱりそうですよね?」
「丸め込まれそうだったけど、根本的なところは変わらず」
結局甘い雰囲気になるになれなかった内村と松崎が、咄嗟に同意する。
全くもって解決していないらしい状況に、店主が「あれ?」と視線を宙へ向けた。
「今の話で私が博之を好きになれたら凄かったけど、別に好きじゃないし」
松崎の血も涙もない言葉に、内村は半泣きで「ちょっとマスターさん!」と店主の元へ詰め寄る。
掴みかかってきそうな勢いの男から逃げ、店主は曖昧な笑みを浮かべながらフロアから後ずさった。
「そもそも概念的なものに解決や答えを求めるのは間違っているんじゃないかな」
今度は松崎も立ち上がり、「それは逃げなのでは?」と内村と共に店主を挟み撃ちする。
前門の虎、後門の狼。
二人の視線に責められ「逃げじゃない!」と叫びながらカウンターへと戻った。完全に逃げている。
カウンターという名の要塞に逃げ込むと、店主はまた強気に打って出た。
「それに、君たちが愛し愛せないのは運命のせいでもなんでもない。紛れもなく自己責任だ! ここから先は恋愛ではなく人生の先輩としてアドバイスさせてもらうが、自分に酔いしれているうちは、いつまで経っても幸せになれないぞ!」
「なんですって?」
「結局君達は、運命に縋って悲劇のヒロイン
『私は愛せない女』
『僕は愛されない男』
道化の仮面をつけた内村と松崎が、二人の背後で天を仰ぐ。
閉じた瞳を表す三日月型の目が涙を流す模様。
顔の上部を覆った仮面は嘆きに満ちている。
己の本性が
逃げ出したいのに、まるで磁石で引き寄せられるようだ。
「一体何人と付き合ってきてそんなことほざいているんだ。そういうのは世界中の人間全員と付き合っても無理だった時に言ってくれ。何も今日を、これからの人生や今までの人生が決まる運命の日にすることはないだろう」
『私は愛せない女』
『僕は愛されない男』
我が身をかき抱く幻影の仮面が軋みながら百八十度回転してゆく。
「結局君たちは他人より自分が好きなんだろう。今日を悲劇の日に仕立て上げたかっただけなんじゃないのか?」
断罪の言葉に松崎と内村は立ち尽くした。
彼らの背後では、目元を三日月に歪めて不気味な笑みを浮かべている仮面の姿。
『私は自分を愛する女!』
『僕は自分を愛する男!』
シェイクスピアの登場人物の如く、己の悲劇に嘆き泣き咽ぶ声。
それはだんだんと狂った高笑いに変わり、己の身体を這う指は自分を愛撫し優しく身体を張っていた。
くねり笑う己の本性に、男と女は愕然とする。
甲高い笑い声をあげながら、仮面達は火を灯された蝋燭のように溶けていった。
「運命運命言ってたあんたが、随分なことを言うようになったね」
シェリの知る限り、店主という男はどこまでもロマンチストで、良い意味でも悪い意味でも砂糖菓子並に甘い考えを持っていた。
それもあくまで喫茶店のマスターとしての姿に過ぎなかったと彼女は思い知らされた。
「運命なんて思い込み、気の持ちようなんだろう? どうせならそれをマイナスじゃなくてプラスの方に使うのがいいんじゃない? だから僕はこう思う。僕の店は運命の出逢いができるスポットで、この南側の席に座るお客様は素敵な出逢いをしてゆく。五年探しても現れない運命の人も、まだどこかで僕が見つけるのを待っている。いまだ出逢えないのは、僕が男としてまだまだだからってね。そう考えた方が人生楽しいじゃない?」
『前向きなプラス思考!』
あっけらかんと笑う店主の周囲に現れた仮面たちの言葉に「ただ能天気なだけじゃないの」とシェリはウンメイカーの機能を停止させた。
我がプログラムながら、なかなかしぶとい。
電源を根本から切られ、仮面たちは今度こそすっかり消えてしまう。
「器用と言ってくれ」
「器用貧乏」
減らず口を取り戻したシェリに苦笑いを浮かべ、「貧乏は余計だ」と言い返す。悔しいかな、彼女はこうしてつんけんしている方が自然で安心できた。
シェリは平静さを取り戻したが、問題なのは内村と松崎だった。
本当の己に気づき、自分という人間の小ささに絶望さえ覚え、項垂れていた。
「……結局私って自分が好きだっただけなの?」
「アハハ、悲劇面のナルシストなんて、誰も好きになってくれないはずだ!」
どこにでもある喫茶店の南側にあるだけの席に戻り、乾いた笑いを浮かべる。
壁に貼ってあるラブロマンス映画のポスターがやけに虚しさを演出していた。
自分を知るという一歩を果たしたにも関わらず、それに気づかないで沈んでゆく。
すっかり気落ちしてしまった二人に、店主は再び優しく声をかけた。
「落ち込んでないで、もがいてみたらどうです。お互い愛し愛されるように、もがいてみるのもまた一興」
「もがくなんて、そんな格好悪いことしたくない」
「只でさえ自分の滑稽さに気づいて気落ちしているのに、もがくなんてダサい」
男女は提案を拒絶した。
もがくことが滑稽だと思っているらしい二人の言葉を聞き、店主は数日間の出来事を思い返す。
「僕はもがいている若者を五人ほど知っている。一人目はいい歳して少女漫画みたいな恋に憧れて現実が見られない女性、二人目は運命の人を探す為に手あたり次第男に手を出した女性、三人目と四人目は似ていて、誰かの特別になりたくて人の目ばかり気にしている男性」
白百合、郷之丸、大林と小林。
四人の若者達が店を訪れ南側の席に座ったその時と、帰ってゆくその時の表情や雰囲気の変わりようを思い出すと、もがくことは決して無駄ではないと思える。
「もう一人は……、もう一人は、運命を作ろうと躍起になっている変わった女の子」
店主の視線がカウンター席に座る女に向く。彼らと同じようにもがくのを止めかけた彼女にも、まだもがいて欲しいと思うのだ。
情愛の籠った瞳に見つめられ、シェリは僅かに身体を強張らせる。
二人の視線が交わったのはほんの一瞬で、内村と松崎がそれに気づきはしなかった。
「ほらね、滑稽だ。道化みたい」
「少なくとも僕には五人ともみんな、とても魅力的に見えたけどね」
気さくな声音と明るい微笑みを向けられたのは松崎だったが、魅力的という単語そのものを向けられたのは白百合、郷之丸、大林と小林、そしてシェリである。
戸惑いが過ぎ、どのような表情をすればいいか分からないシェリは、ムズムズする顔のまま店主を見つめる。
その視線に気づいたのか、再び店主がシェリの方を向いた。
「みんなを見て、僕も諦めないでもがこうって決めたんだ」
「……マスター」
「僕も信じてみようって思ったんだよ」
へにゃりと力の抜けている緩んだ笑顔を見て、シェリの身体からすとんと力が抜けた。
――彼女の今日までの実験は、全てこの一言の為だった。
この時シェリは、自分の表情も店主と同じように緩みそうになっているのだと初めて気づいた。
口元や頬、目元がやけにムズつくのは、張りつめた緊張が解けたからだ。慣れない感覚だったが、もう逆らおうとは思わなかった。
長い間表に出せなかった言葉も、顔の筋肉が緩んだついでに喉や口元の意地や緊張を緩めて出してみてもいい。
鼻から息を思い切り吸って、笑う男の目を真っ直ぐに見つめる。
「マスター、あのさ……」
鈍い金属音が街中に鳴り響いた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン――……
びりびりと空気が震え、彼女の言葉は綺麗にかき消されていった。
緩みかけた顔の筋肉がみるみる引き攣ってゆき、目尻が上がる。
彼女から負のオーラが発せられたのに、店主は気づかずとも内村と松崎は気づいていた。
空気が震えているのも、鐘の音ではなく彼女の殺気のせいではないかと錯覚してしまいそうな恐ろしさだ。
「いまなんて言ったの?」
「別に。それでなによ」
鐘の音がようやっと消えると、店主はシェリに確認する。
だがシェリは棘だらけの声で質問を跳ね返した。
彼女の纏う剣呑な雰囲気に気づかないまま、店主は嬉しそうに言葉を続けてしまう。
「ああ、だから僕はこの店でこうしてお節介を焼きながら、これからも運命の人を待ち続けることにした! 押しつけがましいようだけど、君たちも僕と同じように考えてみたら……」
ガタンッ
鐘の音とは違い、耳に痛い騒音が店主の言葉を遮った。
音の出どころはカウンター席。
立ち上がったシェリの背後にはカウンターチェアが転がっている。
勢いよく立ち上がったせいで、椅子が倒れた音だったらしい。
「帰る」
すっぱりと言い、シェリはノートパソコンを乱雑に片手で掴むと出口へと向かった。
この三日間で一番良い実験結果になったはずなのに、いつの間にか機嫌が急下降した女についてゆけない店主。
戸惑う男をよそに、レジ前に代金が叩きつけられた。
「えっ、なんで?」
「帰るもんは帰る!」
金切り声と共に店の扉がけたたましく開かれる。
「全く、バッカみたい……!」
般若にも勝る女の表情と気迫に押された店内の三人は、扉を出る直前に落とされた蚊の鳴くような芯のない呟きも、屈辱と苦痛にくしゃりと歪んだ余裕のない顔もついぞ知らないままだった。
――引き止める間もなくシェリは立ち去ってしまった。
勢いよく閉まった扉の上で、ベルが鈴虫のように忙しなく音を鳴らす。
「なんだよ……誰のために僕がこんなことまで言っていると思って……」
唖然と立ち尽くす店主。
実験の件を知らない内村が「僕らのためじゃないんですか?」と、きょとんと尋ねた。
「君たちのためだけど、彼女のためでもあるつもりだった」
「お節介って結局は持って回って自分のためのものなんですよ」
気を遣う様子のない松崎の意見には苦笑いが浮かぶ。
「それを言われるとぐうの音も出ない。確かに僕の自己満足なのかも。でも、君たちやあの子のために何かしたいって気持ちは本当だよ」
「けどやっぱり何の解決にもなってない気がするんですけど」
お気持ちはありがたいが、お気持ちだけでどうにかなれば苦労しない。
松崎の言葉に便乗し、内村も不貞腐れた。
「そうだ。結局は今まで通りに愛し愛されるように努力しろってことなんでしょ」
「頼りにならないマスター」
「酷いな! ……気の持ちようくらいは変わったんじゃない?」
彼なりに精一杯やったはずなのに、当事者から浴びせられる感謝の欠片もない言葉の数々に店主は結構傷ついた。
そして、いまだに意地を張ろうとする男女を見て、もう一度問うてみる。
内村と松崎はお互い向かい合った。
気の持ちよう。
変わったろうか。
数十分前と姿かたちの変わらないお互いでは、相手の心の変化など知りようもない。
だが数十分前と変わらず、お互いが確かにまだ南側の席に座って、向かい合っていた。
最初にこの席に座った時と違い、松崎の表情が心なしか気まずそうだった。
それに気づいた内村は、既に彼女は少しの変化を経たと知る。
そして、それならば自分も変わったに違いないと思った。
口を噤んだままでは、以前と同じかもしれない。
だが、いま口を開けば変わるのだ。
「詩織ちゃん、もう一度君に交際を申し込んでもいいかな」
不思議と告白は、躊躇いなく唇から滑り落ちた。
不安も動揺もない男の凛とした声だった。
「お試しでいいんだ。一緒にいてみて、それで駄目だったら諦めよう。もう一回だけ僕と一緒に試さないか」
「イエスの答えは変わらないけれど、心も多分変わらないよ」
「それでもいい。僕はもう君が好きだから、君と一緒にいられればそれでいいんだ」
凪いだ海のようなおおらかで大きな告白に、松崎の眉がハの字になる。
呆れてしまうのに、なぜか眉とは反対に唇は楽しさに弧を描いた。
「人から愛されない癖に、すぐに好きになっちゃうなんて難儀な性格ね」
「君こそ、人を愛せないのに、好かれやすいなんて難儀な性格だ」
「ハハハ。……どうせ駄目だよ? 好きになれない。なれっこない」
それは彼女が店に入ってきてから初めて見せた弱気な面だった。
人から愛されるこの女性が、自分とそう変わらぬ不安な表情をしているのを見て、内村の心は少し強くなった。
「どうせ僕も好きになってもらえないかもしれない。でも、君が僕を好きになるはずの分だけ、僕は君を好きになるよ。そうしたら好きの量は一緒だろ?」
「…………今ちょっとときめいたかも」
強く打つ鼓動を自覚した松崎が、自分でも自らの変化に驚き胸に手を当てる。
頬が僅かに朱に染まったのを見て、内村は「ぼくのこと好きになった?」と悪戯に笑って尋ね、松崎は笑顔を取り繕い「それはないけど」と答える。
すると内村は、なんてことはないように肩を竦めた。
「なぁんだ。まあ、もういいんだけどさ」
言葉通りのすっきりとした表情の内村を見て、松崎は真剣に尋ねる。
「本当にいいの?」
「うん、いい」
好きにならなくてもいいと言われたのは初めてだった。
内村の顔に諦めの色はない。ただ彼は自分を受け入れてくれたのだと知り、松崎は未来に光を見た気がした。
「……私、博之を好きになろうと頑張ってみようかな」
こんな風に思ったのは初めてだ。
好きになろうとするだけでなく、好きになりたいと、松崎は内村の言葉を聞いて生まれて初めてそう思ったのだ。
「少なくとも、僕を好きになろうとしてくれる君が僕は大好きだ。それに僕も君に好きになってもらえるように努力する」
「少なくとも、私に好かれたいと思ってくれるあなたに魅力は感じる」
穏やかに見つめ合う男と女。互いの瞳に互いを映しこみ、微笑みを浮かべる。
「愛されたいと思う僕と」
「愛したいと思う私」
――私たちなら、お互いの運命を動かせるかもしれない。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン――……
愛されない男と愛せない女は真っ直ぐに互いを見つめあった。
テーブルの上で互いの手を重ねると、二人の一歩を祝福するかのように鐘の音が鳴る。
まるで結婚式に鳴らされるウエディングベルのような荘厳な響きと、穏やかに微笑む内村と松崎を見ていた店主は、じんわりと胸に響き渡る鐘の音と感動に目頭が熱くなるのを自覚した。
「時計塔喫茶≪
二人の前進を自分のことのように喜ぶ店主を見て、内村が笑い、松崎も頷いた。
「この店のおかげで素敵な出逢いができた気がします」
「鐘の音はちょっとうるさすぎるけどね」
もう十分だという程に鳴り続ける鐘の音のせいで、大きな声で会話をしなければならない。
松崎の大声を聞いた店主は違和感を覚え、ぎょっとした。
「あれ? というか、なんでまた鐘が鳴っているんだ? さっき鳴ったばかりなのに……」
その時である。
喫茶店の外から、鐘の音の隙間に入り込んだ人々の驚愕の声が聞こえてきた。
「大変だ! 鐘つき堂がジャックされて、女が鐘を鳴らしまくってるぞ!」
「うわ、なんだ! 店の前でめっちゃ人が倒れてる!」
「なんで皆くまのぬいぐるみ持ってるんだ!?」
店外には人だかりができ、多くの人間は道に倒れた人間や、鳴りやむ気配のない鐘を見上げようと空を仰いでいる。
実験初日のシェリの言葉を思い出した店主の顔から、ざっと血の気が引く。
「あの爆弾娘ぇぇぇ!! 本当にやりやがったぁぁぁ!!」
転がりそうになりながら店から出てゆく店主を見送り、松崎と内村は互いの顔を見つめる。
鐘の音と共に聞こえてくるざわめきや、店主の怒声。
賑やかな雑踏を聞きながら、新しい運命を歩みだした二人は軽やかな声で笑い、もう片方の手も取り合うのだった。
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