実験一日目 その5
心の中は真っ暗だった。
いつの間にか入りたくないと思っていた落とし穴にすっかり嵌っていたようだった。
暗闇は恐ろしく感じられたが、這いだしかたも分からないので二人は暫くその闇の中にいた。
何もない暗闇の中で、二人は暫し考えこんだ。
席を外す気にもならない今、することもなかったからだ。
いざ考え込み始めると、暗闇は気にならなくなった。
考えることに夢中になっていた。
――やがて三度鐘が鳴った。
一時間経っても、二時間経っても、三時間経っても郷之丸と白百合は南側の席に座って、黙ってじっと俯いていた。
いつまでも続くように思えた重たい沈黙も、差し迫る閉店時間により終わりに近づいてゆく。
「……ラストオーダーのお時間ですが」
店主はカウンターの中からそっと声を掛ける。
二人は反応しない。
「お客様」ともう一度彼女達を呼ぶと、白百合が沈黙を破り静かに口を開いた。
「……私、自分で言うのもなんだけど駄目人間よ。要領悪いし、人見知りだし。でも私なりに必死でやってきたつもり。だから、いくらなんでもそんなに嫌うことないじゃないって思う」
彼女の訴えは、三時間以上前に郷之丸に突きつけられた感情に対するものだった。
今にも泣き出しそうな声に、郷之丸はくしゃりを顔と歪める。
白百合には白百合の言い分があるのだって分かる。ただどうしても。
「でもあなたが嫌いなのよ」
――このずぼらで卑屈な女が嫌いで仕方がないのだ。
白百合は郷之丸の言葉を聞いて、自嘲の笑みを浮かべる。
目の前の少女が自分の訴えを受け入れないだろうことは、考え込んでいた間にとっくに予測していた。
それでも聞いて欲しいと、暗闇の中にいた彼女の本心が主張したので、口にしたまでである。
ゴミ箱の中にある小さな四角い機械が、彼女の心の小さな変化に僅かに反応し、鈍い起動音を立てた。
『白百合アリスの独白』
誰の目にも見えない仮面をつけた白百合が、素顔の彼女の背をそうっと押す。
まるで誰かに助けられるように、白百合は長年閉ざし続けていた本音を静かに口にしだした。
「――私、小さい頃から少女漫画を見て育ってきた。いつか私も本物のアリスのように、不思議な体験ができるんじゃないかって、ずっと夢見て生きてきて、気づけばもう二十九歳。夢や理想とは違って、私はごく一般的な家庭で育って、ごく普通の人間に……それどころか駄目人間になっていた。けれど、漫画やアニメの世界ではそういう女の子の元にこそ、素敵な人が現れたりするでしょ。きっといつか私もそうなるって、本当の本当に本気で信じていた」
誰に向けられた言葉でもない。
しいて言うならば、白百合の言葉は白百合自身に向け語られているようだった。
「引く」
だが郷之丸は都合の良い白百合の言葉に嫌悪し吐き捨てる。
白百合は「自分でも引くわよ。でも本当に信じていた」と、涙ぐんだ瞳を細めた。
「そしたら占いサイトからメールが来たの。占いは好きだった。私に自信を持たせてくれるから。だから信じたの。運命の人をずっと待っていて、そうしたら今日ここで逢えるっていうんだもの。信じたくなるでしょ、疑いたくなかったの。……占いだけじゃない、今までの自分のことも。これで運命の人と結ばれなかったら、今までの私って何だったんだろうってなっちゃうから」
「白百合さん……」
「郷之丸真里、お前が嫌いだよ。お金持ちで、可愛くて、頭が良くてモテて。そんな運命の相手を求めていたはずなのに、いざ目の前に現れてみると、同性なんてのも抜きに腹立たしくなったんだ。それだけ恵まれていて、運命の人にまで逢いたいの? 私と正反対でそれだけ幸せなくせに、なんで私と同じで苦しいって顔をしているの? 本当にむかつく!」
敵意に満ちた視線を受け、郷之丸が「どうして」と尋ねた。
嫌いな箇所をあげられたとしても、それでもなぜ嫌われなければいけないのか分からない。
「どうしてって」
白百合は言葉を詰まらせた。
理由がすぐに見つからず、己の内側に目を向け黙り込む年上の女。
その様子を見た郷之丸は、歪めた顔に引き攣った笑みを浮かべて語りだした。
「私って良い女だと思うんです。だって良い女であろうとしているんですもん。お金持ちに生まれたのは偶然だけど、お洒落とか勉強とか精一杯頑張っているんです。だから良い女で当然なのに、どうしてそんなに嫌われなきゃいけないのか分からない」
そうだ、彼女は自分のしなかった努力を積み重ねてきたのだ。
だから良い女であって当たり前なのだ。
白百合だって少女の言うことは百も承知だった。だがそれでも、どうしても。
「でもお前が嫌いなんだよ」
――このお高く止まって自信に満ちた女が嫌いで仕方がなかった。
郷之丸は白百合の言葉を聞いて小さく笑った。
目の前に座る年上の女は、郷之丸が心の内に何を抱えているかなんて見えやしないのだ。ここまで上り詰めた者の辛みは、彼女に分かりやしない。
外面だけを見て、恵まれていると決めつけられる。
こうしていつも、誰にも分かってもらえないのだ。
『郷之丸真里の独白』
隠していては分かってもらえるわけはないのだと、仮面の郷之丸が素顔の彼女の背中を押す。
「友達がたくさんいます。でもその人達のうち、何人が本当の友情で繋がってくれているんだろう。いつも不安なんです。お金が目当てなんじゃないか、見た目が目当てなんじゃないかって。そう思いたくなくて努力してきたのよ。勉強して、努力して。私は価値のある人間だから、人が寄ってきて当然って。後付けの自信だって気づいていたけど、でも他にどうすれば良かったの。いつか本当の私を好きになってくれる人がいると思って、探して探して探し続けたのに、結局誰も違った」
郷之丸の言葉もまた、誰にでもなく彼女自身への言葉であった。
「無節操」
白百合が年下の行動に嫌悪して吐き捨てる。
すると郷之丸は「いつまでも運命待ってる女よりはマシよ」と鋭く白百合を睨みつけ、小さく鼻を啜った。
「……ずっと探していたの、そうしたら占いサイトからメールが届いた。ずっと探していた運命の人にやっと逢えると思って、縋るような気持ちだった。でもいざ目の前に座ったのは、私とまるで正反対な駄目人間じゃない。神様、冗談でしょ! って思いましたよ、本当」
「郷之丸さん……」
「白百合アリス、あなたが嫌い。心配してくれる友達もいるくせに、卑屈で羨ましがって。そんなにふてぶてしい態度なのに、どうしてあなたには友達がいるんですか? それだけ駄目人間なのに、どうして今までやってこられているんですか? 私はいつもいっぱいいっぱいなのに、なんで私と正反対のくせに、私と同じで苦しいって顔しているんですか? 本当にいらつく!」
「どうして」
白百合は郷之丸と同じように、辛そうな表情を浮かべて問いかけた。
「どうしてって」
郷之丸も同じように言葉を詰まらせ、己の内側へと目を向ける。
――すると、女達はすとんと肩の荷が下りたような感覚を覚えた。
最後の仮面が取り払われ、靄が霧散するように視界が晴れてゆくようだ。
顔を上げ、仮面の無くなった瞳でもう一度目の前の相手を見つめる。
そこに座っているのは、自分とは正反対で、けれどどこか似ているもう一人の自分だった。
「羨ましかった。羨ましくて妬ましかった」
「あなたは私に無いものを持っているから。そうだ、私達は……」
――相手が羨ましかったから、こんなにも嫌いなのだ。
仮面が愛おしむように、晴れやかな顔をする女性の頭を撫ぜる。
『ないものねだり』
「私に無い物を持っているのに、どうして私が羨ましいの?」
仮面が慈しむように、憑き物が取れた顔をする少女の頭を撫ぜる。
『ないものねだり』
「正反対で、お互い欲しい物を持っているのに、どっちも幸せじゃないなんて。じゃあ本当の幸せってなに?」
真っ直ぐに見つめ合ったまま、困惑の色を滲ませるないものねだりの女達。
カウンターから二人の仮面が剥がれる瞬間を見守っていた男は、静かに答えを出した。
「隣の芝は青い。結局、自分が今持っている物に目を向けなければ、いつまで経っても満たされないで、幸せになれることはないんじゃないかな」
「私が今、持っているもの」
「まずは自分を好きになってあげないと。そうじゃなくちゃ、他の誰かを好きになるのは難しいですよ」
――どうということはない。誰もが持つ不安を彼女たちも持っていただけだ。
穏やかな微笑みを浮かべる店主の言葉に、郷之丸と白百合は深く考え込みそうになる。
だがそれは店主の「申し訳ありません。そろそろ閉店のお時間です」という言葉で遮られてしまった。
ゴミ箱の中にあったメモリーキューブは静かに電源を落とし、壊れてしまう。
小さなキューブの存在に気づかない女たちは、荷物を持ちそれぞれ無言で会計を済ませた。
先に支払いを終えた白百合は、レジを背に歩き出した。
だが南側の席の前で足を止めると、不意にティーカップに手を伸ばし、僅かに残っていたエスプレッソを一気に飲み干したのである。
「苦っ、まずい!」
舌に襲う強烈な苦味に、白百合の顔がぐしゃぐしゃに崩れる。
突拍子のない白百合の行動に、郷之丸は戸惑い「何をしているの」と訝しげに尋ねた。
アイスメープルロイヤルミルクティーで口直しをした白百合は、勢いよく顔を上げる。
その顔は太陽のように輝いていた。
「こんな苦いもの飲めない! やっぱり私はアイスメープルロイヤルミルクティーが好き! それにこの服はあんたにとってはダサくても、私はお気に入りなの」
散々繰り返した言い争いをまた始める気なのか。
しかし、白百合の雰囲気は花が咲いたように明るく、郷之丸は「はあ」と勢いに押されるまま頷くしかできない。
白百合はにっこり笑うと、ふんぞり返って晴れやかに両手を開いた。
「私、自分が大嫌い! これだけ長い間自分が嫌いだったのに、今更どうやって自分を好きになったらいいか分かんない。でも、あんたのことを好きになれたら、きっとその時は自分のことも好きになれるんだと思う。もう受け身はやめ、待つのもやめ! とりあえず、次の店行こう。もう夜だし、あんた酒好きなんでしょ? 居酒屋でいいわね!」
「どうして。私が嫌いなんでしょう」
戸惑いのままに郷之丸が尋ねれば、白百合は大きく頷いて「そうよ、大嫌い、自分のこともあんたのことも」と交互に指さした。
「私も。そんな二人でこれ以上会話が続くと思うの?」
「とりあえず、自分の嫌いなとこも相手の嫌いなとこも全部言い合いっこすんの。そうしたら、新しい何かが見えるかも。だって私達は運命の人なんだから」
少女のような笑顔を浮かべる年上に、郷之丸は唖然と口を開けた。
目の前の女は、なんと輝いているのだろう。
彼女の顔を見ていると郷之丸の顔も自然とむず痒くなり、緩んでくるではないか。
「……いいですよ。白百合さんが羨ましがっている私の芝が、どんなに手入れが大変で面倒なものか教えてあげます!」
「上等。……マスターさん」
声をかけられ、店主は目を瞬かせる。
白百合はぐるりと店内を見回すと、今日一番の笑顔を浮かべてこう言った。
「ありがとう。この店で良い出逢いができたわ」
意気揚々と店を出てゆく白百合の後を、郷之丸も笑顔で「最悪の出逢いの間違いでしょ!」と言い放って追いかけてゆく。
「ありがとうございました」
ベルの鳴る音を聞きながら、今日一日店に居座った二人の客を店主は見送った。
店内に一人、ぽつんとカウンターに佇む店主。
穏やかなオレンジに照らされる店内の向こう、窓の外はすっかり暗くなっていた。
――なんとも賑やかな一日だった。
店主はドアにかけられた看板をクローズへとひっくり返す。
綺麗に飲み干されたエスプレッソのカップとアイスメープルロイヤルミルクティーの入っていたグラスを片付けながら、濃密な一日を振り返った。
「どうして実験に協力するようなことしちゃったかなぁ、運命を偽造したようなものなのに。……でも、あれを見ていたら放っておけないよなぁ」
晴れやかな顔で帰っていった女達を思い出せば、自分のしたことは間違いではなかったと確信を持てるような気がする。
だから、都合よくあれで良かったと思うことにしよう。
そんな風に考えていた時に、カウンターに置かれた黒電話が鳴り響いた。
アンティークショップでわざわざ購入した古めかしい電話の受話器を取る。
「はい、もしもし」
お決まりの言葉を口にすると、『もしもし、私』と、あのなんとも不愛想な女の声が機械交じりに聞こえてきた。
店主は受話器を肩と耳に挟み、カウンターを拭きながら「ああ、君か」とシェリの顔を思い浮かべる。
『明日のリベンジだけど。三月二十日生まれ赤いTシャツと、八月十五日生まれ青いTシャツに内容を変更するわ』
「今十一月だよ。Tシャツって寒くない?」
ぎょっとする店主に返された言葉は『それでも着てくるほど占いを信じている人間がいいのよ。その方が証明しやすいでしょ』という非情なものだった。
そういうものだろうかと首を捻っていると、やや沈黙した後に気まずそうな声が受話器から聞こえてくる。
『……あと、今日の実験は失敗じゃないからね。思わぬミスがあったせいで』
そういえばシェリは、女たちが仲違いしたままだと思っているのだ。
是非とも訂正せねばと店主は奇妙な結果を報告する。
「そのことだけど、なんだかよく分からない結果に終わったよ。お互いをとっても嫌いになって終わった。でも、良い出逢いではあったみたい。ひょっとしたら本当にそのうちくっついたりしそうで怖いなぁ」
冗談交じりで笑ってみるも、シェリはそれに乗って笑ってはくれなかった。
気まずい沈黙が数秒下りた後、店主は恐る恐る「ねぇ、明日もやるの?」と、どうせ覆らないであろう彼女の意見を再確認する。
すると案の定、聞いただけで自信満々の顔が想像できる、いつもの凛とした声が言った。
「明日こそ。明日こそ運命は作れるって証明するから期待していて」
相手の意見など聞く気もないらしく、返事がある前に通話はぶつりと切れたのだった。
――一組目 ないものねだりの女たち END ――
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