実験三日目 その3


 時計喫茶は沈黙に包まれていた。


 店内に踏みとどまりこそした松崎であるが、声をかけるのを躊躇うほどに不機嫌さを滲ませている。

 しかし後の無い内村は、勇気を振り絞って礼を口にした。


「ありがとう。その、帰らないでいてくれて」

「別に。予定もないし」


 素っ気ない松崎の言葉に、内村は返す言葉が見つからずに黙り込む。


「会話」


 口を閉ざし、静まり返る二人。

 それを見たシェリが嫌味ったらしく口を挟んだ。


「分かってるよ。えーと……」

「あの、人を好きになれないっていうのは?」


 苛立ちながら怖い顔で話題を探す松崎よりも先に、内村が先程とは違い冷静に話題を持ち出した。


「どうしても好きになれない。興味が持てない。嫌いなわけじゃないけどね」

「好きの反対は、嫌いじゃなくて無関心か。お待たせ致しました。ホットティーです」


 店主の言葉にまさにその通りだと肩を竦め、松崎はやっと出てきた紅茶に角砂糖を一つだけ入れて溶かす。

 ティースプーンがカップを小さく鳴らす音に声を重ね「好きなものもないんですか?」と内村がまた話題を振る。


「あるよ。好きな食べ物はパスタ、好きな映画はサウンドオフミュージック、好きな色は緑」

「好きな俳優や女優は?」

「興味ない」


 淡々と話す松崎の回答は可愛げの欠片もなかった。

 成り行きを監視していたシェリは眉間に皺を寄せる。


「あんた、そんなんで人から嫌われない?」

「それが不思議と嫌われない。むしろ好かれるほう」


 松崎がまた当たり前のように、嫌味なく答える。

 それこそが嫌味に感じられ「世の中不条理」とシェリは、嫌味をたっぷり込めて言ってやった。僻みとも取れる言葉に松崎が目を細める。


「心外だな。やるべきことをキチンとやっているからだよ。仕事とか人付き合いとか諸々もろもろ、全部こなせば自然と好感度は上がるものでしょう」


 やるべきことを全てやっている人間というのは案外少ないものだ。

 それらを文句無くこなすだけで、何故か周囲の人々は松崎に好感を持つ。

 松崎からすれば当たり前のことをしているだけなのだが。


「全部こなせているの? 凄いな、尊敬するよ」


 シェリには嫌味にしか聞こえない松崎の持論だが、内村はそうは捉えず、純粋に尊敬の眼差しを目の前の女に向けていた。


「博之はできてないの?」

「頑張ってやってはいるつもりだけど、君と違って好かれるわけじゃないから、できてないのかも」

「頑張ってればいつかできるよ」


 思ったことを口にしているだけなのだろうが、やはり嫌味に取れる松崎の一言。

 だが内村は気分を害した様子はなく、緩く微笑みを浮かべる。


「才能だって関係すると思うよ。ええと……詩織ちゃん……は、凄いなぁ。憧れちゃうよ」

「どうも」


 名前を呼べただけで更に微笑みを深める男から、松崎がゆっくり目を逸らし紅茶を飲む。


 そのまま、再び会話が途切れてしまった。


 沈黙に包まれる南側の席に「会話」とカウンター席から再び声が飛んでくる。


「分かってるよ。……あー、じゃあ、今度は私から質問」

「なんでも聞いて下さい」


 半ば無理やりとはいえ、やっと松崎が自分に興味を向けてくれたことに喜んだ内村は、尻をもぞつかせ、座り直して姿勢を正した。

 松崎は何か質問を探さなければと、興味を持てそうなところを探す。

 目についたのは、彼のいたるところにある怪我だった。


「どうしてそんなに傷だらけなの?」


 無理に絞り出したうえに、質問としては失礼な類にあたるかもしれない。

 けれど内村は松崎が少しでも興味を持とうとしてくれることが嬉しく、誠心誠意に答える。


「さっきも説明した通り、この傷は車に轢かれそうな子供を助けた時、こっちは捨て犬を保護しようとした時の……」

「じゃあその頬の傷は?」


 左頬には目立つ湿布が貼られているのに、内村はその怪我のことには触れない。

 顔に怪我をするなんて余程の理由があるのではないか。

 そう思って尋ねてみたのだが、途端に内村の表情に影が差してしまった。


「これは……」

「ごめん。聞かれたくなかった?」

「あ、いや」

「興味がないから、必要がないと思うと気を使うのをすぐ忘れてしまうの。気分を害したなら謝るよ」

「いいんだ。むしろ聞いてもらわなきゃ駄目なのかも。アピールポイントばかり話したところで、実際それだけが僕ってわけじゃないんだし。……この傷は、元カレに殴られたもの」


「元カレ」


 思わず繰り返された声を聞き、内村がきょとんとした顔で店主の方を振り向く。


「何か問題でも」

「あ、いやいや続けて」


 慌てて話の先を促せば、内村はすぐに気を取り直して再び松崎に向き直った。


「こっちの傷はその前の彼女に思いきり殴られた時のもの、まだ完治してないんだ。お腹にも更に前の彼女につけられた傷痕がある」


 服の袖を捲って見せつけられた痛々しい傷跡や、服の上からそっと撫でられる腹にあるであろう傷痕。それらを内村は平然とした顔で説明してゆく。


「DVってやつ」

「そうなのかな。よく分かんない。今思い返すと、ちゃんと付き合っていたのかも曖昧だ。僕は好きだったけど、相手は僕を好きじゃなかったから」

「それなのに付き合っていたの」

「そう。なんだか詩織ちゃんと正反対だね」


 情けない笑みを浮かべながら向けられた言葉に、松崎は僅かに憤慨した様子で「私は好きじゃなくても、暴力なんて振るったりしない」と低く言い返した。


「ああ、そういう意味じゃなくて……。ごめん」


 松崎に視線を逸らされ、内村は慌てふためく。けれど結局挽回できず、首を垂れて小さく謝った。


「別にいいけど」


 大人げなかったと松崎は心の内で反省するが、表には出さずに素っ気なく許す。

 彼女の内心の反省は知らぬものの、松崎が気にしていないと分かると内村はほっと胸を撫で下ろした。

 半分以上飲んだ紅茶の水面が揺れるのを眺める松崎の姿を窺い見る。

 そして、僅かに勇気を振り絞って、秘密を少し口にした。


「……元カレとは昨日別れたばかりなんだ。新しい恋をするために、別れた」


 カウンター席で事の成り行きを見守っていたシェリはぎょっとする。


「偶然ね。私も昨日まで恋人がいたけど、とあるメールをきっかけに別れてきたの」


 すると松崎までも、自分も似た境遇であることを告げたではないか。


「恋人がいる人間にまでメールを送ったの!?」


 発覚した事実に店主はシェリを睨む。

 偽占いサイトで人を騙しているだけでも褒められたことではないのに、それによって恋人との関係を解消してしまう者までいるとは。

 ロマンチストの彼としては、作為的に離別させられた恋人たちがいるのは納得がいかない。


「該当基準は恋人の有無でなく、信じやすい人間だったから……」


 シェリとてまさか恋人と別れてまで占いを信じる者がいるとは予想はしていなかった。


他人様ひとさまの恋愛かき回して!」

「暖かく見守るんじゃないの!」

「暖かくなんて言ってない」

「屁理屈ばっかり」

「どっちが」


 店主に責められ、非を認められなくなったシェリが意地を張る。


 影での小さな言い争いに気づきもせず、実験に巻き込まれた被験者二人は見えてきた共通点によって、会話に弾みが生まれてきていた。


「博之はバイセクシュアルなの?」

「君こそ」

「おかしなこと聞くね。誰も好きになれないんだから、どっちも好きってんじゃないよ。好きになれないかって、どっちも試したことはあるけど」

「僕も似たようなものさ。僕の場合は、あんまりにも女性から好かれないから、男性なら好いてくれるかもって理由で試しただけなんだけど」

「自分自身は抵抗ないの?」

「僕は、僕のことを好きになってくれる人なら、どんな人だって構わないんだ」

「健気ね」

「そう言えば聞こえはいいけど、悲観的なだけだよ」


 その被虐さに「自分で言う?」と思わず松崎はからかいの言葉をかけてしまった。内村は深く頷く。


「言う。あのね、君が告白してくれたから僕も言うけれど、僕はどうしてか人から愛されないんだ。嫌われているわけでもないし、友人もいる。でも、恋愛という意味合いで僕を好きになってくれる人がいないんだよ」


 男の決死の告白を、松崎は「ふーん」と適当な相槌で返す。

 内村は苦笑いを浮かべた。

 彼女はきっとそういう反応になるだけだと予想がついたから打ち明けられたのも事実だが、やはり物寂しいものがある。


と、。絶望的な組み合わせだ」


 男女の告白を聞いた店主は、今日の実験も失敗だろうと確信を得た。


 だがシェリは諦めていなかった。

 この実験のために政府も驚きのプログラムを開発までしたのだ。はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。


「むしろ運命的と考えるべきよ。彼女が彼を好きになればハッピーエンド」


 果たしてそう都合良くいくだろうか。

 ロマンチストの店主ですら、その展開は難しいのではと思ってしまう状況だ。


「運命。運命ね。私その言葉好きじゃないの。占いとかも嫌い」


 シェリの言葉が聞こえていたらしい松崎がそう口にした。

 運命占いに導かれてやってきたはずの彼女がどうしてそれを否定するのか。そもそも何故彼女がウンメイカーに選ばれたのか。

 被験者となっていることを知らない内村は、松崎の否定的な言葉に残念そうな表情を浮かべる。


「そうなの? 僕は運命も占いも結構好きだけどな。だって僕に希望を与えてくれるから」


「希望」


「星座占いでツイてるってだけで、嫌な毎日も少し幸せになれる。誰も僕を好きになってくれなくても、運命の相手ってのがいると思えば希望が持てる」


 ――内村の脳波を受信し、小さな起動音と共にウンメイカーが作動する。


 大量のモニターは出現しなかった。代わりに、店内の席を埋め尽くす仮面たち。

 オレンジ色の光が白く輝きだし、内村はフロアへと進む。

 

 そして男は笑顔を浮かべ、明るい声で語りだした。



『内村博之の独白』



 ――生まれついての才能ってあると思うんです。足の速い才能、頭の回転が早い才能、絵の才能、歌の才能。色々な才能がある中、僕が持って生まれてのは、どうしようもなく抜けてるという才能だった。一生懸命勉強しても、名前を書き忘れて零点扱い。リレーのアンカーに選ばれても、ゴール目前でコケて最下位。芸術センスもなくて、放課後残ってまで作った図工の陶器は完成間近に落としておじゃん。気を張って生きているつもりだけど、肝心なところでミスをする。人は僕を心配してくれるけれど、それは同情や親切心からで、心の底から僕を心配してくれる人なんていない。いつも人に呆れられながら生きてきた。


『一生懸命頑張ったのに、どうして駄目になっちゃうんだ』


 幼い内村がぽつんと立って、足元に散らばる数々の失敗作を見下ろす。

 下手な絵、千切れた縄跳び、割れた陶器、土で汚れたアンカーのたすき、丸だらけの名前の無い零点のテスト。

 毎日振り返る今日の自分。朝から晩まで一生懸命やってきたはずなのに、失敗ばかりが重なってゆく。


『努力が足りないの? もうできないってくらい努力してるのに!』


 繰り返される憂鬱な朝。

 リモコンが見つからない。いつも見ている子供番組にチャンネルを変えられず、失敗して焦げたトーストを齧りながら、興味のないニュースを観る。

 朝から散々だ。

 一日の始まりで既に気を滅入らせている幼い少年の目に整った顔立ちのアナウンサーが入った。

 彼女はわざとらしい偽物の笑顔で、星座占いを読み上げていた。


『山羊座のあなた、残念最下位! 努力が裏目に出そう!』


 ――その日、クラスで起きた喧嘩を止めようとして、巻き込まれて前歯を折った。でも、僕はいつものようには落ち込まなかった。今日は運勢が悪かったんだから仕方ない。きっと運が良かったら上手くいったさ、って。


『後ろ向きのプラス思考』


 幼い内村と笑顔のアナウンサーが片手で自分の目元を隠し、もう片方の手で真っ直ぐに前を指さした。


 ――星座占いで一位の日、良くないことがあったら別の占いを見る。血液型占い、手相、動物占い、なんでもいい。良くない結果の占いを見つけて納得する。やっぱり僕はツイてなかった。今日の失敗も仕方ないって。


『後ろ向きのプラス思考』


 ――今日まではツイてない運命だから仕方ないって毎日自分に言い聞かせるんだ。占いの結果が良い日に良いことがあると最高に嬉しい。僕の運命にも良いことはあるんだ! 占い一位の日にアイス棒に当たりの文字を見つけたら、もう最高!


『小さい幸せ』


 当たりに喜びはしゃいだせいで、アイスが棒から抜けて地面に落ちる。

 結局一本しか食べられなかったアイスを片手に、幼い内村が大人になった自分を嘲る。


「仕方ないだろ。そんなものでも、幸せって考えないとやってられないんだ」


 内村は地面に落ちて溶けたアイスを見下ろしながら、変わらず笑顔を浮かべていた。


「運命という敷かれたレールの上を、僕たちは歩いている。僕の不幸は予め決まっていたもので、僕の努力が足りないわけじゃない。運命が存在すれば僕は報われるんだ」


『後ろ向きのプラス思考』


 ――目元を自らの手で覆い、見えもしない前方を真っ直ぐに指さす幼い内村とアナウンサーが景色と同化して消えてゆく。


 仮面の姿が消え去った店内で、内村は再び南側の席に戻った。


「……だから僕は運命や占いが好きなんだ。でもどうしてかな。ずっとそうやって自分に言い聞かせてきたけれど、どうにも限界らしい。だから僕は、最後の賭けで今日ここに来たんだ。君に会いにきたんだ」


 悲劇とも取れる人生を語ったにも関わらず、内村は話す前となんら変わらない笑顔を浮かべている。


 内村がどうしてこの店に来たのか。

 その真意を知った松崎が「私に会いに」と独り言のように繰り返した。


 彼にとってそれほど重きを置いた存在が、偶然か運命か、目の前に座ってしまった自分なのだと自己確認する。

 内村は目の前に誰かが座ってくれるならば、それが誰であろうと構わなかったのだ。

 松崎でなければならない理由はない。

 理由をつけるとするならば、この南側の席に座ったのが彼女だったということだけだ。


「ずっと待っていた運命の人。どんな占いにも出てきた運命の人。会える会えると書かれても、ずっと会えなかった人。今日も会えなかったら、もう運命や占いを信じるのも止めようと思った」

「信じるのを止めて、どうするつもりだったの」

「やっぱり僕がいけなかったんだ。これから先も僕がいけないんだって思って生きてゆく」


 その異常な言葉は、微笑を浮かべた内村の唇からすらすらと流れ出てくる。


「でも僕はやっと君と出逢えた。あとは君が僕を好きになってくれるだけ。それで、僕は見えもしないものにすがる人生から抜け出せるんだ」


 些か興奮したのか、頬を紅潮させて内村は熱い視線を松崎に送る。さながら女神を崇拝する狂信者にも似た心酔が垣間見えていた。

 男から発せられる異常な力を威圧で押し返そうと、松崎がわざと声を低くして告げる。


「ねぇ、それって脅しに聞こえる」

「そうだね。脅しと思ってくれても構わない。それだけ僕は必死だ」


 否定せず、謝罪もせず、内村は落ち着いた様子でにっこりと笑みを深めた。


「脅しから愛が生まれるとでも?」

「少なくとも僕は脅されても愛せる。愛に飢えて生きてきた分、人を愛するのは上手いんだ」


 泥を混ぜ込んだ瞳。濁った熱意が全身に纏わりつく。

 無表情だった松崎が、顔の筋肉を強張らせる。

 異様なまでに重苦しい毒の空気が店内を包んでいた。

 呼吸すら忘れる空間。

 それを作り出した内村が、目の前に座った運命の女に微笑みかける。


「嫌そうな顔も魅力的だよ、詩織ちゃん」


 全身に怪我を負った男は、天使の微笑みを顔に張りつけているだけだ。

 天使の仮面の奥には、何か恐ろしいものが潜んでいるのではないか。そう思わせる、蛇が這うような声だった。


「あなたが受けてきたその傷の理由、今なら分かる気がするわ」


 動揺したのは一瞬だ。

 松崎はすぐにも凛とした雰囲気と表情を取り戻し、姿勢を正して真っ直ぐに言葉をぶつける。


「そう? ありがとう。僕を理解してくれるなんて嬉しいよ」


 隠しもせず嫌悪を向けてくる女にすら、内村は喜びを露わにする。


 この男は、こういう男なのだ。


 松崎は内村博之という男を少し理解した。

 恐ろしく感じるすれ違いも、根本こんぽんを辿ってゆけば価値観の相違という答えが見えてくるはず。

 

 ――そのためには、彼女もまた彼のように自分を語る必要があった。


「……さっきも言ったけど、私は運命とか占いとか信じないの。あなたとは逆で、それに絶望を感じるから」


「絶望」


「生まれた時から自分の運命が決まっているなんて、そんな不愉快なことはない。これまでの人生、私なりに考えて生きてきたつもり。だから占いが当たるとぞっとする。私は決まったレールの上を歩いているだけで、自分に選択の余地は無いんじゃないかって」


 起立を命ぜられた優等生のように席からすっくと立ち上がり、松崎はフロア中央へと向かう。

 店内の席を埋め尽くす仮面を見渡して、最後に内村を冷やかな目で一瞥。


 そして女は無表情で、淡々とした声で語りだした。



『松崎詩織の独白』



 ――生まれついての才能があるなら、私にはそれがあった。頭の回転が早い才能、臨機応変ができる才能、努力の才能、人に合わせる才能、人から愛される才能。皆、私に魅力を感じて、時には心底好きになってくれた。


『松崎のことが好きなんだ。お前の為にダンク決めるから見ててくれ!』


 ――少女漫画みたいな告白にときめいたし。


『俺の落語で笑わせたるから、裏で座布団持って見とき!』


 ――努力しているところを見れば感心するし。


『I think of you and I’m Living out my fantasy』


 ――ロマンス映画のような口説き文句にも魅力を感じたし。


『不愛想なところも可愛くて好きよ、ウフン』


 ――私の全てを受け入れてくれるのも有難いと思った。


 バスケットボール部の主将、落語家もどき、イタリアからの留学生、将来有望のOL。四人は目元を仮面で飾り、松崎に大きな愛情を向けて、愛に満ちる笑顔を浮かべている。


 ――でも、好き、まではいかない。興味が湧かない。家に帰ればその人のことはどうでもよくなり、別のことを考える。やり残した仕事、休日何をして過ごすか、読みかけの小説の続き。好きになる努力はしてきたけれど、どうにも好きになれない。だから半ば諦めた。まあいいや、次の相手は好きになれるかもしれないって。


『前向きなマイナス思考』


 歴代の恋人達は、遠くまでよく見えるように目の上に水平に手を翳したが、反対の手は真っ直ぐに自分の背後を指さしている。彼らの顔から笑顔は消えていた。


 ――興味がないから、どうして好きになれなかったか考えるのも億劫になる。考えるだけ無駄。次があるから大丈夫。傷つけた事実は変えられないし、くよくよ悩む時間がもったいない。その間に次の人にチャレンジすればいい。


『前向きなマイナス思考』


 ――そんなある日、友達が私に占い雑誌を見せて言った。「今日の運勢抜群に良いよ! 運命の相手に出逢えるかもだって!」その日、クラスメイトから告白された。でもやっぱり好きになれなかった。その時初めて思った。私が悪いの?


『どうしてそう思ったの?』


 仲の良かったクラスメイトが肩を落として去る姿を見つめていた過去の松崎が、振り返って今の自分に問う。


 ――仮に運命があったとして、その人と結ばれるはずの運命を無碍にしたのは、私が人を愛する心を持っていないからじゃないかって思ったから。本当はいつでも罪悪感があった。好きになってくれたのに、私は好きになれない。申し訳ないと思った。それって失礼な話よね。分かってる。でも、どうしてもそう思っちゃうのよ。運命の人なんて、いて欲しくない。私がその人しか好きになれないと決められているなんて真っ平御免。私は私の意思で誰かを好きになりたい。そうじゃなきゃ、今まで一緒にいた人達に合わせる顔がないのよ。


「いらない罪悪感じゃん」


 残酷な告白を聞いていたシェリは、なんの同情心もなく無慈悲に言った。

 松崎の周囲から過去の景色が消え、彼女は現在に引きずり戻される。

 金髪の女を横目で軽く睨んだ後、三人の傍聴者しかいない喫茶店で、変わらず背筋を伸ばして語った。


「……私が今日ここに来たのは、運命なんて無いって証明するため。私は運命を信じていないんじゃなくて、信じたくないと思っているの。信じたくないを信じないにするには、運命なんて無いという確信を得なくてはならない。だからここに来た。もう何人目か分からない運命の人とやらを、今回も好きにはなれないって確信できたら、運命なんて無いって今度こそ自分に言い聞かせる。そうしたら私はこの罪悪感から解放されて、また以前のような考えに戻れるはず。私も賭けたのよ、この出逢いに。どうせ好きになれっこないってね」


 再び席に戻った女は笑う。

 勝ち誇ったような、それでいて自虐も感じる笑みだった。

 美しい微笑みは、内に渦巻く歪で複雑な心を隠す仮面だ。

 あらゆる感情から目を背け、生きるために女は愛される仮面をつけていた。

 南側の席に美しい仮面をつけた男と女が、素顔も曝さずに向かい合っている。


「僕を好きになったら、運命を信じる?」

「好きになれないと思う」

「好きになって下さい」

「もしあなたを好きになったら、私の今までの人生がボロボロになるの」

「君が僕を好きになってくれないと、僕の今までの人生がボロボロになる」


 冷やかで切実な攻防が繰り広げられる。

 落ち着き平静を保とうとしているようだが、明らかに内村も松崎も切羽詰っていた。


 ――過去の自分への肯定が、全て今ここに懸かっていた。


「最低最悪の組み合わせだ」


 店主がぼやく。彼はとっくに実験成功を諦めていた。

 現状が極めて不利であるとシェリも理解している。かといって納得できるかといえば、そうはいかない。


「くっついてもらわないと困る」

「どうしようもない」

「こういう時のためにウンメイカーがある」


 ウンメイカーはシェリの脳波による命令を最優先するよう仕込まれている。例えこのような事態だろうと、彼らの間に運命を作るはずだ。


(ここまでして運命が作れることを証明できない? 嫌よ、そんなの絶対認めない! 何をしたって運命を作り上げなくちゃならないのに!)


 カウンター下のメモリーキューブが脳波の流れを受信し作動する。


 ――いっそ精神部にクラッキングしてでも、運命を作りあげてしまえ!!


 本来の実験意図から逸れる思考の流れに陥ったのは、彼女が焦りに焦っていたからだった。

 爆音が響いた。


『運命ガ作レマセン、運命ガ作レマセン、エラー発生、エラー発生』


 サイレン音と共に無機質な機械音声が店内に響き渡る。

 店内の景色がまるでテレビに砂嵐が走るかのようにぶれた。

 嵐の中に浮かんでは消えるモニターにはノイズが走り、席に座っていた仮面達の動きもコマ送り映画のように鈍い。

 中には振り回される操り人形のように四肢をばたつかせる仮面もいた。


「なんで? バグ? ウイルス?」


 異常事態にシェリはカウンターの裏に設置したキューブを取り出し、パソコンに接続する。キーボードに指先を叩きつけ、原因を探すとエラー画面が点滅した。


「クラッキング拒否……!」


 勢いよく振り返り南側の席を見る。

 そこには、これだけの騒音が店に鳴り響いておりながら一切気にした様子なく互いを睨み合っている内村と松崎の姿があった。

 ぴくりとも動かない。まるでマネキンだ。

 運命という曖昧極まりないものから目を背けてしまった彼らの脳は、無意識にウンメイカーによる思考回路への侵入を拒絶していた。


(彼らにはこれが聞こえていないし、目に入っていないのか? それどころか、僕たちのことすら、今の彼らには……)


 シェリと同じように南側の席に視線を向けた店主は、耳を塞いで顔を顰める。


 心を閉ざした彼らには、作り物であるウンメイカーの音も姿も認知できない。

 それどころか人為的な精神内への介入を防ぐ為に、内村と松崎は脳の一部を昏睡状態に陥れているのだ。だから、二人にはシェリが騒ぎ立てる声すら聞こえないのである。


 パソコンの画面に流れ星のように次々と走る文字を目で追うシェリの顔からはどんどん血の気が引いてゆく。


「何これ。ウイルスに似てるけど違う、ネットからの侵入じゃなくて脳波からの……。彼らの心がウイルスそのものだとでもいうの?」


 計算で数値化できない、運命と同じく曖昧な〝心〟という存在にシャットアウトされ、ウンメイカーのプログラムは行き場を失っている。


(強制終了と強制起動が繰り返されている。ウイルスが二種類? 松崎が運命を否定して、内村が運命を無理矢理引きずりだそうとしているのか!)


 数字の羅列を睨み、ウイルスを侵入させた脳の神経回路に麻酔的錯覚を起こそうと、強制起動を繰り返すデータを探し出す。


『運命ガ作レマセン、運命ヲ作リマス、運命ガ作レマセン、運命ヲ作リマス、作レマセン』


「何言ってるの。運命を作るのがあんた達の仕事でしょう!」


『運命ハ見エナイ。見エナイモノヲ無イト言ッタラ、ソレハヤハリ無イ』


 ウンメイカーが街中の人間達の脳波にクラッキングを始め、店内に様々な人間の姿が浮かび上がる。

 彼らは皆欲望のままに騒ぎ、願いを口にし、思い通りにゆかない現実に転げまわっていた。

 人間の絶叫、悲鳴、口々に喋る仮面。

 あらゆる雑音が木霊する。


『運命ヲ作リマス、運命ハ作レマス』

『運命ガ作レマセン、運命ハ作レマセン』


 内村の脳に手動でクラッキングを成功させ、シェリはエンターキーを叩いた。

 これで止まるはず。

 そう思って振り返るが、一向にエラーは終息に向かう気配がなかった。


(なんで……! 内村じゃないの!?)


『運命ハ見エナイ。見エナイモノハ、アルトイッテアゲナイトナイ、ナイ』

『無イモノハツクレナイ、有ルモノシカツクレナイ』

『信ジナイト運命ハツクレナイ』


「うるさいうるさいうるさい! 集中してるんだから静かにしなさいよ!」


 実像のない仮面に何を言ったところで意味はなかったが、叫ばずにはいられない。

 ヒステリックに叫び、シェリは自分の背後に集まる仮面達にティーカップを投げつけた。

 それは半透明の仮面の身体をすり抜け、ガシャンと壁にぶつかり、粉々に割れる。



『運命ハ作レマス』



 運命を作れないと騒ぐデータの中で、唯一運命を作れると叫び続けてる仮面を見つけ、シェリは呼吸を止めた。


(まさか……)


 金色の髪をした自分とよく似た仮面の女が騒いでいる。


(もう一つのウイルスは、わたし……!)


 欲に塗れ、醜く歪んだもう一人の自分。

 運命を作ることを強く望みすぎたせいで心を暴走させ、プログラムを破壊したのは他ならぬ製作者の自分だったのだ。

 人の心など簡単に操れると言ったシェリ本人が、自らの心で自らの持論を打ち崩したのである。


 全ての音が突如遮断されたように消えた。


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