春の嵐・11
エリザは医師の部屋で目が醒めた。
あまりに興奮しすぎて……恥ずかしいことに、最高神官に暗示を掛けられてしまったのだ。
だが、霊山の動きは素早かった。
医師が、エリザの脈を確認しながら、サリサの伝言を伝える。
「サリサ様は、もう既に山頂に向かって出発しました。予知夢は必ずしも起きるとは限らない、だから、気をしっかり持って欲しいと」
エリザは起き上がった。
「体調が優れないなら、少し休んでいかれるようにとも……」
「いえ、ジュエルが心配だから……」
そう。エリザは宝玉が飛び散ったのに動揺し、ジュエルを置いたまま、飛び出してきてしまった。
心配だった。
ラウルのことも心配だったが、ここにいてもできることはない。
「サリサ様は、何かあったらすぐに伝書を飛ばすと言っていました。そして、すぐにあなたにお伝えするようにとも」
医師が、立ち上がったエリザを追いかけるようにして、言った。さらに。
「エリザ様。ご自分を責めないようにと……」
「わかっています」
エリザは、そう返事をした。
だが、充分に自分の責任を感じていた。
――ラウルが死んだら、私のせいだわ。
時間がなかった。
エリザに何の言葉を掛ける暇もなく、サリサは五人の仕え人を従えて山頂を目指した。
採石師ほど体力はないが、霊山はサリサの力を充分に引き出す。まさに、庭のようなものである。
それでも、この旅路が最高神官の寿命を消費すると思えば、誰もが反対した。それでもサリサの気持ちを変えられないとあれば、早くに捜索を終えられるよう、誰もが急いだ。
場所はわかっていた。夢見はすべてを教えてくれる。
ただ、時間が明確ではない。もう既に起きてしまっているのか、これから起きるのか?
起きた事は予知夢ではない。だから、少なくてもサリサが捜索に山に入る時点では、まだ、事故は起きていないはずだ。
「この時期にしては珍しいですね。これほどに気が落ち着いているのは」
「乱れたら……助かるものも助からない」
まだ、雪原が広がる馬の背を歩きながら、サリサは呟いた。
その足跡は、雪の上に残ることがなかった。捜索隊には、サリサの結界が働いていて、たとえ彼らが崖から落ちそうになったとしても、その範疇にいれば落ちることはないのだ。
だから、ラウルよりもずっと早く、移動できる。それでも、山頂に至るまでに夜を過ごさねばならない。
サリサは、霊山の気と溶け込むようにして眠り、起き、祈りを捧げて、さらに上を目指した。
その頃、ラウルは山頂近くの北の壁にいた。
落ちれば命のないような場所だった。だが、あと、ほんの少しの所に、大きく輝く無色透明な石を見いだしていた。
足場は悪く、綱はもう残り少ない。命綱を外さなければ、そこに手が届かない。
朝日を受けて七色に輝く金剛石は、まさにエリザだった。
手を伸ばせば触れ合いそうなのに、触れられない。あと……少し。あと、一歩上れば、手が届くのに。
そこは、もう神のごとき人だけが触れられる境地なのかも知れない。ラウルの入る隙間はないのかも知れない。
だが、ラウルは欲した。
きっと、エリザが最高神官を愛することで幸せになれるならば、心が引き裂かれても諦めたかも知れない。でも、エリザは不幸だ。愛してはいけない人に囚われていて、常に不幸だ。
その呪縛を解き放してあげたい。
それには、あの、目の前の石が必要だ。
最高神官の力の及ばない場所で、平凡だけれども幸せな、新しい生活を始めるために。
ラウルは、自分の持ちうるだけの力を振り絞った。
銀の結界が身を包む。その力を信じて、命綱を外した。そして、さらに上に向かい、つるはしを当てた。
足場は悪かった。だが、ラウルはついに、石のところまでやってきた。
手の中で、七色の光が輝いた。磨く前にして、これだけの力がある石である。きっと、ジュエルを守るだけの力があるにちがいない。
ラウルは、その石を外そうと、つるはしを振るった。
が……。その瞬間。
突然、足下がガラガラと崩れ、大きな崩落となった。
ラウルはあわてて、巻き込まれないよう、体を捻った。銀の結界がかすかに働き、ラウルの体を持ち上げた。
かろうじて、つるはしで岩にぶら下がっている状態。
ラウルには、ふたつの選択肢があった。
ひとつは、命綱を結んだ拠点の岩棚に飛び降りることである。そうしてしまうと、崩落してしまった岩を上ることはもうできず、金剛石を諦めるしかない。
もうひとつは、つるはしの引っかかっている岩場までよじ上り、金剛石を採取することである。ただ、今はどうにかラウルの体を支えている岩場が、崩落しないとは限らない。いや、今崩落した部分と同じ岩質であることを考えると、崩落すると考えたほうが正しい。
無理をして、エリザを悲しませないと約束した。
「ここまで来て……くっそ!」
ラウルは、岩棚に飛び降りようとした。だが……。
――霊山の恩恵を受けて、暮らせればいい。
急にエリザの言葉を思い出した。
きっと、石がないと、彼女はラウルに言うだろう。
――最高神官の恩恵を受けて、ずっと暮らせればそれでいいわ。
霊山の呪縛に縛られつつ、彼女はそれを良しとする。
ラウルには、それが我慢できない。
エリザは、ラウルと結婚しても、常に精神的な支えを最高神官に求め続ける。彼女の心は、常に、手の届かない高みにある人のものなのだ。
「だめだ! あの石は、僕のものだ!」
ラウルは、飛び降りるのを躊躇した。そして、つるはしの上に体を乗せようと、力を入れた。
そのとたん、つるはしが掛かっていた岩が崩落した。
ラウルの体は、崩れ落ちる岩とともに、真っ逆さまに落ちていった。
突然、ラウルの目に崖が逆さに広がった。
真っ青な空の下、灰色の岩肌と真っ白い雪が、目に飛び込み、ものすごい勢いで迫ってきた。
――ぶつかる!
だが、同時に何かがラウルの体を引き上げた。
古代ムテの呪文が、心の中に響いてきた。その安らかな音で、ラウルは朦朧とした。
落下死の恐怖は薄れた。落ちた痛みも少なかった。
だが、体はバラバラになり、胸の悪さだけは拭えなかった。
ラウルは、間違いなく命を失うだろう高さから落ちた。
しかも、崩落してきた岩の下敷きになり、動くことができなくなった。かろうじて命を留めたが、時間がたてば死に至る。
――なぜ、このような無謀なことをしたのだろう?
死を目の前にして、ラウルは笑えてきた。
何人も命を落とした者の話を聞いてきた。それでも石を採る魅力に取り憑かれ、危険な冒険を繰り返した。
だが、無事に帰ってこられたのは、採石師としての自身の力をわきまえていたからだ。
なのに……。
最高神官と対抗して、無謀を働いた。
神のごとき人と競って、勝とうとした。
その結果が、これだ。
さらに皮肉なことだが、即死するはずのラウルを救ったのは、その最高神官の力だ。
本来、ムテは物理的な力を発することはない。だが、どうやら最高神官サリサ・メルに至っては、ムテを越えた力を持っているようだ。
頭上に、チラチラと銀色の光が見えた。
一瞬、鳥かと思ったが、山に似合わない長衣をはためかせた人だと気がついた。
神々しいまでの姿。
最高神官を浮かせているのは、結界の力だった。ラウルが力を振り絞ったところで、自らを崖の上に留めておけなかった力である。
銀糸の髪を宙に躍らせながら、最高神官は、空中の道なき道をゆっくり降りてきた。ラウルは、その道を通ることなく、ただ真っ逆さまに落ちたというのに。
あまりに力の差を感じて、ラウルは苦笑した。
そのとたん、気持ちが悪くなり、ぶほっと血を吐き出した。
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